第7話 鈴木は朝起きて異変に気がつく ⑤

 気がつくとマンションの一階にいた。暗い気持ちでエレベーターに乗り込もうとする。

 しかし、エレベーターには白い紙が貼られていた。

 エレベーター故障中。

「おぉぉい!」

 思わず発狂した。瞳からは涙が零れる寸前だった。

 膝を曲げずに階段を上ることは至難を極める。しかも八階まで。一段一段ジャンプして上るしか方法がない。

 鈴木は散々頭を掻きむしった後、ジャンプを始めた。

 これはかなり危険だ。膝が使えないとろくに上にも飛べないし、着地後のバランスもとれない。人体における膝の重要性を痛感する。

 時々後ろから人がきて怪訝そうな表情で鈴木を見ながら、膝を曲げて階段を上っていった。

「俺はそれができないんだよ」

 その人がいなくなってからそっと呟く。鈴木がまだ階段を上がっている間にも、あいつは優雅にシャワーを浴び始めるのだろう。憎悪が湧き上がってくる。

 憎悪はくだらない思考を呼び寄せる。

 聞くところによると、会社は鈴木と佐藤のどちらかを切ろうとしていたようだ。そう考えると、黒幕は佐藤説が浮上する。佐藤が俺を蹴落とすためにこっそり家に侵入し俺の膝を破壊、それからついでにエレベーターも破壊と……。

 鈴木は足を踏み外し、十段ほど下に滑り落ちた。佐藤を悪者扱いした罰が降りかかったのだろう。佐藤は好青年だ。例え膝を破壊する術を知っていてもそれを同僚に使うような男ではない。

 うつ伏せの状態で鈴木は五分ほど泣きながら喚いた。

 もちろん、痛みのせいだけど。

 ようやく八階の家に到着した。マンションの一階に着いてから既に三十分も経っていた。

 汗を拭い、怒りをため息にして全てを吐き出そうとする。家族の前で個人的な怒りを出すような父は最低だ。

 息を吐き切ると、冷静な自分が顔を出した。正直自分史上最も絶望的な状態ではあるが、やるべきことがあるのなら、まだ本当の絶望ではない。

「明日から仕事探しだ」

 決意が体に漲った。


 が、意気込みも虚しく仕事探しは難航した。昨日は手助けしてくれるようなニュアンスのことを言っていたはずなのに、会社はもう我関せずの態度である。何度電話しても切られる。鈴木は今年で三十一。若いといえば若いが、会社をクビになったのだ。若くないと判断されてしまう歳でもある。さらに困ったことに、足の疲労が限界を迎えてしまった。昨晩の階段飛びの疲労が翌日まで繰り越し、今朝の階段飛び下り編の途中で足が何度もつったのだ。せっかく初日から会ってくれると言っていた会社が一社だけあったのに、そのせいで遅刻だ。謝罪の電話はつながらない。

 知人のつてもあって、面接までは難儀なくいくのだが、膝が曲がらないことを話すたびに先方の興味が瓦解するのを察する。結局その後に連絡はこない。

 もちろん空いている時間には様々な病院に足を運んだ。膝さえ解決すれば、仕事を手に入れられる可能性は十分にあった。しかし、どこの病院でも、待っていたのは医者の当惑した表情だけだった。

 家族にばれないよう、いつも出社する時間には家を出なくてはならないし、いつも帰ってくる時間には帰らなければならない。

 進展がないまま、数日が過ぎてしまった。

 危機感は増大。膝は回復の兆しなし。

 病院にいっても膝の原因がわからなかったという話を聞き、楽観的な祥子も鈴木のどんよりした様子を心配した。しかし、鈴木の中に膝以外の問題があるとは気づいていないはずだ。

「最近、仕事の調子はどう?」

 ある日祥子が聞いてきた。心臓が飛び跳ねる。

「ど、どうして?」

「んん……何となく。膝が曲がらないと仕事やりにくそうだな、と思って」

「別に大丈夫だよ。大変だけど、皆がサポートしてくれるからね。いつも通りに仕事してる」

「そう、ならよかった」

 祥子が笑ったので、鈴木も笑った。うまく笑えた気がしなかったが、祥子はその場を去った。

 鈴木は俯いて長く長く息を吐いた。

「どうしよう」

 焦る気持ちとは裏腹に、その後も仕事が見つかることはなく、膝が治る気配もなく、一日また一日と時間が過ぎていく。


 鈴木が彼女と出会ったのは、そんな絶望のさなかであった。

 淀んだ気持ちで階段をジャンプする鈴木を、その女性は地上から微笑を浮かべて見つめていた。



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