第520話 学ぶという言葉の本当の意味
昔、哲学などの分野を切り開いた人物は
ヨーロッパ圏内ではソクラテス。
アジア圏内では孔子であった。
まだ孔子が若い頃、ある儒教の管理室で学び、
国元に戻る時が来た。その時、孔子はその儒教の管理人である
年配の人に、最後に教えを乞いたいと言った。
その老人は、「口は禍の元なり」だと言った。
その言葉は孔子も知っていたが、お礼を述べて国に帰った。
孔子は若くして儒教や哲学を学んでいた。
昔の中国では朝には必ず朝礼として会議が開かれた。
紀元前550年ほどの話であるが、日本に多くの事が入ってきた。
これもそのひとつと言えよう。
孔子は朝礼で、本当に分からない事を上役である人に尋ねた。
ソクラテスもそうであったが、自分が知らないことは無数にあり、
己が賢いということを知らなかった。
上役からすれば、馬鹿にされているような気分になり、
連日それが続き、ついには牢獄に入れられた。
この時になって孔子は初めて、学ぶという意味を知った。
儒教の館の主である老人の言葉。
「口は禍の元なり」彼は言葉は知っていたが、経験はしていなかった。
自分が知っている事でも、経験することにより限りなく100%の理解に
近くなる。経験しても何故100%にはならないのかは、状況次第でもあるからだ。
今までこの地球に生まれ落ちた人間全てが、間違いを犯し、苦痛の中で生きている。
ある哲学者は「生きるということは、目には映らないものであり、どんなに資産があっても、どんなに地位が高くても、己の願望や想いが遂げられるものではない。
それは全ての人間に課せられたものである」
私は裏表の世界を知っている。だからこそそれは容易に理解できる。
そして体験もした。体験をして初めて知ったことは多かった。多すぎて狂う寸前まで行った。
しかし、それにも理由があり、他人から見ればただの錯乱状態としてしか見て貰えない。それがどんなに深い苦痛や苦悩であっても同じだ。
つまりは体験せずして知った顏をするのは、愚か者だということだ。
しかし我々が体験できるのは、ほんの一部でしか無い為、勘違いや誤解を招く事も多々ある。人間は非常に複雑な生き物ではあるが、一度、完全に落ちたら、這い上がるのは難しい。
どんな状況下であっても、それだけは確かな事だ。
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