邪神の刺客

 心の優しい曹沖は、賈詘かくつの体についた泥を手で払って綺麗にしてやると、後ろを振り返って「鶏の鳴き声が方々から聞こえる。そろそろ夜が明けそうだね」と司馬懿に言った。


「曹丕様が心配です。急いで華佗先生の屋敷へ行きましょう」


「うん。でも、その前に――」


 曹沖の様子がおかしい。穏やかに微笑んではいるが、星の輝きを宿した双眼には、射るような鋭さがある。


(あっ。もしかしたら……)


 司馬懿の危機察知能力も、やや遅れて働き、ゾクゾクッという寒気が背筋を走った。


 曹沖の視線の先――司馬懿たちの背後で、にわかに生じた殺気。


「曹真殿ッ! 後ろから来るぞッ!」と司馬懿はとっさに叫んでいた。


「チッ! 敵の刺客か!」 


 曹真は素早く抜剣、後方より突如飛来した無数の石礫いしつぶてを鮮やかな剣さばきで全て叩き落とした。


「何者だ!」司馬懿が、闇の向こうを睨み、怒声を上げる。



 暗闇からゆったりと歩きながら現れたのは、陰気な顔をした痩身そうしんの男だった。その男は、「ああ……。だりぃ……」と気怠そうに呟くと、なげやりな口調で曹沖たちにこう宣告した。


「悪いな。その豚はここで始末させてもらうぜ。邪魔をするのなら全員ころ……したらいけないんだったな、そういえば。ちょっと訂正、曹沖と司馬懿以外の奴は皆殺しにする。逃げるのなら助けてやってもいいが」


「君は……度朔君どさくくん廟守びょうもりだな。たしか、大福という名の方術使いだったはず」


 曹沖は特に慌てる様子もなく、邪神のしもべを凝視みつめた。


 いきなり正体を見破られた大福は、わずかに眉をピクリと動かし、「なんだ……俺のことを知っているのか」と呟く。


「私の父は執念深いからね。領内で好き勝手やっている度朔君の討伐をまだ諦めてはいないんだ。だから、あの邪神をまつった廟の番人の素性ぐらいはちゃんと調べているさ。

 そして、怪異退治に強い子桓兄上と費長房ひちょうぼうがいる華佗かだ邸の襲撃には度朔君自らが赴き、私たちを妨害する仕事は手下である君に任せるであろうことは、だいたい読めていた」


「へぇ~……。噂通り、聡明なお子様なことで。しかし、俺に襲撃されることを分かっていて、たったそれだけの護衛しか連れていないんじゃ話にならない。迂闊うかつなのか、俺をめているかのどちらかだな」


「もちろん、君を舐めているんだよ。しょせん、邪神のしもべに甘んじている二流の方士でしょ? 君の実力なんて、たかが知れているさ」


「……チッ。生意気なクソガキめ。命令があるから殺しはせんが、半殺しにしてやる」


 終始だるそうにしている倦怠者のくせに、自尊心は人一倍にあるらしい。曹沖に挑発されると、光の無かった大福の目に怒りの火が灯った。


「……せいッ!」


 大福は、鋭い声を上げながら、二本の指を突きたてた右手を横一文字にふる。


 いったい何をするつもりだ――と司馬懿が警戒していると、異変は足元から起きた。


 門兵たちが地面に放り出していた斧十数ちょうが、ふわりと宙を浮き、烈しく回転しながら曹沖たちに襲いかかったのである。


「なっ……! 手を触れずに物を動かすことができるのか⁉」


 司馬懿は、驚愕の声を上げた。


 大福が得意とする方術は念力サイコキネシス。先ほどの石礫の雨も、念力で石ころを飛ばしたのである。


「そ……曹沖様が危ない! 皆の者、剣を抜け!」


 曹沖の命令で少し離れた場所にいた門兵たちは、守備隊長に怒鳴られると、おのおの白刃を片手に駆けつけようとした。しかし、彼らのもとにも数挺の斧が飛来して、曹沖たちに近寄ることができない。


「ぶ……ブゥゥゥ! 斧で首を斬り落とされて、食べられちまうブゥゥゥ! た、食べるのなら兄者の首のほうが美味いブゥゥゥ! 俺の首は不味いブゥゥゥ!」


「こ、この馬鹿弟! 兄を裏切るなブヒィィィ!」


 賈詘の兄弟は恐慌状態に陥り、口論を始めている。


「喧嘩している場合か、バカ豚! 邪魔だから、どこかの物陰にでも隠れていろ!」


 曹真は、豚の精魅もののけを怒鳴りつけつつ剣を舞わせ、びゅうびゅうと風を切り裂きながら四方八方より飛来する斧を次々と弾き返した。


 だが、大福に操られている斧はすぐに戻って来るため、弾いても弾いても、きりがない。


「クソッ……。剣をふるう手がしびれてきたぞ。なんて厄介な能力なのだ。曹沖様を守るので手いっぱいで、こちらから反撃することができぬ」


「そ、曹真殿! 俺のことも助けてくれ! ひ……ひえぇぇぇ~! 尻にかすったぁぁぁ~!」


 尻にかすり傷を負った司馬懿が泣き喚きながら抱きつくと、曹真は「馬鹿ッ。邪魔だから離れろ。お前は勝手に逃げ回っておれ」と苛立った声で言い放った。


「尻が二つに割れたんだよぉぉぉ‼ このままだと、じぬぅぅぅ‼」


「尻はもとから割れておるわ、阿呆! さっさと離れぬか!」


「ふんぎゃ⁉」


 こういう時に戦闘力が低い軍師系武将は辛い。冷たく足蹴にされた司馬懿は、蛙が踏み潰されたような声を上げ、ドスンと尻もちをついた。


「あ、あわわ……。旦那様をお助けしなきゃ。でも、どうすれば……」


 非力な幽鬼少女の小燕は、顔面蒼白で狼狽うろたえている。


 そんな彼女に、曹沖が「大丈夫だよ、小燕」と優しくささやいた。


「こういう時のために、厲鋒れいほう将軍に救援依頼の手紙を出しておいたんだから」


「厲鋒将軍? その人は誰ですか?」


「たぶん、君や司馬懿殿も知っているはずだ。……おや。噂をしていたら来たようだね」


 そう言い、曹沖は北の方角を指差した。


 小燕が見やると、大路に馬煙うまけむりがもくもくと上がっている。三、四十騎ほどの小部隊が轟駆とどろがけしてこちらに向かってきているようだ。


 荒々しい馬蹄ばていの音がだんだん大きくなってきた。それと同時に、人の声とも野獣の声ともつかぬ蛮声も聞こえてきた。



「ヒィィィーーーヤッハーーー‼」


「アヒャヒャヒャーーー‼」


「パラリラパラリラ~‼」



 奇声を上げているのは、世紀末暴走族のファッション――諸肌もろはだ脱いだ屈強な肉体の上に肩当てや胸当てを装着したチンピラたちである。彼らを率いている将軍だけは、まともな鎧を着てはいるが、ひときわ凶悪そうな顔をしている。


「ひ……ひえっ! あのおっかないおじさんはたしか……人身売買の親分!」


 小燕は、ひっくり返りそうになるほど驚き、思わず叫び声を上げていた。


 司馬懿も気づき、「うげっ。ついに来やがったか、鬼畜将軍め……」と嫌そうな顔をしている。


 厲鋒将軍、またの呼び名を鬼畜将軍。果たしてその正体は……。


「うわーはっはっはっはっーーー‼ 待たせたなぁぁぁーーーッ‼ 厲鋒将軍、曹洪そうこう! ただいま参上じゃぁぁぁい‼」

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