第14話 底抜けの奈落に、飴玉ころり

 夜明けの崖下。

 軽トラックの座席からはみ出す百舌鳥もずの体を、朝の光が照らす。肌に日差しを感じて、藤蔓ふじつるのように引きしまった五体が目覚めた。

 夏とはいえ山中は冷えるが、元より体温の高い百舌鳥にはたいした問題ではない。


 それより困ったのは、窮屈な場所で寝てしまったことの方だ。ずるずると車外に降り、痛む体を伸ばしながら百舌鳥は記憶を掘り起こした。

 どこまで現実だったのか自信がないが、軽トラックが崖から落ちていたのは事実だ。エンジンは生きているだろうが、崖から脱出するには使えない。


 首に手をやると、木の枝に貫通されたはずの傷口は痕形あとかたもなかった。

 バックミラーで自分の顔を確認すると、全体が乾いた血で奈良漬け色になっている。こすって剥がすとすぐ肌色が出たが、ずいぶんな格好だ。

 両の手も、爪の間から二の腕までべっとりと血の痕がある。


「……勘弁しろや」


 車を出てすぐ近くに、生出おいずる敬一郎けいいちろうの惨殺体があった。

 八つ裂きどころか、×かける五つで四十裂きというところか。しかも、肋骨をひっくり返し、二つに割って背中から引きずり出している。

 捜査一課所属ともなれば、凄惨な遺体を目にする機会もあるが、さすがにこれは酷すぎた。こんなことをする心当たりといえば一つ――キヨイだ。


(あの殺人鬼、どこまで変態趣味なんや)


 ライフルが通じない生出のようなものを殺せるものなど、キヨイぐらいしかあるまい。胸中で吐き捨てながら、百舌鳥はべろりと二股の舌スプリットタンを出した。

 ぐるりと周囲の空気を舐めると、二人分の味が残っている。


 濃い灰色のしょっぱさは、強い恐怖と驚き、そして苦痛。砂糖たっぷりのコーヒーのような真っ赤な苦さに、青くしゅわしゅわと炭酸が泡立つのは、加害者の味。

 前者はおそらく生出。後者は激しい怒りと冷静さ、そして快楽をもって彼を切り刻んだ。予想通りの結果といったところか。


 生出の死体は、それほど腐敗が進んでいない。

 はじけたザクロのように、みずみずしいとさえ言える。つい先ほどまでそんな凶行が起きていたのに、自分は熟睡していたかのような記憶障害。

――やはり、キヨイの仕業に違いない。


「他に教団の追っ手ぇおったら、ついでに始末してくれると楽なんやけどな」


 思っていることと逆のことを口にしながら、百舌鳥は車内に戻ってライフルを手にした。拝借した実包は尽きているが、丸腰よりは良い。

 警戒しながらあたりを見回すと、生出の死体からそう離れていない場所に道眞どうまを見つけた。きちんと首がつながった状態で、地面に寝転がされている。


羽咋はくい……」


 呼びかけるでもないつぶやきに、相手が反応する様子はなかった。百舌鳥の記憶が確かなら、これはもう羽咋道眞本人ではなく、その死体のはずだ。

 近寄ってライフルを置き、横たわった道眞の肩を揺さぶるが、反応はない。少し考えて、その頭を両手でつかみ、持ち上げる。


 べりっ、ぺりぺり、にちゃり、と。


 生乾きのカサブタのように、道眞の首は胴体から剥がれた。もうこれは人の頭ではなく、単なる傷口の蓋なのだ。そうか、と諦念の風が百舌鳥の胸に吹きこむ。

 口の中には、かすかに平静の甘味あまあじがした。

 最期の時に、何か安堵するような思いがあったなら何よりだ。道眞とは短い付き合いだったが、中々度胸のある頼もしい男だった。


 首を元の位置に戻して、百舌鳥は「南無阿弥陀仏」と合掌する。

 二人とも、ひとまずは置いていくしかない。道眞に預けていたサバイバルナイフを回収し、ライフルは捨てていくことにする。


(さあて、日ぃ暮れる前に山を下りられるとええんやけど)


 その場を離れようとした時、ざかっとノイズ音が耳朶じだを打って百舌鳥は顔をしかめた。軽トラックのカーステレオに、なぜか電源が入っている。

 崖から落ちて故障したのだろうか。止めに行こうときびすを返すと、ざかざか、つぅつぅと砂嵐のようなノイズが、徐々に明確な言葉を結び出す。


『ツ……テ……ツレ……ッ……ケ……ツレ、テ、ケ』

「なんや、葬儀屋か? 死んだんならおとなしゅう死んどけや」


 死体の方からも、カーステレオの方からも新しい味はしない。しゃべっているのは誰だ? 考えあぐねながら百舌鳥は怒鳴って返す。


『ツレテケ、ツレ、テケェ、ドーマ、ツレテケ』

「やかましい! 置いていったらどないす……」


 そこで百舌鳥は馬鹿馬鹿しくなって口を閉じた。なんで死体だらけの山中で、カーステレオ相手に不毛な言い争いをしなくてはならないのか。

 百舌鳥は道眞の死体の前に戻ると、一度捨てたライフルの銃身を握った。弾丸がない以上、こいつには鈍器として働いてもらうしかない。


「刑法第一九〇条、死体損壊罪、三年以下の懲役。成仏しろや、葬儀屋」


 仮にも法の番人としては、これから行うことに一抹どころではないやましさがあった。緊急事態だと己に納得させながら、ライフルを下段右脇に構える。

 黒葛原つづらはら一文字いちもんじ流剣術、十の組み太刀・うら五筆ごひつ切手きりて右乜ゆめの構え。いわゆる右車みぎぐるまというやつだ。破門されて八年経つが、鍛練を欠かしたことはない。

 ライフルと刀では勝手が違えど、寝ている相手の脳天を割るなど楽なもの――


「がぐっ!?」


 首から腕まで、一息に裂かれるような激痛が走る。

 凶器を取り落として首を押さえると、硬くしなやかな生木が皮膚を突き破り、こじ開けられた傷穴をざりっと樹皮がこする。枝に貫かれたフラッシュバックだ。

 本能的に命の危機を感じる激しい苦痛。がくりとその場でに両膝をつき、ぜいぜいと息を整えていると、嘘のようにその痛みは去って行った。

 肉体にダメージがあれば、その余韻は長く日常生活についてまわる。そういう後に引いた所がまったくない、幻覚のような責め苦だ。


(あの傷は現実やったちゅうことか? やったらなんで今は消えて、また痛み出しとる? ワケが分からんぞ、くそっ!)


 額に浮いた脂汗を拭うと、手に付いたままの乾いた血が滲んだ。軽トラックの方に戻って、バックミラーで確認すると、やはり何の傷もない。

 だがよく見ると、いつの間にか前髪がひと房ほど白くなっていた。

 もう一度ライフルで殴ってみるか? あらかじめ、あの痛みが来ると分かっているなら、百舌鳥はそれを耐えて殴り抜く自信がある。


「ぎがっ!? あっ、がががッ、うぐぅっ!」


 内側から何かが食い破ろうとするように、首の傷が一段と激しく痛んだ。カーステレオがまたしゃべり出す。


『コロスナ……ドーマ、トモダチ……コロスナ……ツレテケ』

「ぐ、この……おどれ……ッ!」


 化け物め。死者は墓の下で安らかに眠っていればいいものを、生者にあれこれ指図するとは良い度胸だ。自分が痛みに屈するか、我慢比べといくか。

 百舌鳥が腹をくくったところで、背後で動く気配がした。


「あれ……? 百舌鳥、無事だったんだな」


 首を断たれて死んだはずの道眞が、上体を持ち上げてしゃべり出した。こちらも、口の周りが乾いた血で奈良漬け色だ。


「葬儀屋。……念のため訊いとこか」


 もはや彼を名前で呼ぶ気にもなれない。首の痛みは去っている。


「殺人罪はええとして。生出の死体損壊はおどれか?」


 顎で死体ホトケの方を指すと、道眞は深く眉根を寄せた。


「いいや。僕にはライフルより強い殺人空手とか、そういう特殊技能はなくてね。あれをやったのは、君に取り憑いたキヨイってやつだ」

「まあ、そういうことになるやろな」


 口を鋭角なへの字にひん曲げながら、百舌鳥は警戒を解かない。


「しかし葬儀屋、おどれはずいぶん余裕やな。俺の記憶が確かなら、おどれは生出に首を斬られて死んだ。あいつの同類になったにしては、まだ正気に見えるがな」

「やっぱり、僕……首、切られたよね?」


 道眞はふにゃっと顔の力を抜き、まいったなあと微笑む。諦めと寂しさがない交ぜになったような、底抜けに明るい絶望の笑い。なぜそんな笑い方ができるのか。


 百舌鳥が知らない複雑な味がする。黒しょっぱくて青酸っぱくて、その何倍も黄甘い味。薄いとか濃いとかではなく、その色がすべて硝子のように透けている。

 味視あじみの能力は便利だが、百舌鳥はこれで得をしたと思ったことはない。食べ物の味と違って、美味いとか不味いとかではなく、いつもどれも気持ちが悪い。

 しょせんは、舌を切られて得た力。父をほふった殺人鬼が残した呪い、とでも言った方が良いだろう。

 なのに、今の道眞の味は、飴玉でも放りまれたような心地になる。


「……なんでや」


 百舌鳥はむしょうに、胸をかきむしられるような苛立ちを覚えた。

 それが、自分が動く死体になったヤツの感想か? もっと泣いて、怒ればいい。わめけばいい。イガイガした気色悪い味になる方が、普通なのに。


「なんでそう達観したようなツラをしとる」

「他の顔の仕方なんて分からないよ。君だって、死んだことはないだろ? どういう訳か、キヨイは君を死なせたくないから、僕に手伝わせたらしい」


 わけの分からない出来事の連続で苛々する。だが、我ながら不思議なことに、百舌鳥が今一番腹を立てているのは道眞の態度についてだった。

 自分が置かれた状況について、やたら落ち着き、動じない。

 大事な何かがスコンと抜けて、ぜんぶ吹き抜けになっているから、こいつの頭では奈落が明るく見えるのではなかろうか?


「ええい! スカしくさって気に食わん」


 手近にあった木の根を思いっきり蹴る。道眞が肝の据わった男であることは認めるが、こんな時までよく泰然自若としていられるものだ、と。

 それともこれは、百舌鳥自身が無力な己に腹を立てているだけかもしれない。


「誰かー? いますかー?」


 蹴った音を聞きつけたのか、少女の声がしげみの向こうからした。血の臭いが残る山野には似つかわしくない、明朗快活な声音。


「葬儀屋、動けるか? 生出を隠すど!」


 よろけつつ立ち上がりながら道眞は空を見上げた。


「まだ日が昇ったばかりだよな。なんでこんな時に!」


 あんな惨殺体を他人に見られるのはマズい。ましてや子供にはショックがキツすぎる。二人は慌てて手近な草木を集めて、生出の遺体に被せた。

 道眞が横たわっていた近くの繁みがガサガサと揺れて、小、中学生ぐらいの女の子が姿を現す。蛍光グリーンを基調にした登山ルックで、M字型の前髪に三白眼。


 くりくりとした大きな目は愛らしく、ポニーテールでまとめたセミロングの黒髪といい、はつらつとして愛嬌に満ちた顔立ちだった。

 少女は二人の姿を見るなり「うわっ血!?」と叫びをあげる。


「ええっと、いちいちきゅう!?」

「あ、いや、僕らは大丈夫、怪我していないから落ち着いて」


 スマホを取り出そうとする少女を、いち早く道眞は制した。確かに怪我人はいない。もう怪我をしても意味がない死人と死体があるだけで。


「そ、そう?」

「ちょっと事故で泥に突っこんじゃってね……」


 道眞はそれとなく軽トラックを指さした。大きく傾いた車体から、それが崖から転げ落ちたものであることは明白だ。それで一応少女は納得したらしい。

 今度は逆に道眞が訊ねる。


「君は? 山登りにきたのかい」

「あっ、あたし追切おいきりかやって言います! おばあちゃんといっしょに、おとうちゃんを探しにきたの」


 茅という名前には、二人とも聞き覚えがあった。


 まさか、そんな偶然って嘘だろう? と百舌鳥も道眞も思いを同じくする。


 少女はスマホから写真を選び、それを掲げて見せた。


「この人、生出敬一郎。おかあちゃんと離婚しちゃったから、あたしと名字が違うけど。この人、見ませんでしたか?」


 それは、生出と少女が笑顔で写ったツーショットだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る