第8章:黄金の都にて問う(1)
ばさり、と。羽音を立てて飛び立ち、南へ向けて去る
ケヒトの記憶は過去に巻き戻って、そこから進まなくなってしまった。これまでの道程を説明しても、まるで知らない御伽話を聞いているかのようにぽかんと口を開けるばかりで、しばらく時間が経つと、その記憶すら手放してしまうのだ。
弓も使えなくなった状態で遠征軍に残るのは、足手まとい以外の何者でもない。更には、外傷は癒えても、内部、今回は特に脳に、重大な損傷を負っている可能性がある。そこでクレテスがラケに頭を下げて、ケヒトを聖王教会まで運んでもらう事にしたのだ。
怨念の去ったタイタロス上空は、十数年ぶりの晴天に恵まれ、空路を見失う事は無いだろう。だが、遠ざかる魔鳥を見すえるエステルの心にどんよりと垂れ込める灰色の雲は、退く事を知らない。
自分は何もできなかった。祖国を取り戻す、という大役をやってのけたのに、大切に想う人の父親も兄も守れなかった。それどころか、彼が危機に陥っている時に加勢しようとして、自分もケヒトと同じ運命を辿りかねない無様をさらした。うつむいて目を閉じ、苛立ちも含んだ溜息を吐き出した時。
喉がつかえたかのごとき声が隣から聞こえて、はっと目を開き、振り向く。クレテスが、痛みを堪えているかのように顔をしかめて、拳を握り締めている。食いしばった歯の間から、今にも号泣を解き放ちそうな呻きが洩れるのを聞いて、より辛いのは誰かを思い知った。
どうすれば、彼に寄り添う事ができるだろうか。しばしの逡巡の後、エステルは少年に向き直ると、両手で拳を握り締め、そっと自分の胸元に引き寄せた。
「泣いて、良いですよ」小さく囁きかける。「今ここには、貴方と私しかいませんから」
途端、蒼の瞳が見開かれてこちらを見下ろしてきた。二度、三度、瞬いて、涙を溢れさせるかと思ったが、しかし続けられた言葉は。
「……あほらし」
苦笑と共に零れ落ちる台詞だった。
「そう言われて女の前で本当に泣く男がいるか?」
「なっ」
精一杯の気遣いをしたのに、一笑に伏された。同情だった気持ちは、すぐさま怒りに取って代わられる。
「男とか女とか関係あります!? というか、本気で心配しているのにそんな言い様って無いじゃないですか!」
振り払うように拳から手を離し、その手でぺちぺち相手の頬を叩けば、「いてて」と、本当はちっとも痛そうではない返しが来る。
「それだよ」
何度目かの叩きをしようとした少女の手を、一回り大きい手が力強く包み込んだ。
「お前はそうして、皆の前で気丈にしてろよ。泣きたい時に胸を貸すのは、こっちの役目だ。おれは大丈夫だから」
言われて、叔父が落命した時に、はばからず彼に取りすがり大泣きした事を思い出す。今更羞恥が蘇って、頬が熱くなった。
少年は、自分よりずっと手足が大きい。トルヴェールにいた頃、テュアンが、『手足が大きい生き物はでかくなるんだよ』と、皆で育てている真っ白な犬を撫でながら冗談じみて笑っていた。実際、その犬は小柄なロッテより大きく成長して、男子達の良い取っ組み合いの相手になったものだ。
クレテスが、周りより身長が低いのを気に病んでいたのは知っている。だが、ほぼ同じ高さで見つめ合っていた少年は、この一年で、軽く見上げるほどになった。今まで通りの高さの視線を向けようとして、唇を見る羽目になり、芋蔓式に解放戦争の決戦前夜を思い出してしまう。
結局あの夜の行動の意味を、彼に問いただしてはいない。今なら訊けるだろうか。ぐっと息を呑んで、意を決し、言葉と共に吐き出そうとした時。
「あ、いたいた、二人とも!」
リタの
「国王の部屋を探してたアルフォンスがさ、って。何やってんの」
「何でもありません続きを教えてください」
「あ? ああ。アルフォンスが、フィアクラへの詳細地図を見つけたんだよ」
早口で一息に先を促すエステルの態度に小首を傾げながらも、リタは、竜の国へ向かう
「鈍感なのは自分事以外に対してもだったんだな、君は」
彼女の半歩後ろに立つユウェインが、額に手を当ててぼやくのがエステルの耳に入ったが、果たして、リタ本人がわかっているかは、はかり知れなかった。
もう二度と、エステル達と共に戦う事は無いだろう。決戦には、間に合わない。
青空の下、魔鳥を飛ばすラケは、タイタロスを振り返らない。愛騎の手綱を操りながら、ただひたと前を見すえるばかりだった。
背後に同乗するケヒトは、自分がここにいて良いのかという戸惑いを前面に押し出している。こちらの腰に手を回す事を躊躇って、遠慮がちに肩をつかんでいる。
「もっとちゃんとつかまらないと、突風で振り落とされたりするわ」
前を向いたまま言い放つと、肩に触れる手がびくりと震えるのが伝わった。
「君が嫌がる真似はしたくない」
嫌な訳が無いのに、今の彼にはわからない。それが証拠に、戸惑い気味に、ケヒトは言うのだ。
「君と並んで飛ぶのは、レナードの役目だろう? 俺がいたら邪魔じゃあないか」
視界がぐらりと揺れるかのようだった。記憶が少年時代から進まない今の彼にとって、ラケの想い人は今も、亡き従兄のままなのだ。そこに割って入ってはいけないと身を退いていた時期のままなのだ。
きっと聖王教会に行っても、セルバンテスも悲痛な顔をして首を横に振るだろう。
記憶する力が壊れた者の話は、聖王伝説にも記されている。ある時期までの記憶は明瞭なのに、一定の時間が経つと、その間の出来事を脳に刻む事ができずに消えてしまう戦士が、それでもヨシュアの為に尽くそうと、彼と共に過ごした日々の記録を、全身に刺青として刻んだという。
ケヒトには、そんな事をしてまでこれ以上戦って欲しくない。死ななかっただけで、充分だと思わせて欲しい。
急に視界がぶれて、ラケは驚いて目をこすった。涙が覆ったのだと気づいたのは、手の甲が濡れたからだ。気づいてしまえば堰は決壊して、後から後から熱いものが感情の波と共に溢れてくる。
背を丸めて震えるのに気づいたのだろう。
「ラケ」
こわごわと。背後からそっと肩を包み込まれ、こつん、と頭が触れ合う。
「ごめん。君に泣かれたら、どうしたらいいかわからないんだ。ごめん」
「……貴方の、せいじゃ、ないわ」
明るい声を出そうとしたが、解き放たれた声は震えて、つっかえつっかえになる。上手く返せなかった後悔は、更なる
戦争が終わって、ムスペルヘイムに帰ったら、一緒に猫を飼って暮らしたかった。自分は後進を率いて空を舞い、彼は自分を守る弓矢となって、共に魔鳥騎士団の再建に努めるはずだった。その夢も、恐らくもう叶わない。ラケを守る矢は、折れてしまった。
それでも。
ケヒトはまだ生きている。これからも、彼と腕を組み支えて、一緒に歩く事はできる。もう差し伸べる手も無いレナードとは違うのだ。
(もう、これ以上)
人であった聖王神ヨシュアではなく、
(私から、大切な人を奪わないでください)
手綱さばきから主の動揺を感じて長年の相棒が当惑したか、小さな鳴き声をあげる。
「ごめんね、スズリ。何でもないわ。大丈夫、そのまま進んで」
頬を濡らすものをぐいと拭えば、今度はしっかりした声が出た。アルシオンはばさりと一度大きく羽ばたいて、雲一つ無い空を行く。
蒼穹は人の感情を推し測る事無く、太陽光を降らせるばかりであった。
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