第7章:蒼の継承者(8)

 男の身体が黒い霧と化して、どこからともなく吹き込んだ風にまかれて消えていったのを見届けたクレテスの耳に、

『息子よ』

 穏やかな低い声が滑り込む。顔を上げれば、クラウ・ソラスでぼろぼろになりながらも、しっかりと首を脇に抱えて、いつの間にか取り戻した蒼い目でこちらを見つめる、ヴェルハルト王と向き合う形になった。

『大きく、強くなったな。父として、こんなに誇らしい事は無い』

 その喋り方は、狂気の内に死んだ怨霊のものとは到底思えない。一体何が彼を正気に戻したのか。疑念を抱いて振り返れば、唇を三日月型につり上げながらカデュケウスをひらひら振るアウトノエが、視界に入った。彼女が、ニードヘグがヴェルハルトに施した魔力を解呪した、という事なのだろう。しかし。

「……おれは、あんたの事を」

 目の前の男性を、父と呼ぶ事が後ろめたい。シュタイナーの両親に申し訳が立たないし、何より、自分は今さっき、彼を敵として斬り伏せたのだから。ぐっと拳を握り締めると。

『わかっておるよ。これもノヴァの血を引く者同士故か』

 ヴェルハルトの首が、自分と同じ蒼の瞳を細めて、くすぐったそうに笑った。その穏やかな表情を見ると、彼が善き為政者として慕われていた、というセルバンテスの話はあながち誇張ではなかったのだろう、と思う。

『ただ、成長したお前の姿を見られただけでも、民を巻き添えに死したこの身には、余る幸せだ』

 大きな手が伸びてきて、ぽん、とクレテスの頭に乗せられ、がしがし撫で回してくる。物心つくかつかないかの頃に亡くなった養父ちちディアスにも、それより前に死んだ養母ははエレノアにもされた記憶の無い行為に、胸のあたりがむずむずして、何とも落ち着かない気分になる。

『シュタイナー夫妻がお前に与えた、今の名を、教えてはくれぬか』

 突然そう言われ、面食らってしまう。だが、反発する気は無かった。ひとつ息をついて、素直にその名前を舌に乗せる。

「クレテス。クレテス・シュタイナー」

『……クレテス』

 熟した葡萄酒ワインをゆっくりと味わうかのように、ヴェルハルトが口の中で繰り返し、再び目を細める。

『良い名だな。フォモール時代の言葉で、守護の精霊を表すものだ』

 思わぬ返しに、目を丸くしてしまう。生前は、神話や伝説にも通じる、博識で勤勉な人だったのかもしれない。

『クレテス。今こそお前にこれを託そう』

 ヴェルハルトが、首を抱えていない方の手を宙にかざすと、蒼い光が集い、手のひら大の銀の紋章の形を取った。蒼い石を抱き、クラウ・ソラスを意匠モチーフにしているのは、間違いなくノヴァの紋章だ。それがゆっくりと、クレテスの眼前に落ちてくる。両手で受け止めて、しばらく見下ろしていると。

『クレテス、生きよ』

 ヴェルハルト王が、果てしなく優しい声で、告げた。

『その名の通り、このシャングリアの守護者たれ。ノヴァの血族である誇りを胸に』

 返事は喉につかえて、すぐには出なかった。うなずきたいのに、後ろめたさが邪魔をする。二度、三度、躊躇うように視線を外すと、再びぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。その手が離れてゆく。いや、ヴェルハルトの身体が光の粒子になって、消えゆこうとしているのだ。

「――父さん!」

 反射的に、言葉は口から飛び出した。半分消えかけたヴェルハルトの首が、驚きに目を見開き、それから、ゆるりと微笑む。その印象を最後にして、彼の姿は完全に消え失せる。血の魔法陣も赤を失い、幾年いくとせをも経た古きもののような褐色になって、周囲から怨念の気配は去っていた。

 最後に、親子らしくなれただろうか。ひとつ、大きく溜息をつき、床に落ちたクラウ・ソラスを拾い上げて、鞘に戻すと、それきり魔法陣に背を向ける。

 もう一人の、大事な家族を失くさない為に。

「クレテス……」

 トルヴェールの幼馴染達が集まっている所へ近づくと、気づいたエステルが潤んだ瞳でこちらを向いた。最悪の可能性が脳裏をぎる中、皆が場所を空けてくれるのに従って、ケヒトの傍らに膝をつく。

 もう一人の自分に吹っ飛ばされた兄は、まだ目を開けてはいなかった。ロッテの回復魔法で、見た目こそ止血され、骨が折れたりしている様子は無かったが、あちこちについている赤が、受けた衝撃の強さを物語っている。ラケが蒼白の表情で彼の手を握っているが、握り返される様子も無く、だらりとしたままだ。彼女にとって、レナードに続いて、ようやく安息を得られた相手を失うかもしれない恐怖は、とてつもないものだろう。

「……兄貴」

 静かに呼びかけると、ラケの握った手がぴくりと動いた。ゆるゆると目蓋が持ち上がり、ぼんやりと宙を見つめる。幼馴染達から、ようやく安堵の吐息が洩れた。

「ケヒト!」「良かった」「ったく、心配させやがって!」

 皆が口々に歓喜し小突く中、ケヒトはゆっくりと皆を見渡し、そして。

「どうしたんだ、皆?」

 やけに無邪気な口調で、微かに笑った。

「俺、木から落ちたかな? またクレテスがマイスと張り合って、調子に乗って降りられなくなってたか?」

 その台詞に、皆が一斉に口を閉じた。沈黙の意味がわからない、とばかりにケヒトは辺りを見渡して続ける。

「ごめん、ちょっと記憶が無くて。ここはどこだっけ? トルヴェールに、こんな建物があったんだなあ」

 ラケが目を見開いて絶句した。彼女だけではない。エステルも、リタも、ユウェインも、ロッテも、リカルドも。明らかな異変を察して、表情を凍らせている。

「何だか腹が減ったな。昨日の熊肉が残っていたっけ。ジル婆さんに熊鍋にしてもらって、皆で食べようか」

 あくまで明るい調子で語るケヒトとは対照的に、ラケの瞳が見る間に濡れて、一筋が頬を伝う。想い人の名を繰り返しながら嗚咽する彼女を、本人は不思議顔で見つめるばかり。

 リタが歯を食いしばって振り下ろした拳が、石の床にひびを入れた。


 ヴェルハルト王を縛っていた怨念が無くなった事で、不死者も浄化され、タイタロスを覆っていた瘴気は消え去った。

 幽霊が出なければ恐れる必要は無い。クラリスは、天性の勘を頼りに城下街を歩き、目指す人物を見つけた。

 白の混じった薄茶の髪が、死都を流れる風に吹かれて揺れている。完全に崩れ落ちた一軒の家屋の前で、ピュラ・リグリアスは立ち尽くしていた。

「覚えてるんだわ」

 背後数歩の所に立つと、流石は戦いの天才である聖剣士。気配を感じ取ったのか、彼が口を開いた。

「間違い無い。ここが俺の家」

 崩れている範囲を見ても、そんなに広い家ではない事がわかる。ただ、瓦礫の量から、二階建てであったのだろうと推測する事はできた。

「親父はラヴィアナ騎士で、お袋は、王家の乳母だった。弟が産まれたのは、俺が六歳の時だったか」

 灰色の雲が立ち込める空を見上げて、ピュラは訥々と語る。クラリスは、口を挟まず聞きに徹する。

「それからしばらくもしない頃だな。お袋が弟を連れて城に行って、帰ってこなくて。親父は俺に短剣を握らせて、ただ、『生き延びろ』だけ言って、出ていった」

 その後に何が起きたか。想像するのは、聡いクラリスでなくとも容易い。

「炎の中を、駆けて、駆けて。たまたま王都から逃げる馬車に引き上げてもらって。俺は運が良かったよ」

 でも、と。ぽつり、呟きが落ちる。

「弟は、十七年経っても、苦しんでたんだなあ」

 彼の肩が細かく震えた。大きいはずの彼の背中が、なんだか小さく、頼り無く見える。

「ごめんな、レト」

 ごめん、と、人の名が、涙声で交互に繰り返される。弟の怨恨を自分の手で断ち切る事が、彼なりのけじめのつけ方だったのだろう。だが、仮初めの黄泉返りとはいえ、肉親を手にかけて何も感じない氷のような男ではない事を、クラリスは知っている。

 幼くして家族を失った者同士として、面倒を見てくれた。雷に泣いた夜、眠りに落ちるまで傍らで本を読んでいた。軍師になると決めた時、『なら、俺はお前の剣になろう』と言ってくれた。

 どうすれば彼に報いる事ができるか。逡巡は数秒だった。そっと歩み寄り、背後から彼の逞しい胸板に手を回して。

「わたし」

 毅然と、決意を述べる。

「グランディアに帰ったら、騎士になります。策を立てながら槍を振るう事は、きっとできるはず」

 そう。自分はもう守られるだけの存在でいたくない。彼と並び立ち、戦場を駆けて、命果てる時まで運命を共にしたい。ただの憧れだった気持ちは、確固たる信条に変わっている。

「ガキが、一丁前に粋がって」

「そのガキの前で泣いているのは、誰ですか」

「泣いてねえし」

 そう返しながらも、はなをすする音がしたのには、聞こえない振りをして、クラリスはうっすらと口の端に笑みを浮かべる。

「そういう事にしておきましょうか」

 雲間から、太陽の光が差し込み始める。それを『天使の梯子はしご』と称したのは、聖王伝説の正伝だったろうか。希望の光に照らされながら、青年と少女は、しばらく言葉もなく、その場に佇んでいた。

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