第7章:蒼の継承者(5)
「エステル!」
魔族の青年が現れると同時、聞き慣れた声が耳を刺す。青年の後ろから駆けてきたのは、金髪の少年だった。
先程の魔族の少年が化けていたのを思い出し、一瞬身を固くしたのに、気づいたのだろう。クレテスは表情を強張らせて足を止め、一瞬躊躇った後、のろのろと歩み寄ってきた。
「……本物だよな?」
ぷに、と両頬をつままれて、「ぷう」と声が洩れる。離れ離れになっている間、彼がどんな目に遭ったのかは想像に難くなかった。だが、もう少し別の確認の仕方があるだろうに。ふて腐れると、少年は「悪い悪い、ごめんって」と両手を離した。
今は彼の言動に腹を立てている場合ではない。エステル達がお互いの無事を確認している間、影のように黙ってそこに立っていた魔族の青年の方へ、二人揃って向き直る。
「聖王教会の時のように、すぐに姿を消さないという事は、今度は、私達を導いてくださるという事でしょうか」
問いかければ、青年は白い髪をさらりと流して軽く頭を下げ、「はい」と静かな礼をした。
「正確には、導くのは私ではありません。我が主が、貴女方をお待ちしておりました。長い間」
「待っていた?」
「共に来てくだされば、おわかりいただけるかと」
クレテスが片眉を跳ね上げると、魔族は顔を上げて踵を返し、霧の中を知った道のように歩き出す。エステルとクレテスは、その背から視線を外して、互いを見やった。
騙されている可能性もある。味方の振りをして油断させ、より危険な深みへ引きずり込む、魔王教団の姑息な手口かもしれない。
しかし、と思う心がある。
母はどんな相手も信じようと腐心して生きた。カレドニアのバルトレット王のように、対話に応じてくれる可能性が果てしなく低い者にも、まずは手を差し伸べた。その生き様を継いで女王になるならば、この背中には、斬りかかるべきではない。
ぐっと唇を引き結び、しっとりと湿った腐葉土を踏み締めて、エステルは歩き出す。半瞬遅れてクレテスが並び立ってくれた事を、嬉しく思う。やはり、自分の隣には、彼がいて欲しい。
湧き上がる熱に胸を高鳴らせながら、どれだけ歩いただろうか。急に視界が開けて、澄んだ泉が広がる。その
魔族の青年が彼女のもとへ歩み寄り、恭しく膝をつく。
「お帰り、オディナ」
「お連れしました、アウトノエ様。遅くなり、申し訳ございません」
「別にいいよ。思ったよりは、早かった」
オディナと呼ばれた青年に、アウトノエと呼ばれた少女は淡々と返す。彼女がオディナの言う『我が主』なのだろうか。エステル達が戸惑っている間に、少女がふと手を止めて立ち上がり、ついと振り向いた。
魔族であるには違いない。黒髪に大きな漆黒の瞳、尖った耳は間違いなく魔族の特徴だ。だが、その肌は周囲の霧のごとく白い。血色の良い唇が、白の世界の中でより赤い印象を刻む。誰かの上に立つには随分と幼い顔立ちをしているが、二百年近くを生きる魔族の年齢は、人と同じ尺度では測れない。
全てを見透かすかのような瞳が、エステルとクレテスを順繰りに見つめた後、親しげに細められる。ゆっくりと歩み寄ってくる彼女の背丈は、エステルを見上げるほどに小さい。
しばらく黙って見つめられ、居心地が悪くなってきた頃、少女はにっこりと笑って小首を傾げた。
「やっと会えたね、エステル、ノヴァ」
名乗ってもいないのに名前を呼ばれた事、クレテスの本名を言い当ててきた事に、エステル達は二人同時に身構える。だが、アウトノエは敵意も何も無い、むしろ、旧友に会うかのような笑みを顔に満たして、その場でくるりと一回転してみせた。
「仕方無いじゃない。あたしは、『視る』だけで、そのひとの事、全部わかっちゃうんだから」
真正面でぴたりと回転を止め、「ああ、それとも」と少女はクレテスの方を向く。
「もらった名前の方が気に入ってる? 産みの親より育ての親、って、人間の慣用句、だっけ?」
どこか浮き世離れした言動に、こちらが唖然としていると、アウトノエはぷくりと頬を膨らませて唇を突き出し、いじけたように地面の小石を蹴った。
「信じてないでしょ」
「いえ、そんな事は」
「ある」
黒の瞳がまっすぐに射抜いてくる。相手の事を全て見透かすというならば、今、自分が抱いている不信感も誤魔化しようが無い。横に視線を滑らせれば、クレテスも少し青ざめて、冷や汗をかいているのがわかった。
「魔王教団を、レディウスを、倒したいんでしょ。でも駄目。貴女達だけじゃ、絶対に勝てない」
「それは、『視た』からですか」
アウトノエの言葉から推測を立てて問いかければ、少女は満足げに唇の両端を持ち上げた。それが肯定だ。自分達の敗北を告げながら婉然と立つ彼女の本心を理解するのに苦しんでいると。
「でも、大丈夫」
少女は笑みを深くしたかと思うと背を向け、両手を頭上にかざす。
「あたしを連れていって、外の世界へ! そうすれば、運命は変わる!」
途端、アウトノエを避けるかのようにざっと霧が退いたかと思うと、瞬く間に視界が晴れてゆく。深緑の森の姿が露わになり、しっとりとした木漏れ日に、目がくらくらした。
「あ、アウトノエ様!?」
慌てふためいた様子の声の方向に、アウトノエが心底うんざりした表情を向ける。エステル達も倣って視線を転じれば、十数歩ほど離れた距離にいた、魔王教団員と思しき黒ローブの男が、動揺を隠さずに一歩、二歩、後ずさった。
「幻惑の霧を消すとは! 憎き人間の味方をなさるおつもりですか!?」
「あたしは、エステル達と一緒に行くの。邪魔しないで」
アウトノエに睨まれた魔族は、しばらくふるふると身を震わせていたが、なけなしの勇気を振り絞ったのだろう。闇魔法の詠唱を始めた。クレテスが腰のクラウ・ソラスに手を伸ばし、オディナが魔法障壁を展開しようとする。
だが、誰よりも速く動いたのは、アウトノエだった。刃の無い湾曲した黒い短剣を取り出したかと思うと、魔王教団員に向ける。たちまち、黒い
「アウトノエ、様……裏切るかっ……!」
魔族はもがきながら必死に手を伸ばすが、そこまでで、全ての魔力と生命力を吸い上げられた身体はあっという間に干からび、その場に倒れて動かなくなった。
解放軍がさんざん苦しめられてきた魔族を、武器を振り回したのではないにしろ、華奢な腕でこうも簡単に倒してしまった事に、エステルは驚嘆し、改めてアウトノエの武器を見て、目をみはった。
「その武器は、もしかして」
「もしかして、ってカデュケウスじゃない。四英雄の子孫なのに、知らないの?」
少女が与えた答えに、クレテスと二人で更に愕然としてしまう。『英断魔将』リグが振るったという、ヨシュアのロンギヌス、ノヴァのクラウ・ソラス、ヌァザのドラゴンロードに並ぶ、伝説の神器の名だ。それを使いこなせるという事は。
「まさか君は、リグの子孫なのか?」
クレテスが呆然と洩らしても、アウトノエはやはり微笑をたたえたまま小首を傾げて、カデュケウスで己の頬を小突くばかり。
「そんなの、どうでもいいじゃない。さ、行こ。道はわかるから」
武器を仕舞い込み、少女は先導して歩き始める。エステルは、アウトノエの後を影法師のように黙ってついていこうとしたオディナを呼び止め、小声で囁く。
「彼女は、何者なのですか」
「アウトノエ様の父君は、魔王教団の」
瞬間。
オディナが弾かれたようにアウトノエの方を向き、完全に硬直した。何事かとエステルとクレテスがそちらを見やった時には、少女は再び背を向け歩き出していたので、どんな表情をしていたのかうかがい知る事はできなかったのだが。
「……魔王教団の一員ですが、母君が、ウルザンブルンの出身です」
「ファティマと同じなのですか」
ウルザンブルンの民が、ひとの心や未来を見通す力を持っている事は、アルフォンスの
しかし、視線だけで従者のオディナを黙らせる威圧感を放つ彼女は、一体どんな秘密をその小さな身に抱いているのか。今のエステル達にははかり知る事ができなかった。
「エステル様! クレテス兄様!」
アウトノエの後をついて森を抜けると、遠征軍の仲間達が不安げな顔を見合わせている場面に出くわした。真っ先にエステル達の存在に気づいたクラリスが、心底安心したという明るい声をあげ、駆け寄ってくる。
「ったく」彼女の後ろからついてきたテュアンが、深々と溜息をついて、エステルとクレテスを二人ごと抱き締めた。「お前達に何かあったら、
それから、彼女はアウトノエとオディナを胡乱げな目で追って、「あいつらは?」と声を固くする。
「少なくとも、敵ではありません。私達を助けてくれました」
今は全てを語る時ではあるまい。そう判断して簡潔に答えると、テュアンは心中複雑そうな顔をしたが。
「まあ、お前が信じるって言うなら、それに従うまでだ」
彼女も深くを追及する事は無く、エステルの頭をぽんぽんと軽く叩いて、手を離した。
実際、よくわからない仲間を増やしてしまったが、エシャラ・レイの時も、悪人ではないと判断した結果、フォモールの王という、大きな戦力を獲得した。今度も自分の勘を信じて良いだろう。
そう決意して見つめる先で、アウトノエは手持ち無沙汰にカデュケウスを取り出してもてあそび、オディナは相変わらず彼女の傍で静かに佇んでいた。
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