第4章:緋翼(11)

 サムリアでジャンヌ王女と邂逅を果たしたエステルは、彼女との約束通り、十日後のカレドニア王都ノーデ到着を目指して進軍する事にした。

「今度こそ、影武者が顔を見せて油断させる為の策だ」

 そう騒ぎ立てる声は少なからずあがったが、エステルは彼らに向けて毅然とした態度で言い放った。

「信じられないのならば、軍を離脱しても構いません。ジャンヌ王女を信じられないと言うならば、そのお言葉に従い策を立てる私も信じられない、という事でしょうから」

 そのあまりにも強気な態度には、アルフレッドはじめ、古くからエステルを知る者達も度肝を抜かれたようだった。だが、エステルの心の中には、差し出した手を握り返してくれたジャンヌ王女の笑顔が宿っている。あれだけ真摯な態度を取る女性ひとが、自分を欺くはずが無いと、たった数週の間に、歴戦の友のような信頼感を、彼女に寄せていたのである。


「兄様」

 アルフォンスのもとに、ジャスターに伴われたファティマがやってきたのは、出立に向けてカルミナ中が準備の慌ただしさに追われている最中だった。家臣を通してカルミナに残るように言い含めた義妹はしかし、回復魔法の魔力が込められた魔道の杖を握り締めている。腰まであった長い髪は肩口で切り落とされ、凜とした菫色の瞳が、しっかと義兄を見つめてきた。

「わたしも解放軍に同行させてください」

「何を言っているんだ」

 この義妹が、叔父に関して何かを『視た』事は、挨拶をした時に察した。これだけ大勢の人間の中にいては、更に多くの未来を『視る』事になるだろう。そういった心労から遠ざける為、また、『視る』力をおぞましいと思われ、迫害を受けない為、今までもノーデの実家に置いて、出来る限り人目に触れないように過ごさせてきたのだ。

 だのに今、ファティマは自分の意志を曲げないとばかりに、言い募るのである。

「兄様やエステル様が戦っておられるのに、わたしだけ逃げてばかりではいられません。回復魔法が使えますから、後方支援ならできます。決して兄様の足手まといにはなりません」

 それに、と一拍置いて、彼女は指先が白くなるほどに強く、杖を握り締める。

「もう、独りで家に残されるのは嫌です。兄様の未来を『視る』不安に駆られて過ごすくらいならば、しっかりと自分の目で現実を見つめたいのです」

 その台詞に、アルフォンスはただ驚嘆するしかなかった。養親亡き後、自分が守りきらねば、と思い続けていた義妹が、これだけの芯の強さを、華奢な身の内に秘めていた。それに気づかず、一人で躍起になっていた自分に恥じ入るばかりである。

「坊ちゃま、腹を括りなさいな」

 ジャスターがしなを作って顎に手を当て、くすくす笑う。

「あの泣き虫だったファティマお嬢様が、ここまでおっしゃるんですもの。あたくしでも止められませんよ」

 腹心にそこまで言われては、自分も覚悟を決めるしか無い。アルフォンスは長い長い溜息を吐いた後、ファティマの菫色の瞳を覗き込んだ。

「もう二度と、僕を心配して無茶な真似はしないでくれ。約束できるか」

「……はい!」

 事あるごとに自分の為に生命を懸けられては、こちらの心臓がもたない。幼子に言い聞かせるように問いかけると、自分の意見が受け入れられたとわかったのだろう。義妹の表情が少しほころび、嬉しそうに首肯する。

 その表情を見る度に、アルフォンスの胸は締めつけられるかのように苦しくなる。笑顔は自分だけに見せていて欲しい。一番近くにいて欲しい。他の誰にも義兄の特権を渡したくない。

 それが、『義兄』という立場に甘えた、兄妹の愛情を超えた感情である事を、他人の心の機微に聡いアルフォンスが、自覚しないはずが無かった。


 カルミナ砦を発った解放軍は、ジャンヌ王女との約束通り、アイシア山麓を進軍する。不毛の大地であるカレドニアだが、麓には針葉樹の森が広がり、行軍を空から隠してくれる。魔鳥や魔獣はその空を征くが、敵兵とかち合う事は無かった。

 十月十九日。ジャンヌ王女との約束の日の前日に、解放軍は、首都ノーデを臨むバスク台地まで辿り着く。


 だが、その日、ノーデには、大いなる変転が訪れていたのである。


 カレドニア王女ジャンヌは、一人ノーデ城内の廊下を歩いていた。父の衛兵達には袖の下を渡して、人払いをしてある。そもそも、娘が父の部屋を訪れるのに、不審がる者もいなかった。

「何をしにきた、ジャンヌ」

 扉を開くなり、あからさまに拒絶の色を含んだ声が投げつけられる。父バルトレット王は、ソファに身を沈めるように座り込み、どろりと濁った目をこちらに向けた。

「アルフォンス……エルネスト……グリッド……。どいつもこいつも役立たずばかりだ。まさかお前も、儂の命に背く腹づもりではないだろうな」

 無能と断じた将軍達の名を上げ連ねながら、父は酒瓶をあおる。果てしなく頑固で厳しいが、夜も酒をたしなまず、日が変わるまで、国の為に何ができるだろうかと書物をめくり、山積みの書類に目を通して過ごす。そんな父の背中を見て、ジャンヌは育った。母が早くに他界して、親が傍にいてくれない夜に一抹の寂しさはあったが、その背中を誇りに思った。自分もいつかこの人のように国の為民の為に尽くすのだ、という決意を、父は幼い娘に与えてくれた。

 だが、今はどうだ。傾いた国をどうにかして立て直した英傑の姿は去り、酒に溺れた意固地な老人が一人、そこにいるだけだ。

「儂に逆らう者は許さんぞ……。片端からグリフォンの餌にしてくれようぞ」

 いくら外部から冷血漢となじられても、民に対してそんな無慈悲な言葉を下す人ではなかった。

 いつからこうなったのだろう。考えて、ジャンヌの脳裏に、ひとりの姿が浮かぶ。

 ニードヘグと名乗った、帝国お抱えの魔族。彼が現れて帝国への恭順を囁いた時から、父は狂っていった。そう、狂ったのだ。「カレドニアの為」と称して、帝国の狗として諸外国へ攻め入り、時に王族の首級を挙げ、時に街一つ丸ごと、老若男女を問わず虐殺した。

 何も言わずに放置したのは、娘である自分の罪だ。真に家族ならば、アルフォンスのように、煙たがられても怒鳴られても、何度でも諭すべきだった。だが、もう道を戻れない場所まで来てしまった。

 ならば、自分が為すべき事は、たった一つだ。

「父上、いえ、お父様」

 娘が昔のように『お父様』呼びをした事を訝しんだのだろう。父王の澱んだ瞳に、一瞬疑問の色が浮かぶ。気づいてくれて嬉しい気持ちと、何故今更、という悲しみとが、ジャンヌの胸に渦巻く。

「貴方は確かに王でした。炎のように苛烈な、私の自慢の父でした」

 過去形でしかものを語れない虚しさの針が胸を突く。心臓は速く脈打ち、声が震えないように律するので精一杯だ。

「だから、カレドニアにとっては善き王のまま、終わってください」

 言い切る前に、腰の短剣を抜き放つ。突然振りかざされた剣呑な刃の煌めきに目を見開く父の首目がけ、容赦無くそれを振り下ろす。

 終焉は、一瞬だった。

 静まり返った部屋の中、自分の荒い呼吸だけが耳に届くのを、ジャンヌはどこか他人事のように聞いていた。返り血を浴び、さながら『緋翼』の名に相応しい姿をさらして。

 すると。

「ほほう、遂にやりおったか、小娘が」

 ぱん、ぱん、ぱん、と。嘲るようなゆったりとした拍手が響き渡り、ジャンヌはその方向をぎんと睨みつける。

 父を狂わせた張本人、魔族ニードヘグが、いつの間にか室内にいた。

「父親殺しの娘が次に犯す罪は何だ? 帝国への反抗か?」

 どきりと心臓が大きく脈打つ。この魔族には見抜かれている。自分の思惑はとうに帝国へ筒抜けだったのだ。

「簡単に籠絡できる男の娘の考えなぞ、浅はかなものよ」

 くつくつと肩を揺らして嗤う相手に向け、ジャンヌは大きく一歩を踏み出した。父の命を奪った短剣が、この魔族にも届けとばかりに。だが、ニードヘグの拳一個分手前で、短剣は見えない壁にぶつかったかのように阻まれ、根元から折れた。弾かれた刃が頬をかすめ、つうっと血が流れる。

「刃向かったな!」魔族が歯を見せて嗤った。「これでカレドニアは帝国に楯突いた!」

 完全に乗せられた、と思った時には遅かった。魔族は転移魔法陣を描いてその場から消える。それと入れ替わりに、「ジャンヌ様!」と腹心のアレサが、彼女にしては珍しく焦りきった様子で、室内に飛び込んできた。

「北方より、魔物の群れが接近! 帝国の召喚士も多数いるものと思われます!」

 ここで自分が取り乱してはいけない。ジャンヌは目を瞑って深呼吸すると、再び目を開き、はきはきとした声で部下に告げた。

「『緋翼隊』に迎撃準備の命を。他の兵には民の避難誘導を優先させて」

「はっ!」

 びしりと敬礼を決めたアレサが、身を翻して部屋を飛び出してゆく。

 予定より早まってしまったが、布石は打った。後はエステル達を信じるだけだ。ジャンヌは頬を伝う血を拭い、自らも出陣すべく、己のグリフォンを呼ぶ為、中庭に面したバルコニーへ向かう。

 しかし、そこで彼女を待ち受けていたのは、思いも寄らぬ光景だった。

「ジャンヌ様!」「王女様!」「俺達も戦わせてください!」

 中庭に、ノーデの一般市民が集って、口々に声をあげている。避難指示が下っただろうに、彼らは逃げるどころか、自分と命運を共にする事を願っているのだ。父ではなく、自分が出てきた時点で、何か異変が起きた事も察しているだろうに。

 自分達王族は、ここまで民に信頼されていたのか。先祖の築き上げてきたもの。正気の頃の父が守ろうとしたもの。それらを感じ取ってジャンヌの胸は熱くなる。だが、それに甘えて、これ以上不必要な犠牲を出すわけにはいかない。王女がバルコニーから手を掲げると、中庭に集った民は、しん、と静まり返った。

「父バルトレットは身罷りました。我々『緋翼隊』はこれから、カレドニアを過った方向へ導いたグランディア帝国との決戦に臨みます」

「いよいよだ!」「やりましょう、王女様!」民衆が拳を突き上げる。しかしそれも、王女が再び手を掲げる事で、またも静かになる。

「ですが、兵役でもない皆まで巻き込む訳にはいきません。あなた方は生きて、その後のカレドニアを、正しき指導者と共に見守ってください。それが私の命令であり、心からの願いです」

 その言葉に、王女の覚悟を感じ取った民の間から、すすり泣きと、「どうして……」という呟きが洩れ出す。これだけ王族を想ってくれる人々に恵まれた人生に感謝し、彼らならきっと、新しい主を素直に迎えてくれるはずだと信じて、ジャンヌは首から下げた、グリフォンにしか聞こえない波長の笛を吹く。彼女の『緋翼』の名の通り、緋色の翼を持つ魔獣が、羽音を立ててバルコニーに降り立った。

 その背に乗り、カレドニアの空へ舞い上がる。初めてこの翼を得た時から見下ろした、ノーデの街並。ほとんど涸れながらも逞しく根を張る草木の生える大地。美しい朝日昇るアイシアの山脈。全て愛おしい思い出だ。

 溢れそうになる涙は、『緋翼』には似合わない。嗚咽と共に呑み込むと。

「ジャンヌ様。『緋翼隊』全軍、迎撃準備が整っております」

 アレサがグリフォンを飛ばしてきて、隣に並ぶ。ジャンヌは「わかりました」とうなずいて副官が差し出した銀製の槍を受け取り、それから、自嘲気味に唇を歪めた。

「済まないわね、アレサ。私の身勝手に、貴女達を付き合わせて」

「いいえ」

 王女の腹心は、穏やかに、満足げに首を横に振る。

「いつかはこの日が来ると思っていました。貴女のもとで、自分の信念を曲げずに戦える事、私だけでなく、皆が誇りに感じているでしょう」

「……ありがとう」

 それ以上、二人の間に言葉は要らなかった。敬礼をして、アレサのグリフォンが離れてゆく。王都の北から飛んでくるキマイラの群れが見える。

「皆、手加減は無用! カレドニア騎士の意地と誇りを、帝国に見せつけてやりなさい!」

 槍を振って声を張り上げる。『緋翼隊』の騎士達が応と鬨の声をあげ、魔獣を羽ばたかせた。

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