ネオンテトラの王国

宇土為 名

ネオンテトラの王国




 窓から差し込む光がきらきらとして、髪の上に降り注いでいる。淡い色合いの髪は陽に当たると透けるように白く見えた。

 彼はいつもその陽だまりの中に座って本を読んでいた。

 そして近づくとふっと上がる視線。

 他の誰でもない誰かを探して、いつも寂しそうな目をしている。


***


 枯れ葉が舞い散っている。

 大きな銀杏の木の黄色い葉が、ひらひらと雪のように、地面に降り積もっていく。

 その中を歩いてくる男子高校生の姿に、準一ははっとした。

「…兄ちゃん」

 俯いていた彼の視線が準一を見た。

 校門をくぐった同じ小学校の学童の子たちが次々に準一を追い抜き図書館を目指して走って行く。

 見つめ合った視線に戸惑ったとき、ぽん、と背中を叩かれた。

「じゅーん、先行ってるぞー」

「あ、うんっ」

 立ち止まった準一を追い越していく同級生に、準一は慌てて言い返した。

「なんか用?」

 彼が──さっくんの友達の青桐が言った。

 行く手を遮るように立ったままの準一を見下ろしている。

 準一は両手を体の前で握りしめた。

 訊こう、と思っていたことを口にする。

「…あの、あのさ…、さっくん、どこいったの」

 青桐をまっすぐに見上げると、青桐は何も言わず、視線から逃げるように準一の横を通り過ぎた。

 思わず準一は振り返っていた。

「兄ちゃんっ」

「…知らねえよ」

 吐き捨てるように言われた言葉に、かっとなった。

「なんだよ! おまえ、さっくんの友達なんだろっ」

 周りの高校生たちが、何事かとこちらを振り返る。

「なあってば!」

 準一はもう一度声を張り上げた。

 けれど青桐は振り返らなかった。



 ある日突然、彼はいなくなった。

 いつものように会えると思って行った場所にはもういなくて、ひどく悲しくなった。

 熱帯魚が好きだと言ったら、魚が出てくる物語を教えてくれた。

 準一はそれが好きで、何度も読み返した。

 今度は一緒に図鑑を探してくれると約束をしていたのに。

 図書館の匂いが好きだ。

 小学校が嫌なわけじゃない。友達もいるし、退屈じゃない。

 でも…

 優しくされた思い出を辿っているうちに、準一はその日給食前に小学校を抜け出して、高校の図書館の中に入り込んでいた。

 しん、と静まり返った空間。

 窓から落ちる木漏れ日。

 遠くから聞こえる学校特有のざわめき。

 誰もいない。

 みんな、今頃ごはん食べてるのかな。

「──」

 歩いていた足が止まった。

 奥まった書架と書架の間、窓の側に、青桐が寝転んでいた。

 床に落ちる陽だまりの中で固く目を閉じている。落ちている鞄。散らばっているいくつかの本。読みかけなのか、開いたままの本が手の下にあった。

「……」

 窓の外を枯れ葉が舞い散っている。

 大きな銀杏の木の黄色い葉が、ひらひらと雪のように地面に降り積もっていくのは前の時と同じだった。

 綺麗な寝顔だな、と思った。

 まるで…

 がたん、とドアの開く音に、準一は慌てて近くの書架の陰に隠れた。

 だんだんと、こちらに足音が近づいてくる。

 ぴたりと目の前で止まった。

「…何してんの」

 女の人の声だ。

 準一は詰め込まれた本の隙間から、そっと様子を窺った。

 青桐は動こうとしない。

「何してんのかって聞いてんだけど」

 女の人は、木曜日にいつも彼と一緒にいる女子高校生だった。名前は、安西だったと思う。

 安西の声は冷たかった。

「うるせえ」

 目を閉じたまま、青桐は言った。

 わざとらしく安西は小首を傾げた。

「邪魔なんだけどなあ、どいてくんない」

「どうせ暇だろ」

「おまえと一緒にしてんじゃないよ」

 青桐は身じろぎをし、ごろりと寝返りを打って安西に背を向けた。

「いい加減にしろよ、ここにいたって藤本が帰ってくるわけじゃないんだよ!」

 藤本が帰ってくるわけじゃない。

 その言葉に準一の心臓が速くなる。

 帰ってくるわけじゃない…

「……」

 安西は青桐に大袈裟なくらいのため息をついて、踵を返した。まっすぐに伸びた背中が、書架と窓の日差しの明暗なコントラストの中を遠ざかっていく。

 やがてドアが開き、閉まる音がした。

 準一は隠れていた書棚の陰でそっと息を吐いた。


***


『青桐、おまえ受験はどうする気だ? まあこの状態でも第一志望には受かるだろうが、もうちょっと身を入れてもなあ…』

『……』

『一応のラインは越えてるが、…』

『大丈夫です』

 朝一番に呼び出された進路指導室で、渋い顔をして椅子に座る教師を青桐は見下ろした。

『…そうか?』

 はい、と言って青桐は教師に背を向けた。話がそれだけならもう用はない。授業に出ないことを咎められたのはこれが何もはじめてではなかった。

 あの日から、青桐は学校に来てもほとんど授業には出ず、図書館にばかり足を向けていた。

 そんな自分を奇異なものを見るかのように、周りの人間が遠巻きに窺っている。

 人の視線などどうでもいい。

 どんなふうに思われてもいい。

『…受験か』

 成績は多少下がってはいたが、それでも青桐は上位クラスにいる。

 本当は受験などどうでもいい。大学になどなんの興味もなかった。でも。

 朔が受けると言った大学を受けることに決めていた。無駄かもしれないと分かっていても、青桐の気持ちは揺らがなかった。

 もしかしたら朔が──朔に、また会えるかもしれないから。

 けれどそれはほんの微かな望みに過ぎないと、自分自身が一番よく分かってもいた。

 遠ざかっていく安西の足音。

 暖かな陽だまりの中にいるのに、心は凍えるように冷たくて、言い放たれた言葉がこだまのように跳ね返ってくる。

 図書館の匂いが、いつの間にか朔の記憶と繋がっている。

 見上げるほどの本棚、高い城壁のようなそれに囲まれていると、それだけで息を継げる気がする。

 学校に来るのは、面影があるからだ。

 ただそれだけだった。

 小さな気配に、青桐は耳を澄ませた。

 ずっとそこに息を潜めている。


***


 準一はそっと近づいた。

 こちらに向けられ、丸まった背中。

 くしゃくしゃの制服。

 日差しに照らされた髪がきらきらとして、透き通るように白く見える。

 綺麗な耳の形。

 はじめてこの人を見たときは、まるで人形のようだと思った。

 準一はそっとそばにしゃがみ込んだ。

 無意識に手が伸びる。

 また…眠ったのかな。

「──何?」

「うわっ」

 びく、と準一の肩が跳ねた。

 目を閉じたまま、青桐は言った。

「どっから入ったんだよ、おまえ。今日は開放日じゃねえだろ」

「だって…」

 青桐はため息をついた。

「準一、まだ学校終わってねえだろ」

 薄く瞼が開く。 

 だって、と準一は口ごもった。

「だって、なに?」

「だって…」

 ビー玉みたいな目だ。

 壁のほうを向いたまま青桐はため息をついた。

「戻んないとおまえんとこの先生が探しに来るだろ」

「そ、っ、だけど」

「最悪、ここに出入りするの禁止されるぞ」

「……」

 確かにそうだ。

 叱られるだけならまだいい。

 準一が抜け出してここに来たことが万が一にも大事になれば、私設図書館の開放を問題視されて、それ自体がなくなってしまうかもしれない。

 大人は時々、そんなふうに極論に走ってしまう。

「木曜日楽しみなんだろ?」

「……」

 そうだけど。

 そうだったけど。

「さっくん、もういないの?」

 青桐はじっと壁のほうを見ている。

「ねえなんでいなくなっちゃったの」

「……」

「ねえ」

「うるせえな」

「……」

 準一は黙り込んだ。

 しゃがみ込んだ脚は、いつの間にか床の上に正座するようになっている。

 青桐の背中を準一は見つめた。

 こっちを見ない。

 さっくんなら、なに? ってすぐに振り向いてくれるのに。

 分からないことも一緒になって考えてくれた。

 いつも優しくしてくれた。

 準一の話を何でも面白そうに聞いてくれた。両親は忙しくて話をする暇もなくて、そんな日々の埋もれてしまう何でもない出来事を、彼はいつも…

 いつもこっちを見て──

 目を合わせて。

 気がつけば、嗚咽が零れていた。

 涙が溢れてきて、手の甲で拭った。

 ひく、と喉を詰まらせると、横たわっていた体がゆっくりと起き上がった。

 ビー玉みたいな目が、準一の目を覗き込む。

「泣くな」

 ゆらゆらと揺れる世界。

 きらきらと水面のように反射する。

 溺れてしまう。

「う、ううううっ、うう、さっくん、さっくんんん…っ」

 堪えきれずに名前を呼んだ。

 優しくされた記憶は消えない。

 誘われるようにあとからあとから溢れてくる。

 準一の頭を、大きな手がぎこちなく触れた。

 むずかるように準一は首をめちゃくちゃに振ってそれを振りほどいた。

「やだあっ、さっくん、さっくんがいい!」

「朔は…」

「おまえ友達なんだろ! なんでだよおっなんでっ、なんで知らないんだよおっ」

「準一」

 そっと呼びかけられて、準一は顔を上げた。

「朔は、もういない」

「……っ」

「ごめんな」

 頭を撫でる手は優しかった。

 その声に、この人も悲しいのだと準一は気づいた。

 自分と同じように悲しくてここにいる。

 見返した青桐の姿は水の中のように揺らめいていた。

 まるで熱帯魚のようだ。

 朔に教えてもらったあの物語と同じ。

 図書館の沈む水槽の中を泳ぐ小さなネオンテトラだ。

 誰もいない王国。

 たったひとりきりで思い出を守り、眠っている。

 ビー玉の目が輪郭を失くし、溶けていった。

 あ、と準一は思った。

 零れて床に落ちた。

 それは陽だまりの中、剥がれた鱗のように、いつまでもきらきらと光っていた。





















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