シーズン3
の
ちょっと前の話だ。山で『の』に出会った。
……いや、『の』だよ。野原の『の』でもないし、カタカナの『ノ』でもないし、ひらがなの『の』だよ。
本当だって! 『の』がいたんだよ、『の』が! 笑うな! それ以上笑うと今日の話はナシにするぞ!?
……まだニヤついてるけど、いいや。話すぞ。『の』の話だ。
山で木を切ってたんだがな、十分な量を切って、車に積み込んで、さあ帰ろうって思ったら、『の』がいたんだ。
ひらがなの『の』だよ。高さが2mくらい。スマホの画面の文字が、そのまま現実世界に出てきたみたいな感じだったな。
フォント? ゴシック体か明朝体か? いやどっちだろ……ああ、画面、これ? どっちも違うな。このゴシック体ってのに似てるけど……。
え、まだあんの? うわっ、こんなにいっぱい……どれも同じに見えるんだが? あ、いや、待った。これだ、このフォント!
……モリサワ? 誰だ? 有料フォント? いや知らんけど……怪異が金払ってフォントを購入するはずがないって……フリー素材って……むずかしい話はしないでくれ……。
いいか? 話を戻すぞ。
その『の』は俺に気付くと、しゃくとり虫の動きを速くしたような感じで、細くなったり太くなったりしながら近付いてきた。
嫌な予感がしたからな、チェーンソーのエンジンを掛けた。そしたら『の』はいきなり飛び上がって、俺に向かって襲いかかってきたんだ。
チェーンソーを掲げて、『の』の突進を止めた。『の』と刃がぶつかった時、骨みたいな手応えがあった。多分、全く見えないけど、『の』の歯に当たったんだと思う。
それでわかった。この『の』は俺を食おうとしてるんだって。
そうしたら遠慮は無しだな。
チェーンソーを振り回して、次々と『の』の体を斬りつけた。手応えとしてはイノシシに近かったかな。ただ、血が出なかったから普通の生き物じゃないのは間違いない。
何度か斬りつけると流石にやってられなくなったのか、『の』は背を向けて逃げ出した。……背中がわかるのかって? だって『の』が逆向きになってたから……。
後を追いかけたんだけど、藪の中に入っちまってな。足跡も血の跡も見つからないから見失っちまったってわけだ。
話はこれで終わりだ。
……まだ山にいるのかって? どうだろうな。結構深手を追わせたから、野垂れ死んでるかもしれない。でもどうだろうなあ。探しちゃいるんだけど死体が見つからないから、生きて山に隠れてるかもな。
何、見に行きたい? え、マジで?
――
「おじゃましまーす」
そういうわけで、雁金を仕事場の山に案内することになった。
『ヤマノケ』の祠には、いつもより多めにお供えしてある。多分勘弁してくれるだろう。まあ、万が一襲ってきたとしても、雁金は銃を持ってるから撃退されるだろう。ちょっと気の毒だが。
今日の雁金は、いつもの飲み会に着てくる私服とは違う、狩猟スタイルだ。ポケットの多いジャケットと長ズボン、背中にはバックパック、革手袋に安全靴、そしてショットガンを手に持ち、腰にはナタ。隙のない装備を取り揃えている。
そういう俺も、強化繊維の作業服にグローブ、安全靴を身に着けている。頭もヘルメットとゴーグルで守っている。完全装備だ。
「先輩、中々重装備ですね」
「普通だよ、普通」
仕事の時はいつもこの格好だ。これくらいやらないとチェーンソーは危なくて使えない。妖怪に襲われる時はそうも言ってられないが。
「とりあえず現場まで行くぞ」
「このトラック……ショベルカー? あれ、どっちですか?」
「これはな、フォワーダって言うんだ」
キャタピラの上に軽トラのような荷台とショベルカーのようなアームを搭載した乗り物。それがフォワーダだ。
「チェーンソーで斬り倒した木をこのアームで掴んで、後ろの荷台に乗せて運ぶ。そういう機械だ」
「へー」
「ひとり乗りだから、お前は後ろの荷台に乗ってくれ。バレたら怒られるから、黙っててくれよ?」
「もちろん」
フォワーダに限らず、車の座席以外の場所に人を乗せるのは基本的にNGだ。この山は私有地だからまあギリギリOKだけど、何か事故があったら、「何を見てヨシ! って言ったんですか?」とか言われかねない。
雁金を荷台に載せ、俺はフォワーダの運転を始めた。キャタピラ駆動の林業機械が、ゴトゴトと山道を走る。
「そんなに速くないんですね」
「これ以上速いと危ないだろ」
フォワーダの速度は時速10kmぐらい。歩くより速いが、自転車よりは遅い。でもまあ、別に速くなくていいんだ。山道を走るものだし、斬り倒した木を運ぶためのパワーがあればそれでいい。
途中、小さな小屋の横を通り過ぎた。
「あの建物は?」
……目ざとく気付きやがった。
「山小屋だよ」
「そうですか? 山小屋を置くには入り口に近すぎません? それに造りも普通の山小屋じゃないような……」
「あー、まあそうだな。普通じゃない。……山の動物を解体する時に使う小屋だよ」
雁金が目を輝かせた。……こうなるから教えたくなかったんだ。
「先輩も狩猟を?」
「いや。ただ、たまに、本当にたまーに動物が襲ってきて、チェーンソーで返り討ちにすることがあってな。そのまま埋めるのも勿体ないから、解体して肉にしてるんだ」
「なるほど。じゃああの煙突は……」
そこまで一目でわかったのかよ。
「燻製を作る時の、窯だよ」
「本格的ですねえ」
「前の管理者の趣味だったらしい。俺はあったのを使わせて貰ってるだけだ」
そんな話をしているうちに、解体小屋は木々に隠れて見えなくなった。中を見たいとか言われたら困ったんだが、助かった。
それからのんびりフォワーダを走らせて30分。倒れた木が何本か散らばった場所に辿り着いた。
「着いたぞ」
フォワーダを止めると、雁金は座布団代わりにしていたバックパックを担いで荷台から降りた。一通り辺りを見回し、訊いてくる。
「どの辺りから出てきて、どこに逃げていったんですか?」
「あっちの方、山の上の方から降りてきて、それで向こうの藪に逃げていった」
ふむ、としばし考え込む雁金。やがて顔を上げると、言ってきた。
「まず、山の上の方を探してみます。それでなんの痕跡もなかったら藪の方を見てみます」
「わかった。俺はここで仕事してる。何かあったら遠慮なくぶっ放していいぞ」
雁金は銃を携えて、山を登っていった。……真っ直ぐ登るんじゃなくて、『の』が降りてきた所に横から回り込むように登っている。いつもの余裕さというか、ゆるさが全く見当たらない。狩りをする時はああなるんだなあ。
雁金を見送った俺は、フォワーダのアームを動かして倒れている丸太を荷台に積み込み始めた。以前、『の』が出た時に仕事を放り出して、そのままになっていたものだ。このままにしておくと腐るだけなので、ちゃんと製材所に売りつけないと。
しばらく積み込みをやっていると、山の上から雁金が降りてきた。
「見つかったか?」
「いえ! 次は藪の方を探してみます!」
「気をつけろよー」
もっとも、『の』が近くにいるのなら、もう気付かれているだろう。そして、こっちに襲いかかってこないということは、つまりそういうことなんだろう。
――
2時間後。
「見つかりませーん……」
「そうか」
へとへとになった雁金が音を上げた。結局、痕跡ひとつ見つけることができなかった。逃げたか、山奥で野垂れ死んだか。いずれにせよここにはもういない。
「まあ、今回は縁がなかったってことだろ。上手いこと逃げられたんだな」
「うう……ひょっとしたら怪異じゃなくて、本物のUMAだと思ったんですけど……」
お前のオカルト、幅広いよな……。
「そろそろ日も暮れ始めるからな。帰るぞ」
「はーい……」
そういう訳で、しょんぼりする雁金を荷台に乗せて山を降りた。
この話はこれで終わりだ。そう思ったんだ。
そのはずだったんだ。
「えっ?」
「あれっ?」
山を降りる途中、少しオレンジ色になった空を見上げた俺たちは、同時に声を上げた。
見間違いじゃない。一瞬だけど、目の錯覚ってことはありえない。
「……見たか?」
「見ました」
雁金もハッキリ見ている間違いない。間違いないんだけど、どういうことだ。
「『キ』……?」
黒い、カタカナの『キ』が、俺たちの頭上を横切っていった。なんだあれ……。
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