五十七 探偵ヘミングウェイ

「実に面白くない」


 また始まった……。

 まだ血生臭い熱気がこもる現場で死体を睨んでいる鬼上司の背中を見つめ、高橋たかはしは内心ため息をついた。

 猪本啓三郎。

 疑うこと”しか”知らない、疑心暗鬼に取り憑かれた現場一筋三十年の叩き上げ。彼の手にかかれば、たとえ現行犯逮捕のひったくり事件だって難攻不落の怪事件に仕立て上げられるだろう。もう引退間近の初老ベテランなんだから、いい加減最新の科学技術を取り入れた、現代の合理的な捜査方法を信頼してほしいものだ。


「何がですか? 猪本警部……」


 そんな内面はもちろんおくびにも出さず、高橋は何気ない顔で鬼上司に歩み寄った。殺害現場となったバスルームに顔を出すと、まだ冷え切った湯船に使ったままの裸の死体が、じっと高橋に視線を送ってきた。死体を見ないようにしながら、彼は入り口に足をかけ不自然に体をひねって猪本と向かい合った。高橋はもう一度、猪本に気づかれないように心の奥で深いため息をついた。


 ……全く、何度出くわしても、殺された人間には慣れることはなさそうだ。


「お前さんも、いい加減慣れたらどうだ? 最期くらい俺達が向かい合ってやらなきゃ、この仏さんも浮かばれんぞ」

「…………」


 だが、そんな彼の内面を見透かすように、猪本は死体を凝視したまま低い唸り声を上げた。高橋は諦めてバスルームの中へと足を踏み入れた。外からでも十分強烈だった血の匂いが、何十倍にもなって彼の鼻腔に襲いかかる。


「う……」

「犯人は捕まったんだよな?」


 息を止め目を逸らそうとする高橋に、猪本が鋭い声を飛ばして来た。高橋が頷いた。


「……ええ。犯人はこの家に夫婦で住む、田中夫妻の奥さんの方。殺されたのは……」


 そこで高橋はチラと死体を横目で見た。相変わらず、”彼女”はバスタブの中で微動だにもせず、じっと彼に熱い眼差しを送っている。


「……殺されたのは夫の不倫相手、竹中トモコ。この竹中と旦那が昼間っから自宅で逢瀬中、早期帰宅した妻の田中ヨシエに偶然出くわし、その場で逆上した田中ヨシエに金属バットで殴打されて死亡」

「確かか?」

「はい。数時間後、奥の部屋で一人熟睡していた夫がそれを発見、通報しました」

「凶器の方は?」

「検証の結果、現場に残された凶器に田中ヨシエ容疑者の指紋が付着。DNA鑑定の結果、彼女の衣服から被害者の血が検出されています。今のところ容疑者は犯行を否認……」

「凶器は普段から家にあったのか?」

「ええ。バットは現場の奥にある、旦那の個室にしまってありました。犯行に計画性は無いと思いますが……」

 尻切れトンボになりながら、新米刑事は頭をボリボリと掻いた。高橋には、残念ながら百戦錬磨の猪本の問いかけの意図が掴めなかった。一体この頑固親父は、この単純明快な殺人事件のどこに引っかかっているのだろう?


「……おかしい。どうにも、”分かり易すぎる”」

「は?」


 分かり易い。

 一体それの何が気に食わないのか、猪本は死体の前に屈み込むと両腕を組んだ。


「不倫相手を偶然発見してその場で殺害。理屈は通っているが……。どうにも早すぎないか?」

「早……?」

「犯人が帰宅してから、被害者が殺されるまでがだよ」

 訳が分からずポカンと口を開ける高橋に、猪本が眉を吊り上げて唸った。


「凶器は現場よりさらに奥の、旦那の個室にあったんだろう? 帰宅して、不倫相手を見つけて、それから凶器エモノを取りに行ったんじゃ一手間だ。普通、自分が殺されそうと分かったら、その間に逃げ出すんじゃないか?」

「…………」

「ところが、被害者は逃げ出さなかった。まさか自分が正妻に殺されはしないだろうとタカをくくっていたのか……」

「…………」

「或いは、そんなことも考えられないくらい、”深い関係”で結ばれていた人物だったのか」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ猪本警部。ま、まさか……犯人は別にいるとでも?」


 まさかここに来て、実は旦那が犯人だったとでも言い出すのだろうか?

 急に慌て出す高橋に、猪本は小さく笑い声を漏らした。


「馬鹿言うな。お前らの言う、”科学的根拠”は絶対なんだろう? 被害者の返り血が犯人に付いてるんだ。犯人は妻のヨシエで決まり。覆りようのない、完璧な”正しい”証拠だ」

「じゃ、じゃあ……」

「だけどな、高橋。どれだけ証拠が正しかろうと、真実が揺るぎなかろうと……それだけじゃ人の心ってのは測れないものさ」

「…………」

「おいおい、勘違いするな。俺は何もこの単純な事件を、複雑なミステリーにしたてあげようってんじゃないんだ。そりゃ紙切れ一枚ポンと提出して、さっさと解決済みにしちまえば楽な仕事さ。だけどな……」


 猪本はようやく立ち上がると、深く息を吸い込み戸惑う高橋の目をじっと見つめた。

「そうだな……この現場には、”愛”がない」

「……アイ?」  


 アイとは何だろうか? 何の俗語だったか……アイ……あい……愛?


「そういえば、あの娘は元気か?」

 突然、猪本がニヤッと顔を崩した。高橋は不意を突かれ、思わず素っ頓狂な声をあげた。狭い浴室に彼の声が何重にも木霊こだまする。

「あの娘??」

「彼の娘だよ。ほら、お前の姪っ子の……”探偵ヘミングウェイ”」


 虚空を見つめ突っ立っていたままの高橋にそう告げると、猪本はなんとも可笑しそうに唇を吊り上げた。高橋の視線がさらに激しく宙を泳ぐ。鬼上司の彼が、”探偵ヘミングウェイ”なんて訳の分からないあだ名で呼んでいるのは……。


「あ! ああ……道祖さやのですか? 道祖小町さやのこまち……」

「連れてこいよ」

「え!?」


 突然の命令に、高橋は固まった。いくら上司命令とは言え、部外者を勝手に現場に連れて来ては始末書どころの話ではない。そんな新米刑事を見て、猪本はさらに大きく笑った。


「いいじゃねえか。どうせ解決した事件なんだし。あの娘、此間の事件でも妙なおもしろいこと言ってたろ。呼んでこい」

「……どうなっても知りませんよ」


 返事を待たずして、猪本は笑みを浮かべながらさっさと現場を後にした。

 恐らくその辺で一服してくるのだろう。聞く耳持たず……こうなっては、断れた試しがない。


 元より猪本が道祖さやのを現場に呼び出すのは、今回が初めてではなかった。高橋は深くため息をついた。全くこの偏屈ジジイは、わざわざ解決した事件をほじくり返して、一体何をそんなに不思議がっているのだろうか? もしかして、適当な理由をつけて女子高生に会いたいだけなんじゃないだろうな。


「……もしもし? 小町ちゃん? ああ、俺だよ俺……」


 そんな疑心暗鬼ないめんはもちろんおくびにも出さず、高橋はマンションの廊下に出ると、例の女子高生探偵”ヘミングウェイ”と連絡を取るのだった。


□□□


「ごめんね、休みの日に呼び出して……!」


 待ち合わせた駅は、現場から地下鉄で約二十分ほどだった。

 流石に街の中心部だけあって、日曜ともなると人で溢れかえっている。改札をくぐると、真上から降り注ぐ陽の光が高橋を熱く歓迎してくれた。目を細め隣のビルを見上げると、屋上から巨大な電光掲示板が流行りのアクション映画の宣伝を道行く人々に浴びせ嗤っている。耳の中が突然沸き返ったような喧騒の中、約束した新発売の発泡酒の看板の下に、目的の少女は立っていた。人混みを掻き分け、高橋は少女の元へと急いだ。


「小町ちゃん、遊びに行ってたんじゃないの?」

「ううん、大丈夫」


 汗を拭いながら高橋が謝ると、顔を上げた少女は白い歯を見せて人懐っこく笑った。薄い黄緑のTシャツ一枚に、デニムの短いスカート。夏を感じさせる麦わら帽子が、腰の長さまである艶やかな黒髪に映えよく似合っている。高橋は無言で鼻の頭を掻いた。健康的に肉付いた白い素肌を晒け出すその姿は、何と言うかとても無防備で、少々目のやり場に困るほどだった。


「それよりおじさん、また事件現場に連れてってくれるってホント!?」

 真っ青な空から降り注ぐ日差しにも負けないほどの明るさで、小町と呼ばれた少女の整った顔立ちがぱあっと輝いた。高橋は苦笑いをしながら頷いた。

「また例の上司の無茶振りでね。嫌だったら、断ってもらってもいいんだけど……」

「ううん、全然平気。私、殺人事件とか大好きだから!」

「はは……」


 弾ける笑顔に若干気圧されつつも、高橋は彼女を連れて再び地下鉄へと戻った。


 道祖小町は、高橋の姪に当たり、地元の公立高校に通う女子高生である。

 彼女の母親に話を聞く限り、学校の成績も悪くなく、素行不良なども見られない優秀な一人娘だと言う話だが……。青春を謳歌した開放的な見た目とは裏腹に、彼女にも他人には決して開けっぴろげに出来ない”悪趣味”を持っていた。それは……。


「ねね、おじさん。”今回の”は、どうやって殺されたのかなぁ……!」


 すし詰め状態になった車内で、密着した彼女が高橋の耳元で興奮気味にそう囁いた。小刻みに揺れる車内の中で、高橋は只管苦笑いを浮かべるしかなかった。こんな姿、知人に見られたらたまったもんじゃない。それでなくても、幼気な少女と肌を密着させたこの状態では、いつ通報されてもおかしくない案件だ。


 ”死体マニア”ー……。


 生きた人間よりも、死んで魂が抜けたモノに興奮すると言う、何とも理解しがたい性癖。他人に話したら一発で人間性を疑われそうな嗜好を、この元気一杯の女子高生・道祖小町はこっそり隠し持っていた。初めて彼女が死体と遭遇した時の、熱に浮かされたような視線を高橋は今でも覚えている。泣き喚くでもなく、逃げ出すでもなく……まるで飾られた生け花を鑑賞するような、美しいものを見る目つき。怖いもの見たさとか、強がりでも何でもない、”死”に希望を見出さんとでも言うかのようなその態度に、上司の猪本は皮肉も込めて彼女をこう呼んだ……”ヘミングウェイ”、と。


□□□



「……着いたよ」

「わあ……!」


 再び現場に戻り、殺風景な雑居ビルが見えてくると、小町はまるで遊園地にでも連れてきてもらったかのような感嘆の声を上げた。ドアを開けると、現場の仲間たちが半ば呆れ顔で小町を振り返った。猪本警部の現場では、彼女の姿は最早お馴染みになってきている。深い帽子を被った鑑定の一人が高橋と小町に声をかけた。


「猪本警部なら、まだ戻ってませんよ」

「そうか。現場を見せても構わないかな?」

「ええ……どうぞ」

 何となく小さくため息が聞こえた、気がした。当たり前だが、決して歓迎ムードではない。だが冷ややかな視線を集める当の本人は全く気にしないご様子で、鼻息荒く高橋のワイシャツを後ろから力強く握り締めた。

 

「小町ちゃん、分かってると思うけど……現場、荒らさないでね」

「……手は握っても大丈夫?」


 風呂場に近づくに連れ、鼻を突き刺すような血の匂いが濃くなっていく。背中に感じる彼女の手の力が、だんだんと強くなっていくのが分かった。やがて半開きになった半透明のプラスチックの扉の向こうに、彼女のお目当ての”人物”が顔を覗かせた。


「……どう?」

「…………」


 相変わらず出口の一点を見つめ続ける裸の死体は、相変わらず同じ姿勢で固まったまま高橋を出迎えた。思わず目を逸らしながら、彼女と初対面した女子高生を振り返り感想を求める。

 小町はだが、黙ったままだった。

 しばらく無言で彼女と見つめ合う小町の様子を、高橋はじっと眺めた。


 間近で見る彼女は、贔屓目に見ても整った美しい顔立ちをしていた。若々しく張り詰めた白い素肌に、うっすらと浮かぶ静脈が彼の目と鼻の先で脈打っている。高橋は思わず息を吸い込んだ。風呂場に充満した血の匂いが、彼の鼻腔の中を悠々と泳いで回った。死体なんかより、”こっち”の方がよっぽど健全だと思うが……。


「ああぁ……」


 やがて、小町が小さくため息を漏らした。くりっとした大きな目が、徐々に血走り釣り上がり、口元は荒い息を吐き出し興奮気味に開かれていく。


(始まった……)


 ”血の酩酊”ー……。


 変貌を遂げていく少女の姿を、高橋は固唾を飲んで見守った。やがて少女は、恍惚に満ちた笑みを顔に貼り付け、腹の底から湧き上がるような低い唸り声を殺害現場に響かせた。


「最高だ……! この死体には、”愛”が溢れてる!!」



 ”血の酩酊”ー……。



 元はドイツの精神医学界で生まれた言葉である。

 人は太古の昔、狩りをすることで生活を営んできた。当然、接近戦が主だった古代ではそれ自体大変な危険が伴う。そうした恐怖に打ち勝つために人類の遺伝子に組み込まれたのが、【血を見ることで性的興奮を覚える】という、ある種生存本能の仕組みだった。それが”血の酩酊”である。


 だが、文明が発達し、狩りなど必要でなくなった現代社会では、”血の酩酊”は快楽殺人の一種としてむしろ異端として扱われることになる。”血が見たいから”人を殺しました……なんて、そんなことを言い出す奴がいたら、今となっちゃ当然サイコパス扱いされることだろう。


 高橋はすぐそばで小町の様子を見つめながら、ゴクリと生唾を飲み込んだ。


「ハァァァ……!」


 感嘆のため息を漏らし、愛おしそうに死体を眺める高橋の姪っ子にも、”血の酩酊”に似たような症状があった。事実何らかの形で血を見たり、その匂いを嗅ぐと、明らかに彼女は性格が変わっていた。どこにでもいるような人懐っこい女子高生の顔は身を潜め、その代わり血に酔った野生の動物のような……明らかにおかしな”何か”が彼女の中から発現していた。

 

 上司の猪本は”血の酩酊”ということで納得したようだが、高橋はこれをもっと単純に”二重人格”のようなものだと捉えていた。ハンドルを握ると急に性格が変わるドライバーがいるように……きっと道祖小町は、死体を見るとその隠された人格が顔を現すのだろう。

 

 妖しげな笑みを浮かべた小町が、麦わら帽子を投げ捨て艶かしく体をくねらせた。腰まである彼女の艶やかな黒髪が、風呂場の狭い空間を踊るように舞う。その動きに一体何の意味があるのか、高橋にはさっぱりわからない。新種の生物の求愛行動でも見ているような気分だ、と高橋は思った。小町は死体の前に跪いたかと思うと、高橋が止める間もなく、突然被害者の手をとりその甲に接吻を施した。


「あ……!」

「素晴らしい……! 見てくれ、この表情! まるで愛するものを最期に見届ける天使のようだじゃないか!」


 口調もすっかり男勝りに変わってしまった小町に、高橋の背後から、様子を伺っていた捜査関係者から冷ややかな笑みが湧き起こった。話し方も振る舞いも、まるで別人だ。普段の彼女を知っている者ほど、より奇妙に映ることだろう。


 高橋は野次馬の笑い声を無視して、死体の顔をちらりと覗き込んだ。半開きになった口元には零れ出した一筋の血液が固まって赤黒く光っている。瞳孔の開ききった目は、どう見ても天使のようには見えないが……高橋は”探偵”の邪魔をしないよう曖昧に笑っておいた。それから小町が死体に抱きついてしまわないように、しっかりと彼女の肩を抑えておく。


 ”血の酩酊”だなんて、わざわざそんな”症状”を抱えた小町を上司が現場に呼んだのには、もちろん訳があった。

「僕にとって、死体は愛すべき対象なんだよ」

「…………」

 甘えた子猫みたいに手の甲に頬ずりをしながら、小町が甘ったるい声を出した。

「だから、この”愛”の形に、一切の陰りや偽りを見たくない」

「…………」


 相変わらず何を言っているのかさっぱりだったが、高橋はとにかく黙って頷いておいた。

 ”酩酊状態”になった小町の目には、死体が何か常人とは別のものに見えているようだった。普段からやれ”死体が悲しんでいる”とかやれ”死体が歌っている”とか、独特の詩人のような言い回しで……小町には死体の【違和感】を見つけ出すのが上手かった。時にそれが真実を見抜くきっかけになると言うことで、上司の猪本なんかは好んで彼女を現場に呼んでいるのだった。


「素晴らしい……不倫……。表舞台では決して許されることのない不浄の愛。嗚呼、これが愛か……」

「……お取り込み中、申し訳ないが」

 すっかり自分の世界に浸りきってしまった”酩酊”小町に、高橋はそっと声をかけた。


「犯人は不倫をしていた旦那さんではなく、奥さんの方だった。愛するものに殺されたと言うのは、違うんじゃないかな」

「待って。待ってくれ。いやいやいやいや……そんなはずはない。だって”彼女”は、そんなこと一言も言ってないじゃないか!」


 高橋の言葉に急に真顔になった小町が、訳がわからないと言った表情で彼と死体の顔を見比べた。高橋は何とかその熱視線を受け止めた。この少女は、まさか死体と喋ってるつもりなのだろうか? どうにも”普通”ではない少女の目つきに、彼は背中にうすら寒いものを感じた。霊感だとか、死後の世界だなんて信じちゃいないが……。あまり深くは考えないようにして、高橋は肩をすくめた。小町が食い下がった。


「だって見てくれ。この”彼女”の顔! これが恐怖に引きつった顔に見えるかい?」

「ウゥン……」

 小町に促され、高橋はもう一度死体を覗き込んだ。確かに、”いつも”よりは穏やかな表情に感じ……なくも、ない。


「……正直言って、よく分からないよ。僕ァその、君みたいに、死体があまり好きではないから……」

「哀れ”彼女”は最期、不倫に溺れ、愛するものに殺されたんだ。間違いない。でなければ、僕の信じた愛とは一体何だったんだ!?」


 今度は苦悶の表情を浮かべ身悶える小町に、高橋は苦笑いを返すのが精一杯だった。

「そんなこと言ったって、DNA鑑定はもう終わってる。夫の潔白は”科学”が証明済だ……」

「誰が夫と愛し合ってると言った?」

「……なんだって?」

 高橋は思わず声を上ずらせた。小町は静かに立ち上がると、さも当たり前のように彼にこう告げた。


「”彼女”は犯人と……つまり妻のヨシエと隠れて愛し合っていたんだよ」


「おい、どうした?」

「猪本警部」


 気がつくと、いつの間にか猪本が現場に戻って来ていた。新たにやってきたニコチンの匂いを背中に感じながら、高橋は事情を説明した。


「ええと……”彼女”が言うには、被害者の竹中は、夫と不倫していただけではなく実は……」

「愛し合っていたんだよ。犯人とも」

 きっぱりとした口調でそう宣言する小町に、猪本は眉を吊り上げた。


「……証拠は?」

「証拠?」


 先ほどからぬいぐるみのように死体と手を繋いだままの小町が、愛おしそうに死体と見つめあった。


「死体が犯人と愛し合うのに、証拠がいるかい?」


 高橋は猪本を見た。猪本も高橋を見つめ返してきた。その顔を見て、高橋は思わずにやっと笑みを零した。嗚呼、きっと自分も猪本警部と同じように、”初めて宇宙人と出くわした”みたいな顔をしていたに違いない。 


□□□



「田中ヨシエが犯行を認めたよ」


 道端に停めてあった覆面パトカーに乗り込んでくるなり、猪本はそう言って深いため息をついた。


「えっ……それじゃあ」


 疲れた表情を浮かべた猪本を、高橋はハンドルを握ったままマジマジと見つめた。一連の捜査に必要なあれこれを済ませてきた上司は、助手席に深く腰を下ろし、黙ってシートベルトを装着した。いいから早く出せ、と言う事なのだろう。

 一刻も早く事件の経過を聞きたかった高橋だが、迅る気持ちを抑えてゆっくりとアクセルを踏み込んだ。十八時を回ってもまだ空に明るい色が残る街並みを、無言のまましかめっ面をした鬼上司とともに法定速度で流していく。しばらく車内には交通渋滞を知らせるラジオの音だけが、沈黙を何とか打ち破らんと鳴り響いていた。


「……それで」


 国道に差し掛かった頃、しびれを切らした高橋が人波溢れる横断歩道の前でブレーキを踏み込みながら猪本に声をかけた。徹夜明けの上司は、このまま何もせずにいると帰宅するまでに一眠りついてしまうかもしれない。


「三角関係だったって訳ですか。被害者は男と不倫しつつ、実は本命はその妻の方だった……」

「うん? うん……まあ、そう言うことになるな」


 両目は閉じたまま、猪本が低く唸るように答えた。高橋は感心したようにため息を漏らした。


「はあ……それで被害者は、犯人を疑わずに犯行現場から逃げなかった訳だ。お互い秘密裏に愛し合っていたんだから。今回も、小町ちゃんの言う通りだったって事ですか。全くよく分かりますね、あんな死体からそこまで……」

「ハン……どうだかな」


 そこでようやく、猪本は意味ありげな笑みを浮かべ固く閉じられていた両目をうっすらと開けた。何とか上司を眠らせまいと、高橋は喋りを続けた。


「どう言う事ですか?」

「”先生”は愛だの何だのと仰っておられたが……これを見ろ」

「わっ!」


 運転席に座っていた高橋の膝元に、無造作に茶封筒が投げ込まれた。信号はまだ赤のままだ。高橋はそれを確認しながら封筒の中身を取り出した。

「これって……」

「犯人の田中ヨシエの過去の犯罪履歴だ。六歳で万引き、それから何度も窃盗を繰り返し……」


 猪本から渡された封筒に入っていたものは、今回の殺人犯の過去の経歴だった。右上に不気味な無表情を浮かべる若き日の容疑者の写真が貼られ、その下には時系列順に彼女の犯行履歴がずらっと並んでいる。その犯行数の多さに、高橋は目を丸くした。お菓子や惣菜といった定番品から、商品の値札やと壊れたヌンチャクの片側といった何に使うのかよくわからないものまで……。


「奴さん、盗みをやめたくてもやめれなかったんだろうよ……」

「”窃盗症”ですか」

 

 高橋は呻き声を上げた。

 窃盗症クレプトマニアは、自分の利得などとは別に、盗む事それ自体に快感を得る精神病の一種である。今回の殺人犯・田中ヨシエも、数年前逮捕された時に医師からそう診断されたのだと言う。高橋は書類を猪本に返し、青いランプで”進め”の合図が出た進行方向に向かってハンドルを切った。


「被害者の竹中は、一部では有名な同性愛者だった。夫の方に近づきながらも、やはり本命は妻だったんだろう。竹中は本気だったんだろうが、田中の方は果たして、愛があったかどうか……」

「じゃあ……じゃあもしかしたら犯人は、その病気から夫の”もの”を欲しがっただけ……?」

「分からんがな。他人のものを異常に欲しがる奴らってのは、少なからずいるもんだ」


 猪本が助手席でやれやれ、と肩をすくめた。徐々に加速していく景色の中で、高橋はすっかり黙り込んでしまった。

 殺される間際、被害者は何を思っていたのだろう。自分は彼女に愛されているはずだ、と思っていたのだろうか。被害者に抵抗の跡はなく、小町曰く最期に犯人を見つめる目は、慈愛の色すら浮かべていたのだと言う。だが、実際にそこにあったのは愛などではなく、犯人は人には打ち明けられぬ病を背負い、それ故にとうとう殺人にまで及んだだけなのかもしれない……。


「それで、どうだ? ウチの死体症ネクロマニアの方は?」

「……ええ。相変わらずですよ」

「”先生”はまだ、愛だの何だのと言ってんのか」

「ええ」

「はっ。人を殺しといて、愛なんて一体どこにあるってんだよ」

「…………」


 隣の席で猪本が呆れたように大欠伸をした。目的地に着くまで、二人は無言で徐々に光の灯り出した街の景色の中を走っていった。




「……気をつけろよ」

「え?」

 やがて車はビルの立ち並ぶ繁華街を離れ、静かな住宅街の片隅に停車した。車を降りる直前、猪本が至って真面目な顔で高橋を見つめた。


「俺の勘が正しければ、あの娘、いつか死体欲しさ故にお前さんの事殺すと思うぞ」

「…………」


 しばらく車内を沈黙が包んだ。一体どこまで本気で言っているのか分からず、高橋は口を開けたまま猪本を見つめ返した。

 偏屈な上司はニヤッと唇を吊り上げると、彼の返事を待たずして悠々と路地裏の向こうへ消えていくのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る