四十 正心病
補心器を使いだしてから、すこぶる調子が良い。
心なしか、病気がちだった身体も元気になっていくようだった。病は気から、というが、あながち間違いではないのかもしれない。
私には生まれつき心がなかった。
心がなかった頃は、正直苦しんだ。
街の温泉施設や公共機関などはほぼほぼ『心ない人お断り』だったし、映画を観てもドラマを観ても、
たとえば、画面の中で、俳優が抱き合っている。
あるいは涙ながらに何かを訴えている。
こめかみに青筋を浮かべ、歯をむき出しにしている。
果たしてこの場面、笑えばいいのか、泣けばいいのか。
心ない私には、途方もない難題だった。『全米が泣いた』と描かれたポスターを見て、私はいつも、荒野にひとり取り残されたような気分に陥った。一体今のどこに、泣くような要素があったんだろう?
私にも心があればいいのに。
ずっとそう思っていた。
羽があれば空が飛べるのに。
エラがあれば水の中で息ができるのに。
それと同じように、思った。私にも心があればいいのに。
心があれば、みんなと同じになれるのに。
結婚式で、みんなが笑っているのに、私だけ笑えなかった。
お葬式で、みんなが泣いているのに、私だけ泣けなかった。
心がなかったからだ。
その結果、周りが私を異星人でも見るかのような目を向けてくるのも知っていた。
なんとか欠乏症だとか、なんとかコパスだとか、
外に出るたび、何かに出くわすたび私の病名は増えて行った。
「お面みたい」
幼稚園の友達のYちゃんは、いつかのあの日、私を指差してそう言った。
「お面みたい。つまんない」
そう言って、Yちゃんは私に三角の積み木を投げつけた。積み木は私の頬をかすめて、一筋の赤い線ができた。だけどそれで、私が心を動かされることはもちろんなかった。
心があれば……。
心があれば、友達から先生から、白い目で見られないで済むだろうか。心ある人に石を投げられないで済むだろうか。もうお父さんに殴られないで済むだろうか。お母さんは家に帰ってくるだろうか。私が心がなかったのがいけなかったんだ。心がなかったから。私が……。
「『補心器』というのがありますよ」
ある日、お医者さんが私にそう言った。
何? 『ホシンキ』?
「『補心器』。補聴器なんかと同じように……感情の起伏や、脳内物質の分泌を補ってくれる機械です」
そして私は医者に勧められるまま、『補心器』を使うことになったのだった。
それ以来、私の生活は変わった。文字通り劇的だった。
朝、太陽が眩しく、天気がいい。
それだけで何だか踊り出しそうな気分になれた。あるいは雨が降っていて、見慣れた道路のあちらこちらに水たまりができている。それだってワクワクせずにはいられなかった。胸の奥が、心臓の鼓動が、ようやく動き出したような、高鳴りが私の毎日を突き動かした。とうとう私にも心ができたのだ。
今では私はみんなと同じように笑える。みんなと同じ場面で泣ける。それが嬉しかった。それもこれも、『補心器』のおかげ、心があるおかげだ。全米が泣いている時、私も泣くことができた。
友達もたくさんできた。
「鬼ごっこしようぜ!」
心ができてから、みんなと一緒に、鬼ごっこをしてよく遊んだ。鬼ごっこ。心ない人を鬼に見立てて、思いっきり悪口を言ったり、石をぶつけたりする遊びだ。その遊びは、私にも心がなかったからよく知っている。心がある人は、傷つくからもちろんダメだけれど、生まれつき心がない人には、どんなに罵声を浴びせても良いのだった。そうでしょう? だって、心のある人々は、みんなそうしていたんだから。
だけど最初のうちは、慣れておらず、私は上手く鬼ごっこができなかった。
どうしてだろう?
不思議だった。
心のない人は、悪口を言われて当然なのに。それが
できたての心で、私は密かに震え上がった。鬼ごっこすらできないなんて、本当に心があるのかと言われそうで、怖かった。みんなと同じように……怒らなきゃいけない場面で一緒に怒らないと、泣かなきゃいけない場面で一緒に泣かないと、また私も『心ない人』だと思われそうで、怖かった。
「大丈夫だよ」
そんな私に、お医者さんは優しく語りかけた。
「アップデートを重ねれば……ちゃんと怒れるようになるからね」
そうして『補心器』をアップデートしてもらって、今では私も一緒になって石を投げられるようになるまで成長した。鬼ごっこも上手になった。心ない人に石を投げながら、私は内心ホッと胸を撫でおろした。良かった、私にもちゃんと心があったんだ!
そんな折、お父さんが死んだ。
事故だった。あっけなかった。本当に突然で、どんな感情よりも先に驚きがやってきた。
それから、驚きがややおさまってくると……次に私は、嬉しくなった。
お父さんが死んで、正直、嬉しかった。
これでもう殴られないで済むと思った。飛んでった歯を探さないで済む、口の中が血だらけにならないで済むと思った。だけど肉親のお葬式では、泣かなきゃいけないことも、こんな私だってその頃には知っていた。
「アップデートしましょう」
お医者さんが、しっかりと生え揃った白い歯を見せて笑った。
「ちゃんと泣けるように……『正しい感情』を持てるように、心を改良しましょう」
「でも……」
「じゃないと、また『心ない人』だと思われちゃうよ? それでもいいの?」
私は首を振った。もちろん横にだ。もう心のない日々には戻りたくない。みんなと一緒に石を投げたい。全米が泣いている時、泣きたい。
「安心して。アップデートで、みんなと同じ心になれるからね」
お医者さんが私の頭を撫でた。良かった。私は心から安堵した。これでみんなと同じことを思い、同じことを感じられる。『正しく』なれる。
アレは良くて、コレはダメ。
あっちは間違いで、こっちが正解。
ここは笑う場面。
ここで泣かないなんて、心がないんじゃないの。
ここで怒らなきゃ、人間じゃないよ。
この状況は……
この映画は……
この音楽は……
この人物は……
この事件は……
アップデート。
アップデート。
アップデート。
アップデート。
……もう『補心器』を、手放せそうにない。
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