三十六 10分遅れ

 早く早く。

 角を曲がった瞬間、私は猛ダッシュを始めた。走りながら、道沿いの時計で時刻を確認する。予定より10分ほど遅れてしまっていた。思わず舌打ちしそうになるのを必死に堪える。迅る気持ちを抑えつつ、私は目を光らせ、前方の小高い丘を見上げた。


 この向こうに、私を待っている人がいる……。


 それは全長300メートル、傾斜15度ほどの緩やかな坂道だった。

 両脇を住宅に囲まれ、人通りは少ない。普段なら苦にもしない通路だった。だが、過度な焦りは禁物だ。すでに夕日は沈み、辺りは暗くなっている。道の角から子供が飛び出してきて、衝突でもしたら大惨事だった。慎重に、だけど速度を保ちつつ、私は目的地へと急いだ。


 と……赤。


 案の定、10数メートル進んだところで目の前の信号がパッと青から赤へと変わった。押しボタン式の信号の前で、私は急停止した。途端に冷たい空気が纏わり付き、私は体を震わせた。顔を上げると、斜め向かいに小学生が見えた。自転車の小学生が一人、横断歩道を横切った後は、誰もそれに続く者はない。十字路は静まり返っていた。だがそれでも信号はしばらく赤のままだった。私は思わず黒いため息をついた。ここが押しボタン式の歯がゆいところだ。利用者がいなくなって通れるのに、毎回たっぷり同じ時間をかけて赤を保ち続けるのだ。


 無視して突っ切ってもいいが、こんな場所で誰に見咎められるとも限らない。私は断念して素直に青になるのを待った。ここだけ時が進むのが遅くなってしまったような、ジリジリとした時間が流れる。

 道沿いに植えられた木々の中に、大量の雀たちが潜り込み、まるでこの世の終わりが来たみたいな大騒ぎをしていた。調べてみると、集団ねぐらというらしい。子育てをし餌を持ち帰る巣と、夜な夜な寝泊まりする場所寝ぐらが違うだなんて、なんとも優雅で淫靡な人生……いや鳥生である。私も生まれ変わったら鳥になりたい。羽があれば、こんな距離などひとっ飛び……などと木々を見上げて考えているうちに、うたた寝をしていた信号機が、思い出したように青に切り替わった。気を取り直して、私はダッシュを再開した。


 もう少しだ。

 私は胸を弾ませた。この坂を越えたら……道の脇ではポツ、ポツと街灯が点き始め、道路が橙色に染まり始めていた。長い坂を最後まで登り終えたところで……いた!


 白い壁の前に、私を待っている人がいた。

 一人、二人……合計四人はいる。約10分遅れだが、ちゃんと待っていてくれた。暗がりに私の姿を見て、皆安堵したように顔を綻ばせている。中にはこちらに手を振っている人もいて、何だか妙に嬉しくなった。彼らの横にぴったりと付き、私は大きく口を開けた。待ってくれた彼らに感謝しつつ、口の中に、ゆっくりゆっくり、一人も残さないよう飲み込んでいく。全員がすっぽり腹の中に収まるのを確認して、満を持して、私の中にいた運転手がアナウンスした。


『ご乗車ありがとうございます。約10分遅れで運行しておりますこのバスは……』

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