十三 数字の男
貴方は死後の世界を信じるだろうか?
私は昔から無神論者で、天国とか地獄とか、輪廻転生だとか、死後の世界などはそもそも信じていなかった。そんなものはただの子供騙し、生者が安心したいがための
大体本当に死後の世界があるのなら、皆もっと気軽に死んでいるはずである。それが無いから……或いはあるかどうかも分からないから……大多数の人間は死を怖がり、忌むべきものとして扱っているのである。
しかし……そんな私ですら、これはもしかしたら『本当に死後の世界ってあるんじゃないか?』と思わざるを得ないような不思議な出来事が起きた。とはいえ、今まで散々周囲には『無神論者』だと豪語して起きながら、いきなりそんなことを言い出しても、一笑に付されるのがオチである。
これは誰に打ち明けたものかと思い悩んでいるうちに、息子に教えてもらったのがこのインターネットの小説投稿サイトだった。
何でも此処では誰もが自由に匿名で……前置きが長くなってしまった。あまり読んでいて面白くない話かもしれないが、できるだけ当時の記憶を忠実に、今日はその話を、そして私の悩みを皆さんにお伝えしたいと思う。
※※※
それは三年前、私が病を患い入院していた時のことである。
病院というのはやはり、一般的な社会よりも『死』が実に身近にある。
長く入院していると、同じ病室で、仲良くしていた患者が、ある日目を覚ましたら亡くなっていた……なんてことがちょくちょく起きるものである。そこでは『死』は遠い将来の出来事でも何でもない。今日の晩御飯のおかずはハンバーグだった、と同じくらいの確率で、生きている自分のすぐ隣に立っているものであった。
そういう、生と死が隣り合わせにある不安定な環境だからこそ、『この世ならざるモノ』を感じ取ってしまう人間がいるのも、何ら不思議なことでは無いのだろう。
無論、私に霊感があった、などというつもりはない。私は生まれてこの方七十年弱、ただの一度も幽霊の類を見たことはない。ただその時私が見たものは……明らかに常識的に判断できる範疇を超えていた。
”それ”はつまり……形からすると、”人”ではあった。
その晩、外は最高気温を更新とかで非常に寝苦しく、私はベッドに横になったものの、いつまで経っても深い眠りにつけなかった。仕切られたカーテンの向こう、他の入院患者の鼾を聞きながら、私はその日何度目かの寝返りを打った。
その時だった。
私は思わず悲鳴を上げそうになった。私が寝ているベッドのすぐ横、寝返りを打った目の前に、見知らぬ人影が立っていたのである。
私は息を飲んだ。その男は……真っ黒なスーツにネクタイを締めていたので、私は男だと思った……棒立ちになって、無言で私を見下ろしていた。何より私が驚いたのは、男の顔の部分に、日めくりカレンダーのような紙が貼り付けられていることだった。
顔に離れた真っ白な紙には、黒い文字で大きく『七』と書かれていた。漢数字だ。私が凍りついたようにその数字を見つめていると、黒服の男はやがて煙のようにスーッと消えてしまった。
初日は、私もあまりにも寝付けなくて妙な夢を見たのだと思った。その手の与太話はいくらでもある。この病院にすら、真夜中に、トイレで女の啜り哭く声が聞こえるだの、出来の悪い怪談噺は数え上げればキリがなかった。ただその次の夜、『六』と書かれた紙を顔に貼った男が枕元に立った時は、流石に私も腰を抜かしそうになった。
それから『五』、『四』……と、『数字の男』は、それから毎晩私の元へと訪れた。彼(彼ら?)は、大体夜中の二時から四時の間にやって来た。特に私に何をするでもなく、私が話しかける隙も与えずに、サーッと消えて行くのだった。とはいえ、いくら何もしてこないといっても、枕元に立たれるのは気持ちのいいものではない。日に日に減っていく数字にしても、私は薄ら寒いものを感じていた。
顔に数字を貼り付けた、黒服(喪服なのだろうか?)の男を目撃してからというもの、私は疑心暗鬼になっていった。私の症状は簡単に言うと胃潰瘍で、だいたい一週間から二週間で退院できると医師からは話があった。しかし……本当にそうなのだろうか?
『数字』のカウントダウンが進むにつれて、私は恐ろしい考えに囚われていた。即ち、私の症状は本当は末期ガンとか、すでに余命が決まっている重症で、周りはそれを隠しているのではないか? と言うものだった。もしかしたらあの物言わぬ『数字の男』たちは、私に寿命を伝えに来た死神の類ではないのだろうか。だとすれば、数字が『零』になった時、私は……私は自分の妄想を振り払うように、一度ブルっと身震いした。
それから数日後。
確か数字が『三』とか『四』の夜だったと思う。
私の斜め右隣に入院していた患者のサイトウさんが、突然ポックリと亡くなった。
最初にお話しした通り、それ自体は特段珍しい事でも何でもない。ただ、サイトウさんは死ぬ前日、同じ部屋で過ごす我々に少々おかしな事を言っていた。
「夢を見たんだよ」
死ぬ間際、彼はしきりにそう語っていた。
「枕元に、ご先祖様が大勢立って。家内もいた。『お迎えに来ましたよ』って、俺に手招きすんのさ」
そう話すサイトウさんの顔は何だか穏やかで、むしろ嬉しそうにも見えた。自分がこれから死ぬ事を、悟りきっているようにも見えた。
普段の私なら……三途の川だとか、あの世からお迎えが来るなんてそんなものは信じないのだが……その時ばかりは勝手が違った。何せ私の枕元にも、同じような人物が夜な夜な立っているのである。もしかしたらあの男たちは、私の遠いご先祖様かもしれない。もう少し詳しくサイトウさんに話を聞いておけば良かったと、私は少々後悔した。
そうしているうちに数字は『二』になり『一』になり、とうとう今晩数字が無くなると言うところまで来た。その日の晩、私はベッドに横になりひたすら寝たフリをして、『数字の男』が現れるのを待った。それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
突然私は、スーッと、力が天井の方に抜けて行くのを感じた。
これは実に表現が難しい。
たとえて言うとすれば、筋肉痛のまま寝っ転がって、感じていた疲れが吸い取られて行くような感覚。私の体の中にあるエネルギーや、”気”、あるいは”魂”のようなものがどんどん昇って行く感覚であった。
さらに私は、閉じている瞼の向こう側が、急に熱くなるのを感じた。暗かった視界が、向こうで何やら光を当てられているかのように、真っ赤に染まって行った。誰かが部屋の電気をつけた訳ではない。看護師が見回りに来たのでもないのに、懐中電灯を当てられたみたいに、急に顔の前が熱を帯びて行った。
目を開けてはいけない。
私は何故だか、すぐさまそう思った。特に理由はない。ただの直感としか言いようがない。正体は分からないが、寝ている私の上に”何か”がいる。
今目を開けてしまうと、取り返しのつかない事になりそうで、私は必死に目を閉じていた。その間にも、体からはどんどん”何か”が吸い取られて行った。実を言うと、吸い取られる行為自体は、私は決して悪い気はしなかった。痛みや疲れがどんどん無くなって行くような感覚なのだ。むしろ気持ち良いくらいで、これが死ぬと言う事なら、なるほど案外悪くないとすら思えた。
それでも私はシーツにしがみつき、必死に抵抗した。
吸い取られた挙句どうなるかを考えると、私は背筋が寒くなった。まだ死ぬ訳には行かない。孫の七五三もまだだと言うのに! まさかそんな大病だとは思っていなかったから、まだ遺言状も遺産の配分も決めていない。私はまだ死にたくなかった。そもそも死んでも良いやと思っているのなら、わざわざ入院などしない。気がつくと私は全身にびっしりと汗を掻きながら、必死に歯を食いしばっていた。
「どうして?」
不意に耳元でそう囁かれて、私は心臓が口から飛び出そうになった。
それでも私は目を閉じ続けた。汗でびっしょりと濡れたシーツに爪を立て、ブルブルと震えながらも必死に聞こえないフリ、寝たフリを続けた。
やがて、どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に私の目の前から光が消え失せ、暗闇に戻った。
天井の方から吸い取っていた”何か”も、何処かへと去って行ったのだろうか、急に何も感じなくなった。代わりに
ズシン!
と、今まで吸い上げられていたものが戻って来たかのように、自分の体に重さを感じた。
私は冷や汗を垂らしながら、恐る恐る目を開けた。病室は静まり返っていて、暗闇に包まれ、枕元にもカーテンの向こうにももちろん誰もいなかった。ただ、壁際の窓が何故か空いていて、冷たい夜風が部屋の中に入り込んでいただけだった。
※※※
それから次の日、私の隣で寝ていたイノウエさんが亡くなった。良く鼾をかいていたイノウエさんだ。もちろん、それ自体は特段珍しい事でも何でもない。ただ、彼は死ぬ前日、見回りに来た看護師たちに妙な事を言っていたと言う。
「迎えが来たんだ」、と。
そんな与太話はいくらでもあるから、看護師たちも気にも止めなかったらしい。
それから私は無事退院し、三年の月日が過ぎた。その間に家内は亡くなり、私はこの世に一人残されてしまった。死の間際、家内は私にしきりにこう話していた。
「お迎えが来たんですよ」と。
その顔は晴れやかで、これから死にに行く者の表情には、私にはとても見えなかった。
『お迎え』。
……今になって思う。死んでいった彼らの話を思い出すたび、私はふと不安になるのだ。
もしあの時病室で私が抵抗しなかったら……私はそのまま『死後の世界』に連れて行かれたのだろうか。あれ以来、今のところ私の元にあの男は現れてはいない。そして、これから『お迎え』に来るとも限らなかった。
とはいえ、生き物である以上、人間はいつか死ぬものだ。年老いてさらに、それをひしひしと感じている。
だが、もしかしたらもう二度と、私には『お迎え』が来ないかもしれない。何故なら、カウントダウンはとうに零になってしまったのだ。
今にして思うと、もしかしたらあの黒服の顔に貼ってあった数字は……私の寿命などではなく……何らかの『期限』だったのではないかと思うのだ。つまり、天国とか地獄とか、死後の世界に渡れる『制限時間』。
彼らは
だが、もし『出発時刻』を過ぎてしまったら……彼岸に渡れない死者は、一体何処に向かうのだろう? 私には想像もつかなかった。
『お迎え』に呼ばれ、無事死の向こうへと連れて行かれた人々。
それを跳ね除け、減って行く数字を無視し今生にしがみついた私。
……もう一度だけ問いたい。貴方は死後の世界を、信じるだろうか?
もしその世界に渡れる鍵を、人生で一度だけ手に入れる事が出来るなら……貴方はそれを受け取るだろうか? それとも突っぱねるだろうか。それは一体、どっちが良かったと言えるのだろう?
一人この世に残された私は、未だに悩んでいるのである。
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