7‗初デートは水族館

「おはよう。明君。待った?」

「いいや、全然」


予定通り日曜日の午前中に湊川を誘い出すことに成功した上沢は、前日緊張で眠れず、本日期待しすぎて2時間前から待ち合わせ場所にいたことを華麗に隠して、現れた湊川にゆっくりと手を振った。お気に入りの赤いスニーカーに、白いパーカーを着て、ジーパンを履いた上沢は、驚くほど周囲に馴染み、改めて自分のモブキャラ具合を痛感する。対する湊川は、大人しい紺のワンピーススタイルであるが、その清楚さをより一層高めている。髪に小さくつけられたヘアピンが、太陽光に当たってキラキラと輝き、彼女の可憐さを更に際立たせていた。

すれ違う人々がアンバランスな二人を眺めては通り過ぎ、眺めては通り過ぎていく。水族館に入る前から、自分が見世物動物のような気分だ。今ならアシカと仲良くできる気がする。


「水族館楽しみだね!」


弾けるような笑顔を浮かべる湊川を眩しく見つめながら、チケットをくれた新開地に心の中で合掌し感謝の涙を流す。突然男泣きを始めた上沢に驚き、湊川は彼の手を引いた。


「そんなに楽しみだったの?嬉しい!私もなの!」


長蛇の列の水族館の入場ゲートを潜り、二人は一番に出迎えた大きな水槽の前で立ち竦んだ。巨大な水槽の中に無数の魚が蠢いている。イワシの大群が渦を巻いて旋回している。サーディンランというらしい。ランってrunなのだろうか?イワシに足が生えてバタバタ走る様を想像して、上沢はぷくすすと笑った。隣の湊川は、小さな手を水槽に添えて、キラキラ輝く瞳で水の中を見つめている。


「綺麗……」


思わず零れた言葉は何処までも澄んでいて、美しい。水の中に取り残されてしまうんじゃないだろうかと不安になる。思わず湊川の手を握る上沢を振り返って、彼女は笑った。水の中のライトが彼女を淡く照らしている。


「行こうか」

「うん」


手を取り合って、ゆっくり歩きだした二人の背中には照れが隠れていた。耳が熱い。空いた手で自分の顔を扇いでいると、湊川も頻繁に汗を拭っているのが見えて、上沢は口角を上げた。

そんな初々しい二人の様子を、陰からハンカチを嚙み締めながら見守っているのは、新開地とゆかいな仲間たちだ。その中でひと際大きい長田が腕組みをして、新開地を見つめている。


「なんだい?言いたいことがありそうだね。長田君」

「なんで俺が先輩と一緒に居なきゃならんのですか?」

「長田君は二人が気にならないのかい!?」

「いや、気になるから、二人の間に割り込みたいんですけど、先輩止めたじゃないですか?」

「止めるに決まっているだろ!?」


影ながら見つめたい新開地と、二人の間に割り込みたい長田の静かなる戦いが、二人に気づかれない間に幕を上げていた。



天井を魚が泳ぐスペースや、熱帯魚のスペース、クラゲ、カニなどのスペースを超えてウミウシのスペースに来た時、湊川がその目が体長僅か数センチの生き物に釘付けになった。赤や青、黄色などの派手な見た目をしたそれらは水の中を泳ぐダンサーの様だ。「可愛い!可愛い!」とはしゃぎ声を上げる湊川の肩にゆっくり、ゆっくり手を伸ばす。「今だ!今しかない!肩を組むんだ!」頭の中に緊急アラートが鳴り響く上沢を知ってか知らずか、湊川が凄い力で上沢の右手を掴んだ。


「あれ見……あっ!ごめんなさい!」

「否、大丈夫」


触れた手が熱い。


「明君……あの……」

「待って、雫さん。俺に言わせて……手、繋いでいいかな?」

「はい」


お互い耳まで真っ赤にして、何度か空振りをしながらも漸く手を繋いだ二人がゆっくりと水族館の廊下を歩いていく。まるで急に異空間に放り込まれたようだ。心臓と耳が直結してしまったのかも知れない。ドキドキと早鐘を打つ心臓の音を間近で聴きながら、上沢は汗ばむ手を湊川が不快に思っていないか心配していた。また湊川も張り裂けそうな心臓の音が上沢に聞かれていないことを願っていた。


「あらぁ~?もしかしてだけど~、もしかしてだけど~、二人は結構なんだかいい雰囲気なんじゃないの~?」


二人の後ろを歩く青い髪の女が、首を傾げてリズムを刻みながらにっこり微笑んでいた。


一通り建物内を周回した二人は、イルカのショーがもうすぐ始まるというアナウンスを聞いて、プール際の席に座っていた。五分前のアナウンスが流れた後、何故かイルカでもなく、飼育員でもなさそうな女が一人イルカショーのステージに立っていた。警備員の「すぐに離れなさい!」と叫ぶ声が耳を触る。これは嫌な予感がすると思った瞬間、女は口角を上げて水の中に飛び込んだ。イルカが自由に泳ぎ回るに相応しく、深いプールを女が縦横無尽に泳ぎ、そして水の上に立つ。沸き立つ歓声をバックにしてガタンッと席を立ちあがったのは湊川だ。

遅れて上沢も立ち上がり、「貴様、ネヴァーウィッチーズだな!」と指を差す。女は脱力した体と声でふにゃふにゃと笑った。


「デートの邪魔に来ました~。お察し通りネヴァーウィッチーズ、私はアクアと申します~」

「急にラテン語!!」


ネヴァーウィッチーズと聞き、歓声を上げていた観客が、我先にと出口を目指すがドアに触れる直前、プールの水で作り上げた水の壁が人々の行動を抑制する。


「ここにいる人は、誰一人として~、外には出しませ~ん。何故なら、ヒーローを呼ばれると困るからですね~」


分厚い水の壁は人が通り抜けることも敵わず、無情にも締まった扉に力強く圧力をかけている。これでは、外から押しても開くことはないだろう。


「みなさ~ん。着席してくださ~い?私は一般人にはてをあげませ~ん。私の目的はここにいる、擬態したヒーローですから~」


おずおずと席に戻っていくのは諦めているからか、もうそういう経験に馴れすぎているからだろう。

それぐらい長い間人類はネヴァーウィッチーズと戦ってきたし、そして敵わなかった。彼女たちを倒せるのはヒーロー、ストロングリバーだけだ。

そう、あんな脱力系、間違いなくストロングリバーなら一発で退治できるが、今彼……否、彼女は湊川雫だ。そんな力は持ち合わせていないし、こんな大勢の人の前で変身することなど叶うはずがない。

「困った。というか、完全に詰んだ」頭を抱える上沢を見て、湊川は「大丈夫だよ」と声をかけた。肩に乗せられた手が震えている。


「だ、駄目だよ!?雫さん!」


その手を両手で握りしめて、上沢は湊川を注視したが、彼女の視線は地面を這っていて目が合うことはない。小さく震える湊川は、きっと迷っているのだ。ここで今、変身すれば間違いなく正体がバレてしまう。ただでさえ、学生であることはリサーチされているのに、実名が公開されてしまうと、結果は見えている。

彼女の敵が、ネヴァーウィッチーズだけではなくなってしまう。

人類も彼女の力を求めて、彼女に戦争を仕掛けるだろう。もしかしたら、協力を要請するというていを取るかもしれないが、実質は目に見えている。

そんなことに協力はできないし、させることもできない。


上沢は強く握った手をさらに強く握りしめた。湊川の柔らかい細腕が軋む。


震える二人と周囲を人間をあざ笑うように、ネヴァーウィッチーズのアクアは「出てこないなら、み~んな水に沈めるしかないですね~?」と口角を上げた。三日月型に歪む口元がぴくぴくと痙攣している。

興奮でもしているのだろうか……?

そう思った矢先、天井を突き破るいかづちが水面に降り注いだ。


一番大きな雷に直撃したアクアの体が、水中に沈んでいく。力技でぶち抜かれた天井の上、屋根の上に二人の人影が見えた。金色の髪のグラマラスな女性と、細身の白髪の女性だ。

ガッとヒールで足元に残った瓦礫を蹴り、水中に落とした金髪の美女は、ザッと音を立ててステージの上に立つ。あの姿は間違いない、ライトニングだ。

沸き起こる歓声の中、ライトニングは水面に浮かんできたアクアに向かって「テメェ、ふざけてんじゃねぇぞ!ババァ」と中指を立てる。

一応この小説はヒーローラブコメなのだから、規制が入るような真似は是非とも辞めて頂きたいが、いまはそんな贅沢なことを言っている場合ではない。


ライトニングの隣にまるで羽でも生えているかのように優雅に降り立った白い美少女は、見た目通りか細い声で「その辺にしておきましょう」とライトニングを制した。

「誰か知らないが、よくやった!」心の中で称賛していると、湊川がその女性を注視していた。知り合いなのだろうか?

そういえば、湊川の交友関係は知らないな?と首を傾げる上沢の横で、彼女は「エース」と囁いた。

どうやら彼女の名前はエースというらしい。実に可憐な彼女らしい名前だとうんうん頷いていると、湊川は再び立ち上がってプールサイドの敷居を乗り越えようとしだした。


「待って待って待って!!!」


あわや丸見えになりそうだった彼女のスカートの中身を、スカートを引っ張ることで阻止した上沢は、「落ち着いて」と湊川を制する。


雷に直撃して黒焦げになったアクアは、這う這うの体でステージの上に這い上がり、仰向けで大の字で転がる。


「いきなり~落雷はダメだと思うんですよ~。水は電気に弱いって、ポケモンでも言ってるじゃないですか~?」

「うるせぇ!馬鹿!なんでお前が前線に出張ってきてるんだよ!!」

「だってぇ~。フレイムが心に傷を負った!って暫く有給取得しちゃったし、貴方が抜けましたから~。研究員の私が、引き摺り出されたんですよ~?」


「ホワイト企業だな!」と思わずツッコミを入れそうになる心を落ち着かせて、上沢は今にも飛び掛かりそうな湊川の肩を押さえつけることで押し留める。ふーふーと珍しく肩で息をする湊川の背中を撫でた。


「でも~、ヒーロー来ませんでしたねぇ~」

「私も、ヒーローだよ」


薄幸の美少女が、細い、細い指をアクアの額に添える。バチンッとすごい音が響いて床面にめり込んだアクアは何が起こったのか分からず目を丸くした。額から煙が出ている。どうやら、デコピンをされたらしい。とんでもない力だ。確かにヒーロー、ストロングリバーを彷彿とさせる力を保持しているらしい。幸薄そうに見えるのに。

唖然とする周囲を見渡した後「私の前から今すぐ消えて。じゃないと、貴方を殺してしまうから」と淡白そうに彼女は言葉を紡ぐ。眠そうな眼は、アクアに似たものがあるが、アクアと違って目の奥に光りはない。


「分かりました~。命は惜しいですし~。今の私は、満身創痍です~。貴方と戦っても勝てませんので、ここは引き上げます~。それでは皆さん、ばいば~い」


最後の最後まで危機感や緊張感を感じさせないのほほんとした喋り方のまま、彼女は大穴の空いた天井から飛び出していった。呆然と眺める観衆たちに振り返り、ライトニングは「もう大丈夫だぞ!」と拳を高く上げた。

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