3‗新たな敵、それは……

「吃驚したね」


放課後、疲労困憊で机の上に崩れ落ちる上沢の頭上から鈴を転がすような愛らしい声が降ってきた。まるで柔らかく温かい慈愛の雨を受けているようだと感じながら、上沢はゆっくりと顔を上げる。


「雫さん」

「明君、大丈夫?」

「なんとかね」


草臥れた制服のシャツをより一層草臥れさせている。


「でも、これじゃあ体が持たないよね」


「明君の」明確にそうは言わなかったが、湊川は困ったように上沢の顔を見ていた。上沢の方も困惑している。

平凡を体現してきた上沢は、ここまで人の目晒される機会が今までなかった。そう、今日一日で、彼は相当疲弊していた。

例えるなら、大量の蛇が居る小屋の中に一匹放り込まれた蛙の様な状態だ。蛇に睨まれた蛙はそのまま食べられるしかない。


「でも、人の噂って七十五日って言うから」


何とか自分を奮い立たせる上沢の手を湊川の小さな手がそっと包み込んだ。


「私は何があっても明君の味方だよ」

「……ありがとう」


上沢が空いた手で手を、湊川の華奢な手を包み返した瞬間、校庭に響き渡る雷鳴が耳を劈いた。

瞬時に校庭へ視線を向ける湊川の瞳はもう可憐な少女のそれではない。ヒーローの瞳だ。

熱く燃えがる気迫を感じて、おずおずと手を放す上沢に対して「待っていてくれたまえ」と声をかけ、掌を翻した。その刹那、彼の目の前には青いスーツをまとった大柄な筋肉質な男が立っている。何度見てもこの変化は不思議だ。歩く人体不思議展である。


先日の騒ぎで歪んだ窓から飛び出していくストロングリバーを見届けて、上沢は荷物をまとめて校庭へと走った。騒めく廊下をすり抜けて走る。

平凡と言われていた上沢は、平凡な人生を望んでいた。平凡で、なんの波風も立たない。普通の幸せを渇望していた。

しかし、今はどうだろう。学園一の美少女を好きになった。彼女がヒーローで、大柄な男で、その拳は岩をも砕くと知っても、彼女の、否、彼の?力になりたいと思う。

なんの力も持っていない平凡な一市民なのにそう思うのだ。

胸が熱くなって、走り出した足が止まらない。息が切れる。酸素が足りない。でも、階段を駆け下りる足はしっかりとしていた。


「ストロングリバー!」


校庭に出た上沢はヒーローの名を叫んだ。振り返る大柄な男の目は暖かい。その奥に立つピンヒールの女は、怒りの顔を露わにしてまた落雷を落とした。


「俺の名はライトニング。ネヴァーウィッチーズの一人だ。ストロングリバー、貴様の大切なモノをかけて俺と勝負だ!」

「大切な物だと?」

「そう、例えばそこにいる少年とかな!」

「え?」


指を指され、突然会話に巻き込まれた上沢は挙動不審だ。何を言われているのか理解できない。周囲の視線を独り占めしてしまった上沢は「あ、どうも。どうも」と頭を下げる。これでは、前座の漫才師である。


「なんだ、と?」

「その大きい顔についてる耳は飾りか?ストロングリバー」


一人会話の波に乗り遅れた上沢を放って、ヴィランとヒーローはバチバチと視線の稲妻を打ち合った。漫画であればゴゴゴゴと後ろに効果音が流れていることだろう。

上沢はというとどうしたらよいかわからずとりあえず前座の漫才師を続けている。パチパチと打ち合わされる掌を見て周囲は困惑の色を浮かべているが、やり始めたものは止まらない。

こんなところでモブキャラの能力を出さなくてもいいのに、自らの運命を呪いながら上沢は首を垂れていた。


「上沢君が困惑しているじゃないか!」

「うるせぇ!元はと言えば貴様が巻き込んだんだろうが!勝負だ!ストロングリバー」

「……致し方ない」


「致し方なくない。お前が負けたら俺はヴィランの手下になるんだぞ!?」喉まで出かかった言葉を飲み込んで、上沢は「頑張れ!ストロングリバー!」と周囲とともに拳を振り上げた。是が非でも勝って貰わないと困る。平凡な人生が一転、闇落ちしてしまうではないか。


瞬間、空気を揺らす程の拳のぶつかり合いが始まった。


ストロングリバーの重い一撃を難なくかわし、ライトニングと名乗ったネヴァーウィッチーズの工作員は、その長い足を振り上げる。遠心力の力を得て、風を切る鈍い音を立てる足を拳でいなして、ストロングリバーは空いた胴体に向かって叩き込もうと拳を握った。ライトニングはその溜めを見逃さず、拳に向かって雷を彷彿とさせる電撃で攻撃した。

バチバチと音を立ててストロングリバーの拳が青い雷に焼かれる。


能力は互角か、それ以上だった。


図体の大きなストロングリバーの大振りの攻撃を華麗に避けるライトニングは、まさしく稲妻の様だ。焼けた掌を振って、雷による炎を消火するとストロングリバーは間合いを取り、再び戦闘態勢を取った。

「これは、所謂、ヒーローピンチの状態なのではないか?」困惑する上沢の横で、背丈の小さな同級生が「頑張れー!」と叫んだ。

「そうだ、俺は誰よりもストロングリバーを、雫さんを、信じなければならない」ぎゅっと握った拳を再び振り上げて「ストロングリバー!」と声の限り叫んだ。今までの人生で一度もここまで声を張り上げた覚えはない。喉の奥がひりつくのを感じながらも上沢は、声を上げた。周囲もそれに同調して声を上げ始める。


「……上沢君」


ほっこりと顔を緩めるストロングリバーを見て、ライトニングは怒りに任せて地面を踏みしめる。バチンバチンと音を立てて校庭に落雷の雨が降る。


「やっぱり、てめぇだけは許せねえよ。ぽっと出の癖に上沢の相棒ですって顔しやがって」


ぎりぎりと奥歯を噛みしめながら、ライトニングは拳をパキパキと鳴らした。血走った金色の目が憎悪に歪んでいる。


「長田……?」


上沢はその瞳に見覚えがあった。瞳の色こそ違うが、その金色の瞳の奥に宿る憎悪や、困惑、寂しさは先ほど痛感していた。ぽろりと零れた上沢の言葉に、ライトニングは弾かれたように視線を向ける。その瞳には確かな困惑が滲んでおり、自分の推理が正しいことを上沢は感じた。


「長田、長田なんだろ!?」

「違う!俺はライトニング様だ!」


ライトニングの叫びと共に巨大な雷雲が立ち込め、ゴロゴロと地面を揺らすような雷鳴が響く。我先にと構内に避難する人々に肩を弾かれながらも、上沢はそこから動かなかった。やがて、ぽつりぽつりと雨が降り始める。程なくして、豪雨に変わり、全身をぐずぐずに濡らした三人の間に沈黙が重く伸し掛かっていた。


「君は、長田新ながたあらた君なんだね」


穏やかな声で、ストロングリバーがライトニングに声をかけた。その声はゆったりと流れる温泉のように柔らかく温かい。

グスッグスッと鼻をすすりながらライトニングは「俺が先に見つけたんだ」と泣き声を上げた。ビシャンビシャンと音を立てて雷が落ちる。「なんだこの状況は」と困惑しながら上沢は「そっかー」と言葉を零す。

2,3日前の自分では絶対にこのことに気がづかなかった筈だ。物事の許容力が上がっている自分に涙が零れる。


「こんな奴のドコがいいんだ。力任せのマッチョで脳筋。顔はケツ顎、身長だって2m越えだぞ。親子かよ」


ぶつぶつとライトニングは不平不満を並べ立てる。その度に落ちる雷は最早、カウントダウンウォッチだ。大きな胸を邪魔そうに揺らしながらライトニングは貞子顔負けの前傾姿勢を取った。ストロングリバーが次の一手を考えて身構えるが、上沢は平然と「ああ、疲れたんだよ」と笑った。


「こいつ疲れると、チンパンジーのポーズするから」

「うるせぇ」


最早否定することも諦めたらしいライトニングはぺたんとその場に座り込んだ。


「嫉妬で暴走した上に、任務失敗って俺かっこ悪いじゃないか」


「穴があったら入りたい」と校庭に転がるライトニングに視線を向け上沢は、「穴ならお前が雷で山ほど開けたけど」と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。代わりに飛び出したクシャミにストロングリバーとライトニングが反応する。


「否、このままじゃ俺、風邪ひくわ」


ヒーローでもヴィランでもない一般小市民の俺は、普通に風邪をひく。

それぐらいの豪雨だったし、体を伝う水は容赦なく体温を奪っていく。ぺったりと張り付いた草臥れた制服が鬱陶しい。周囲の音が雨に溶け込んで遠い。校舎の中から無遠慮に投げられる困惑した視線を背中に感じながら、雨独特の生臭い匂いが鼻孔いっぱいに広がったと思ったら、たくまし過ぎる腕にひかれた。ゴッととても硬い物体に顔が押し付けられる。アスファルトの上で横になってる気分だ。


「人肌で温めるといいと聞いた」

「うん、雨宿りしてる状態だったらそうかな」

「貴様!俺の前でいちゃつくんじゃねぇ!!」

「お前は眼科に行け。俺は今、顔面が胸筋って名前のアスファルトですり潰されそうになってるんだよ!」

「誰だ!?そんな酷いことをするのは!!」

「お前だよ!!!」


二人のツッコミを受けて、上沢から体を離すストロングリバーは、飼い主に構って貰えなかった大型犬のようにしゅんと首を垂れた。思わずその金色の剛毛に手を伸ばしてわしゃわしゃ撫でまわすとストロングリバーの顔がみるみる明るくなった。これは面白いかもしれない。新しいおもちゃを見つけたように興奮していたら、ライトニングが「あーあ」と顔を覆った。


「片思い相手が恋人といちゃつく姿は見せられるわ、任務に失敗するわ、正体はバレるわ……今日は厄日か?グッバイ俺の居場所」

「何言ってんだよ。お前、今日は誰も傷つけてないだろ。ヴィランと一般人だろうと俺たちは親友に違いはない。そうじゃないのか?」

「……上沢?」

「私も同感だ。君はヴィランとして生きるには優し過ぎる。どうだろう、今日から私のサイドキックとして活動してみないか?」


ライトニングが金色の瞳が困惑に揺れる。我ながら突拍子もないことを言い出したのは自覚しているが、言葉にしたことはもう元には戻せない。「脳死で発言する癖、改めないとな……」心の中で数秒前の自分の首を力いっぱい絞めながら、上沢は眉を下げた。


「俺は、ヴィランだ……」

「最近はダークヒーローってのも流行ってるじゃないか。お前だって、デットプール好きだって言ってただろ」

「……うっ」

「俺、敵が主人公に寝返る話結構好きなんだよな」

「ううっ!」


胸を押さえて転がりまわるライトニングの背中は校庭の砂でドロドロだ。「こいつ、本当になり振り構ってないな」と思いながら、あと一押しか、と上沢は言葉を選ぶ。


「クールなサイドキックが欲しいよな。ストロングリバー」

「勿論だとも」


見えない尻尾を振って同意を占めすストロングリバーと俺を交互に見て、ライトニングは「あー、畜生!」と叫び俺たちの間に割り込んだ。柔らかい胸が肩に当たって思わず心拍数が跳ね上がる。チョコマシュマロのように芯があって柔らかい。先ほどのアスファルトと比べるのも失礼なほど立派なものがたわわに実っている。


「畜生、最前線でお前らの邪魔をしてやるからな!」

「できるものならやってみたまえ」


上沢を他所に敵なのか味方なのかよくわからない会話を繰り広げた後、拳で友好を確認する二人を遠目に見て、上がった雨にほっと胸を撫で下ろした。

……否、もしかして俺は地獄に片足を突っ込んだんじゃないか?

上沢の脳裏に過った一言は、頭を振ることでかき消された。

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