五十六

「冬野!」


連れたって歩いている冬野と千夜に駆け寄ってきたのは、何と新之介であった。


「新之介……何かあったのか」


彼にしてはめずらしく慌てている様子である。

ただ事ではないと、冬野は感じた。


「今すぐ家に帰れ。……高村家が危ない」






(後悔なんかしてない……)


冬野と千夜の関係、それに千夜の身の上を中原仁兵衛に告げ口したのは菫であった。

高村家に対して父が怒るように仕向けたのである。


御書院番頭を務める仁兵衛ににらまれたとあっては、仁兵衛の下につく主計、ひいては高村家の立場は危ういといったところだ。


これは菫の復讐だった。


地位も、容姿も、教養も、すべて千夜より勝っていると思っていた。

たかが町娘に本気になるなんて馬鹿らしい。


とてつもない屈辱を味わったのだ。許せるわけがない。

だからこの復讐をもって、すべてを忘れる。

行き場をなくした菫の想いのすべてだった。



(私は悪くない……)


言い寄れば心をかたむけてくれると思っていた。

なのに千夜は振り向いてくれなかった。


昔は純粋に、忠吉は千夜のことを好いていた。

だけど彼女が汚れてしまったことが許せなくて、見捨てたことに罪悪感を抱いている。


女に振られたこともなければ、むしろ女の方から言い寄られてきた忠吉にとって、千夜が再び振り向いてくれなかったことはある種の屈辱だった。


はじめて自分から好いた人だったのに、千夜がかつて妾をしていたと菫にらしたのは自分である。


すべての罪悪感を忘れたいのに、あの琴の音が耳から離れない。






中原家との縁談が破談となった経緯いきさつを新之介から聞いた冬野は、真っ先に自宅へ帰り、いま父の前で全身を低くしていた。


「申し訳ございません」


破談となった原因は、千夜との関係にある。


千夜との未来を望むことで、高村家は窮地に立たされた。

御書院番を務める父の立場を苦しめたのは、自ら欲した願いだった。


「なぜ謝るのだ」


「私の所為せいで……」


もう呆れてしまって怒ることもできないのか、怒鳴られないのが不思議なくらいだ。


武士の世界が息苦しいと感じたこともある。

すべてを捨てて、千夜と一緒になりたいという愚かな考えさえ芽生えていたのも事実だ。


「ならお前は、あきらめるというのか」


だが父を、高村家をおとしれることはできない。

そのためには千夜を諦めるより他に道はないと、父はずっとさとしてくれていたのだ。


父の願いを受けて、冬野は答えた。

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