五十五

権六にはおたねという娘がいた。

連れ合いを早くに亡くし、父一人子一人、とはいえ親子は寂しくもない穏やかな暮らしをしていた。


ところがおたねが十六になったとき、この親子に別れが訪れる。


どこで出会ったのか、おたねは武家に仕える中間ちゅうげんといい仲になって、男を所帯を持ちたいと権六に言った。

権六がそれに猛反対したのは、仮にも中間だという男が明らかに身を持ち崩していて、しかもおたねが金を貢いでいるのがわかったからである。


一人娘に甘かった権六は、大切な娘ゆえに、どうしても許すことができなかった。


大喧嘩の末におたねは中間と駆け落ちし、行方知らずとなってしまったのである。

以来権六は、普段の愛敬の良さが失せ、にこりともしない気難しい性格になったのだった。


娘と別れて六年が経った今になって、権六はおたねの居所を知ることになる。

知らせたのは荒木音十郎だった。


おたねは駆け落ちした後、中間に岡場所に売り飛ばされていて、六年間ずっと店で働かされていたのだが、つい先日に店で起きた刃傷にんじょう事件に巻き込まれ、おたねは絶命していた。

この事件を担当したのが音十郎で、せめておたねを家族の元に返してあげようと、実家を探し当てたのである。

今日、音十郎が来たのは、おたねの野辺送りが済んだ権六の様子を見に来たためであった。


「権六さんに申し訳がないからって、おたねさん、身元は言わなかったそうですね」


権六の元を去ってから反発した父の親心を知って、おたねはやるせなくなったのだろう。

おたねは帰りたい場所に帰れなかったのだ。


ただの一度だけ、おたねは同僚に自身の身の上を明かしたことがあって、やっとのことで音十郎もおたねが坂本村にいる権六の娘だということがわかったそうだ。


「相手が悪い男だったにせよ、一度捨てれば帰る家はなかったのか……」


駆け落ちを頭によぎらせていた冬野にしてみれば、想い人を幸せにしたいという気持ちだけでは上手くいかないということを、痛感せざるを得なかった。


冬野の父である主計は、武士の父として厳しく当たる。

だがその過程で、父はどれだけ自分を大事にしてくれたことか。

剣術の稽古もろくに身に入らず、情けない自分を決して見捨てはしなかった。

幾度となく心配をかけ通しの母の蓮も、毅然きぜんと迎え入れてくれる。


千夜もまた、太一とかやの至誠しせいを思う。

冬野との行末を心配しているだろうに、おくびにもださない二人である。

あきらめろと言われたことさえなかった。


もしも自分が家族の元を離れたら……


どうしてその考えに至らなかったのだろうか。

願いの前に、捨ててはいけないものが確かにあったのだ。






とても権六に塗物を依頼することはできずに時が過ぎた翌日、おもとの家にいた冬野と千夜を、権六が訪ねてきた。


「昨日はすまなかった。もしかして、儂に仕事を頼みに来たのかと思ってな」


「急なお願いで厚かましいのですけど……私の働いているお店で使わせてほしくて。

もし気が向きましたら、落ち着いてからで構いません」


娘を亡くしたばかりの権六に、すぐにお願いしますとは言えなかった。

わざわざ来てくれた律儀さには頭が下がる思いである。


「ぜひ作らせてほしい。儂の作った器を見たときのおまいさんの顔が、死んだおたねに重なってしもうてな……」


「お千夜ちゃん、作っていただいたら?権六さんにとってもそれがいいはずよ」


権六の気持ちをみ取って、おもとが言った。

おたねの供養と、これからを生きる千夜へのため、権六は塗物を作りたいと申し出たのだ。


塗物に込められる思いはきっと、太一とかやのような至誠に違いない。


「よろしくお願いします」


千夜は冬野と顔を見合わせて、微笑んだ。

そんな二人に、かつての愛敬たっぷりの表情で、権六が言ってみせた。


「夫婦茶碗が入用になったら、いつでも作ってあげるからな」


顔を赤らめて短い声を上げる千夜とは対象に、冬野は「はい」と勢いよく答えていた。

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