第281話 シャムの研究室

 勝手知ったる我が家のように大学の奥地まで案内され、学長室のドアを開けると、


「しつれいしまー……ス」


 テミは小さな声で言った。

 部屋の中は暗かったが、大きなガラス窓から白銀に照らされていた。来る時も明るかったが、今日は満月である。

 大きな机の向こうにある椅子は、背もたれがこちらに向いている。机の上に月光が作った影が伸びていた。


「シャムさーん、いますか」

「ごめん」


 背もたれの向こうから声が返ってきた。

 月見でもしていたのだろうか。


「テミ、今日は一人で帰ってて。私は泊まるから」

「お仕事ですか?」

「違うけど、ちょっと家に帰りたくない」

「……おうちで何かあったんですか?」


 テミが訊いてくれた。こちらに目配せをしてくる。


「……色々あるんだよ。大きい家だから。あそこにいると、家のためになにかしなきゃいけないんじゃないかと感じる」

「そうなんですか」

「……高貴なる義務ノブリス・オブリージュっていうのかな。よく分からないけど。単純に、贅沢して育ててもらった恩返しって言ったほうがいいのかもしれない。ほんとくだらないよ」


 すらすらと言葉が出てくる。

 俺やリリーさんに対するときとは違う声色だ。気安いというか、妹のように扱っているテミに対する時ならではの感じなのだろう。


 それにしても、なんだかシャムは家のことで悩んでいるようだ。そんなことで徹夜までして悩むシャムは珍しい……というか、俺のイメージの中のシャムとは違う気がした。てっきりそんなことには無関心なのかと思ったが、人知れず悩んでいたのだろうか。


「別に、やりたくないことならやらなくていいんじゃないですか? ユーリさんに言えば……」

「そのユーリが問題なんだよ」


 え、俺が問題?

 まさかシャムにそんなことを言われるとは……。


「ユーリさんが? なんで?」

「ユーリはホウ家の頭領だけど、再婚できないじゃない」


 確かに、俺は誰かと結婚することができない。結婚してしまうとシュリカや俺の立場があやふやになるので、それは非常によろしくない。


「だから、仮にリリーさんとの間に子供ができても非嫡出子になっちゃうわけ。みんなユーリとの間にできた子だって知ってても、その子はアミアン家の子だからホウ家の跡継ぎにはできないんだよ。つまり、ユーリはもうシュリカちゃん以外の嫡出子を作ることはできないってこと。じゃあ、私が子供を産むしかないでしょ」

「えっ……お子さんを産むんですか!? シャムさんが!?」


 テミは心底から驚いた様子で言った。

 シャムが子供を産んで母親になるところが想像できなかったのだろう。奇遇なことに、それは俺も同じだった。


「ふふっ」


 シャムは背もたれの向こうで自虐的に笑った。


「想像できないでしょ。でも、そうなんだってさ」


 サツキさんも、またえらく面倒なことを言いだしたもんだ。

 まあ、古い考えの人だから仕方ないといえば仕方ないが。

 ホウ家を潰すべきではないというのは、サツキさんの中ではこの世の曲がるべきでないことわりの一つみたいなものなんだろう。これは宗教のようなもので、言葉を重ねれば説得できるというものではない。


「ですけど、お相手は、どなたと……?」

「誰でもいいでしょ。はい、もう愚痴は終わり。行って。誰にも言わないでね」


 シャムはすげなく拒絶する。俺はこっそりと椅子に近づいていった。


「……どーしたの。まだなんか用? 言うこと聞けないならこちょこちょだかんね――ふみゅ!」


 俺は振り返った不機嫌そうなシャムのほっぺを両手でサンドイッチした。


「お前はそんなことで悩んどったのか。まったく……」

「ひゅーり」


 二十二歳になったとは思えぬほっぺをぷにぷにと揉んで離した。


「……居たんだったら言ってくださいよ。趣味が悪い」

「すまん。勝手に喋り始めたから、事情を聞き出す手間が省けるかと思ってな」

「……むぅ」


 シャムはすねたように黙ってしまった。


「それで、もう見合いは済んだのか」

「……あれ、ユーリが選んだ人なんですか?」


 俺が? なぜ。

 というか、その口ぶりだと既に見合いは済んでいたのか。


「いや、今日の今日まで全然知らなかった。サツキさんがそう言ったのか?」


 サツキが「この人がユーリが決めた結婚相手よ」みたいに紹介したのだろうか。それだとちょっと話が変わってくる。


「違いますけど、いろいろ想像しちゃうじゃないですか。ユーリが黙ってるってことは、承知の上のことなのかな、とか……」

「俺がサツキさんにこいつと結婚させろって指示を出したってのか? そんなバカみたいなこと、するわけないだろ」

「……知りませんよ。だって、相談もできないし……」


 どうも、シャムは俺が知らない間に常識的な判断ができないほど追い込まれていたようだ。


「俺は、お前に家の義務で子供を作れなんて絶対に言わない」

「でも、ホウ家はどうするんです? お母さんの言ってることは間違ってるんですか?」


 ……うーん。


「あながち間違ってもいないが、それはどうにでもなるから、お前は気にするな」

「嫌ですよ……」


 シャムは目を逸らした。


「それでまたユーリに甘やかされて、どうにかしてもらって、お母さんには失望されて、ここでお気楽に仕事を続けるんですか? そんなの嫌です。別に、子供の一人くらい産んだって構いません。それで責任を果たしたことになるなら」

「その、子供を産むっていうのは嫌じゃないのかよ」

「……別に」


 シャムはずっと目を逸らしたままだ。


「……お相手の人も、実際に会ってみたらそんなに嫌な感じではなかったので。それなりに手柄があるはずなのに自慢してこなかったし、学問にも……まあ、新しい技術には興味があったみたいだし、声も大きくなかったし」


 さすがにディミトリが紹介しただけあって、人柄はいいらしい。


「まだ一度喋っただけですが、この人とだったら我慢できるかなって……」


 我慢。


「我慢なんていうなら、そんな結婚は認められん。お前が不幸になる」

「じゃあ、どうしたらいいっていうんですか? ユーリにはもうリリーさんがいるでしょ。私はリリーさんがどれだけユーリのことを想ってきたか、同じ部屋で何年もずっと見てきたんです。リリーさんから略奪でもしろって? それこそ絶対に、死んでも嫌ですよ」

「あの」


 テミが口を挟んできた。


「なに」

 シャムが思いっきり睨んだので、テミはたじろいだような顔をした。

「えっ、えっと、シャムさんが好きなのはユーリさんじゃないんですか? いつもユーリさんの話をすごく楽しそうにしてますよね……」


「……好きでも、しかたないじゃん。リリーさんと先にらぶなんだから」

 らぶって。

 なんか昔からその言葉よく使うな。

「シャムさんはいつも論理的に物事を考えろって言うじゃないですか。整理しますよ? ユーリさんとシャムさんが……その、結婚せずに付き合ったら何が問題なんですか? シャムさんは歓迎なわけですよね。じゃあ、問題はリリーさんじゃないですか」


 いや、俺は?


「だから、そこがネックでしょ。リリーさんは嫌がるに決まってるんだから」

「そんなの、シャムさんらしくありませんよ。別に、浮気――じゃなかった。二股……じゃなくて、愛人が一人増えても気にしないかもしれないじゃないですか」


 選んだ結果の言葉のチョイスが愛人なのか。

 せめて恋人とかにしてほしい。


「テミはあの人のらぶの重さを知らないからそんなこと言えるんだよ。気にしないわけがない。病的に重い人なんだから。一度報われてから壊れたとなったら、リリーさんどうにかなっちゃうよ」

「だから、複数関係を持っていても、リリーさんとの関係が壊れるとは限らないじゃないですか。私の地元ではお金持ちは奥さん三人とか作ってよろしくやってましたよ」


 テミがこの感じなのは地元がそうだったからなのか。

 そもそも男にとって一夫多妻は本望であって心理的抵抗など生まれるわけがない、という認識なのかも。


「だから、絶対に成り立たないって前提を置くのは少なくとも間違いです」

「間違いだからなんなの。リリーさんとユーリは両想いでよろしくやってるんだから、お似合いカップルの間に私が挟まる余地なんてないもん」

「はぁ……シャムさん、なんでそんな馬鹿なんですか?」


 馬鹿とは。

 シャムに対して馬鹿と言った人間はこの世で初めてなんじゃないだろうか。


「馬鹿? 馬鹿って言った?」


 案の定、シャムはキレている。

 自らの知能を唯一、そして最大の誇りにしているシャムからすれば、頭が悪いとか馬鹿とかいう言葉は、あらゆる罵詈雑言の中でも一番ムカつくカテゴリーの言葉だろう。


「馬鹿じゃないですか。シャムさんは科学のことはよく分かってるかもしれないけど、人間のことは全然分かってないんですから。人間の関係って、どんなものでも相互作用ですよ。シャムさんがお二人の幸せを願っているなら、お二人だってシャムさんの幸せを願ってるんです」


 ああ、確かに。と、目が覚めるような思いがした。

 いいことを言うな。

 言われてみれば当たり前の話だ。


 なんだか、走馬灯のように今までの出来事が頭の中を流れてゆくような気がした。

 シャムが馬鹿なら俺は大馬鹿かもしれない。


「……もし逆の立場だったらどう思いますか? シャムさんが先にユーリさんを射止めたとして、リリーさんはご実家の都合で不幸な結婚をさせられて、好きでもない相手と子供を作ろうとしている。ちょっと想像してみたら分かるでしょ。シャムさんは、そんな不幸を見て見ぬ振りをして平気にいちゃらぶしていられるんですか?」


 なんだか、あの時……キャロルが末期の際の際にあんなことを言った理由が、今になってしっくりと腑に落ちた気がした。

 あいつは気に病んでいたのだ。恋愛は奪い合いなのが当然で、だから残ったミャロのことはどうでもいい、とは考えなかった。

 その姿を間近で見てたリリーさんは、だから指輪を渡した時にあんなことを言ったのだ。

 二人がそう思ったのは、別に浮気をしてほしいとかいう変な願望があったわけではなく、浮気を気に病まないからでもなかった。大切な誰かの不幸の上では、自分の本当の幸せは成り立たないと分かっていたから、あんなことを言ったのだ。


「もしリリーさんがそんなの平気だって人だったら、シャムさんだって略奪婚に抵抗を覚えたりしないはずですよ。捨て鉢になってないで、もうちょっと考えてみてください。まずはリリーさんに意見を聞いてからだって遅くはないんですから」

「でも……やだ。絶対に嫌だって言われたら、私、リリーさんのこと嫌いになっちゃうかもしれない」


 そう言ったときのシャムの表情は、なんとも不安そうに揺れていた。

 シャムの中では、自分の恋よりリリーさんとの友情のほうが重いのかもしれない。


「リリーさんなら」


 俺はシャムの言葉に被せるように言った。


「構わないと言ってた。逆に、自分との関係に拘って拒絶しないでくれと」

「なんだ、じゃあ解決じゃないですか。よかったですね、シャムさんっ」


 明るく言ったテミの声が聞こえなかったかのように、シャムは俺の方をぽかんと口を開けて見ていた。


「はあ?」


 らしからぬ素っ頓狂な声をあげると、


「それ、本当にリリーさんが? 言ったんですか?」

「ああ」

「いつ? 最近?」

「いや、一年ちょっと前……関係が始まった時にだ」


 俺がそう言うと、シャムはわけがわからないというポカンとした表情になった。


「なんで? 嘘ですよ。そんなこと絶対に言うはずがない。あんなに一途だったんだから。やっと恋人になれたその日に、なんで浮気していいなんて言うんです? リリーさんはそんな頭のおかしなことを言う人じゃない」

「キャロルから学んだと言ってた」


 それを聞くと、シャムは唖然としたように口を開き、ぱくぱくと何かを言いかけるように動かすと、途中でやめた。

 それからまた様々な思いを巡らせるように顔を変えると、


「もー怒った。あのでかぱい女。わたしがどんな気持ちで身を引いたと思ってるんだ」


 と言って、椅子を蹴倒すような勢いで立ち上がり、机の角に体をぶつけながら横を通り過ぎ、ドアに向かって走っていった。

 急いで追いかけようとするが、


「ついてこないでください。先輩と後輩、二人の話ですから」


 と言われ、白衣を翻しながら出ていってしまった。


<ご報告>

新作、「竜亡き星のルシェ・ネル」を連載開始しました。

昔から書いてみたかった魔法ありの異世界物です。

ここまで読んでくださった読者様ならきっと楽しめる小説だと思うので、そちらのほうもご愛顧、評価いただけると嬉しいです。

パソコン版ではこのページ下部からリンクで飛べます。

https://kakuyomu.jp/works/16816927862987016427


<ご報告2>

前回の更新では少し発表とタイミングが合わずご連絡できなかったのですが、当作のコミカライズが

コミックガルドから連載開始しました。ご愛顧いただけると助かります。

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