第280話 算数の先生

 部屋に入ってみると、三歳になったシュリカはふかふかのソファの肘かけに顔をうずめて、ちぎれるんじゃないかというくらい足を猛烈にバタバタさせていた。


「やーーーーーーーーだーーーーーーー!!」


 おいおい。

 大人を探してみると、王剣のティレトが突っ立ったままどうしたものかと困ったような顔をしていた。


「一体、どうしたんだ」

摂政せっしょうか。シュリカ様が、算数がしたくないと駄々をこねられていて……」

「ちがうーっ!」


 いきなり顔を上げて抗議をしだした。

 金色の髪が翻って整った顔が現れる。目が腫れていないところをみると、別に泣いていたわけではないようだ。

 本当に駄々をこねていただけらしい。


「どう違うんだ」

「あ、おとーさんじゃん」

 今気づいたのか。

「うん。一体なにをやっとるんだお前は。勉強をしたくないのか」

「ちがうーっ!!」


 抗議された。どうも違うらしい。

 そんなに否定するほど認識に齟齬があるのか。


「今日はっ! 外国語だって! 言ったでしょ! なんで算数やらなきゃいけないのー!?」

「マルタ先生が急用で来られなくなったのだから、仕方ないでしょう」

「来られなくなったならお休みっ! でしょー!?」


 そんな、同意を求めるように言われても。

 察するに、過去に同じようなことがあって休みになった日があって、今回も遊べると思ったら事情が違い、算数の先生は空いているので来てもらいましょうか、となったのだろう。すっかり遊ぶつもりだったシュリカはご機嫌斜めというわけだ。

 確かに「単に勉強をしたくない」だけで駄々をこねているわけではないようだが、そもそも「先生が休んだので遊べる」という前提がおかしいのでシュリカは諦めるべきだ。しかし、そういった理屈が通じる年齢ではないので難しい問題である。

 なんのこっちゃ。


「やだーっ! あそぶーっ!!」


 うーむ……これは……。


「あ、あのっ!」


 そこでメリッサが声を上げた。


「あの、外国語ならいいんですよね。それなら、私が……」


 なぜメリッサが。

 君は先生じゃないでしょ。

 というか、そもそもシュリカは本心では遊びたいだけなわけで、いまさら外国語をやりましょうと言われてもどうなのだろう。


「……どなた?」


 今はじめてメリッサを発見したシュリカは、謎のクラ人の存在に疑問符のついた顔をしている。


「あ、申し遅れました。わたくしアルビオ共和国から参りましたメリッサと申します。拝顔の栄に浴し光栄に存じます」

 ぺこりと頭を下げた。

「それはどうも、ごてーねーに」


 シュリカは王族らしく礼儀作法については厳しく躾けられているので、見知らぬ外国人に対してはとりあえず礼儀正しくしておこうと思ったようだ。

 ソファに寝転んだまま首だけで頭を下げたのはどうかと思うが。

 まあそこは駄々をこねている最中なので見逃してやるとしよう。


「あのっ、わたくし四ヶ国語を喋れますので、外国語について興味深いお話ができると思います。なんなら遊びながらでもいいですし……」


 メリッサはシャン語、テロル語、アーン語の他に、アフリカ大陸の南の方にある諸国家で話されているマテイルワッカと呼ばれる言語を喋ることができるらしい。

 マテイルワッカは北の言葉とは語順が異なる言語で、シャン語に直訳するとルワッカ語である。同じように、例えば調理室という単語であれば室-調理という順番で組み立てられるし、シャン語はマテイシャンという組み立てになる。重要度が低いのでちょっと勉強する気にならないが、ちょっと頭が混乱してくる言語だ。

 確かに人に教える資格は十分あると思うが、なぜ突然。

 若きエリートとしてシュリカと面識を作っておきたいのだろうか。


「うーん……シュリカ、どうする?」


 俺はシュリカに振ってみた。

 別に、顔を広くしておくのは悪いことではない。国際感覚を養う足しになるような気がしないでもないし。


「えっ、わたし?」

「ああ。嫌なら算数だな」

「ええ~っ……」


 シュリカはちらっとメリッサのほうを見た。


「あそんでくれるならいいけど……」

「はい、じゃあ遊びましょうか」


 見ず知らずの人が代打とか、人見知りの子だったら普通に嫌がりそうなところだが、シュリカにはそういうところは全然ないんだよな。

 なんかの式典とかに出ても緊張するでもなく堂々としてるし。


「摂政」

「ま、これもいい社会経験だろう。ちゃんと見守ってやってくれ」


 ここに入る前に身体検査は終わっているから、危ないものを持っているという危惧もない。

 シュリカは駄々をこねていたソファから降りてすっくと立つと、乱れまくった長い金髪をぱっと肩の後ろに追いやった。


「それじゃ、よろしくおねがいします」

 と、改めて頭を下げた。


「いえいえ、こちらこそ光栄です」

 メリッサも深々と頭を下げる。


 シュリカはニコッと笑顔を見せると、

「じゃ、いこっ」

 と言って、メリッサの手を取った。


 その際、彼女の口から「かっわ……マジ天使……」という母語が小さく漏れたのを、俺は聞き逃さなかった。


「こっちだよ」


 と、メリッサはいつも使っている大きな学習机のほうに手を引かれていった。


 ◇ ◇ ◇


「それじゃ、解散ということで」


 メリッサを置いたまま部屋を出ると、そのまま解散の流れになった。

 もうそろそろ夕方だ。


「ユーリ閣下、よろしければ少しお時間をいただけないでしょうか。お耳に入れておきたいことがありまして」


 ディミトリが声をかけてきた。


「おお、なんだ? あ、ミャロも居たほうがいいか」

 ミャロは廊下の少し先を歩いている。自分の執務室に戻るのだろう。

「いえ、ホウ家の話ですので、ミャロ殿は……」

「ああ、そうか。それじゃ、さっきの部屋で話すか」


 先程使っていた戦争用の会議室をまだ施錠していなかったので、俺は手っ取り早く部屋に入った。

 部屋は暗くなってきている。長話だと照明をつける必要がでてくるな。

 椅子に座ると、


「それで、どうした?」

「いえ、本当に大したことではないのですが、先ごろカラクモに寄った際にサツキ様と会食をした折、シャム様についての会話になりまして」

 ディミトリはこのあと用事があるのか、立ったまま口早に話し始めた。

「あー」

 おばさんの世間話か。

「どこかに丁度いい相手はいないか、というような話をされたので、流れでつい若手で有望な者の名前を出してしまいました。その時は問題とも思わなかったのですが、後から考えると、酒が入っていたせいで少々判断能力が欠けていたような気がしてまいりまして。ホウ家の将来に関わることですので、ユーリ閣下抜きでそのようなことを話してしまったのはいかがなものかと」

「そうなのか。まあ、そうかもな」


 会食といえば話をしないわけにいかないし、わざわざ俺に許可を取るような話ではないので、別に話したところで何の問題があるわけでもない。

 ただ、ややセンシティブな話題ではあるので、サツキが真に受けてしまったらお家を巻き込む大騒動の最初の火花になりかねなくもない、と思ったのだろう。


「一応、お耳に入れておいたほうがよろしいかと思いまして」

「ちなみに、誰を薦めたんだ」

「フェルー家のルウェンという者です。ご存知かもしれませんが」

「ああ、あいつか」


 ホウ家の中では珍しいタイプの、武張っていない頭脳派のやつだ。全学斗棋戦にも出ていたので覚えてる。すぐ負けたけど。

 戦争でもそこそこ戦績をあげていたのか、何度か名前を耳にした覚えがある。まだ若く少ない兵しか任されていないのに、戦功が俺の耳まで届くというのは中々のことだ。

 ディミトリもシャムの感じは知っててセレクトしたんだろうな。


「まあ、それだけです。引き止めてしまって申し訳ありませんでした」

「いや、確かに聞いておいたほうがよかったことかもしれん。助かった」

「はい。それでは、失礼させていただきます」


 本当に大したことのない報告だったので、ディミトリはそのまま部屋を辞して出ていった。

 シャムが見合いかぁ……。


 ◇ ◇ ◇


「あら?」


 しばらくして部屋を出てトボトボと廊下を歩いていると、黒い顔の少女と鉢合わせした。

 アルビオ共和国で俺に買われて解放された、元奴隷のテミだ。


「あー、算数の先生って」


 この廊下の先にテミの用事があるとすれば、シュリカがいる部屋くらいしかない。


「はい、今は私が教えさせていただいています」

 やっぱり。

「そうか。シュリカが駄々をこねて、そのあと色々あって算数は休みになった。今は改めて外国語をしてるみたいだ」

「ああ、そうなんですか」


 テミは残念でもなさそうに言った。


「悪いな。わざわざ来てくれたのに」

「いえいえっ!」

 テミはぱたぱたと手を振って否定した。


「最近はどうだ?」

「大学でなんか難しいこと教わったり教えたりしてます。もう、毎日忙しくて……」


 大学というのは、戦争が始まってからすぐに作りはじめた王立シビャク理数大学のことで、元々シャルルヴィルが持っていた都心の一区画を丸々用地として始まった。

 とはいえ、既に石造の建物が密集して建っている土地だったので、しばらくはそのまま建物を使いながら学生を増やし、順次建物を取り壊しながら新しい校舎を建てることになった。

 つい先ごろ一番大きな主校舎ができあがったところだ。そろそろシャムも根城を移したところなのではないだろうか。


「でも、楽しいです。たぶん私は研究には向いていないんですけど、シャムさんに教えてもらったことを誰かに伝えるのは得意みたいで」

「ああ。確かに、あいつは理解するのも一段とばしだが、説明するのも一段とばしだからな」

 脳みその出来が違うというか、誰にでも理解できるように説明するのは難しいタイプだ。その点で、テミはいい意味で一般的な脳みそをしているので、理解する苦労も分かれば躓くところも分かるのだろう。

「そうそう。なので、私が間に立って説明するんです。でも、難しい数学なんかはまだわからないので、講義に出て勉強を教わってる途中なんですけどね」


 基本的に大学の教師は教養院の理数系科目から引っ張ってきている。単なる迷信を科学的な事実のように教えてた人々は切り捨てたが、数学なんかは成立に厳格なルールがあるので、証明されていない仮説を定理のように扱っている変な教授なんかはいなかった。論理などもそうで、そういう場合はそのまま移籍してもらう形で教えてもらっている。


「ふふっ、シャムさんが私のことをみんなに妹って紹介するので、私、大学では妹さんとか妹ちゃんって呼ばれてるんですよ。でもほら、妹だと私も王様の親族になっちゃうので大問題じゃないですか。一度問題になったんですけど、シャムさんは大学の敷地内では身分も家柄もない、くだらないことを言ってる暇があったら勉強しろって怒って、それで通っちゃってるんです。面白いですよね」

「そうか……シャムらしいな」


 顔をしかめて怒っているのが目に浮かぶようだ。

 それにしてもテミは全く無学の状態からこっちにきて、まだ三年ほどしか経っていないのに、随分と馴染んだものである。

 普通だったら語学を学ぶので精一杯といったところだろう。


「あのっ……!」


 テミは突然、改まった様子で言った。


「なんだなんだ」

「あの時……私を買ってくれてありがとうございました。ユーリさんのお陰で、私、今とっても幸せです!」


 深々と頭を下げた。

 ここまでまっすぐに感謝されると気恥ずかしいな。あのとき行った気まぐれの善行がなにやら神々しい行為に思えてくる。


「私、きちんとお礼を言えてなかったので、どうしても一度言っておきたくて……」

「……そうか」


 俺はテミの細い肩をぽんぽんと軽くたたいた。


「恩を感じてくれるのはありがたいが、それで気負ったりはするなよ。向こうでも言ったが、別にお前はどう生きたっていいんだ。まあ、今が楽しいならそれが一番だけどな」

「はいっ。ありがとうございます」

「それでな、ちょっと聞きたいんだが」


 と、俺は気になっていることを口に出した。


「最近シャムはどうだ? なにかおかしなことはあったか?」

「ああ、ここ二日くらい別邸に帰らないで、泊りがけで仕事をしていますね。といっても、難題に取り組んでいるときはいつもそうなんですが……言われてみれば、なんだかいつもと違うような気はします」

「そうなのか」


 そもそも俺は話を聞いただけで、見合いが実行されたのかも定かではない。

 だがまあ、シャムとは二ヶ月以上会っていないので、そろそろ顔を見に行くのもいいだろう。今日は暇だし。


「じゃあ、シャムは大学にいるのか?」

「はい、たぶん。私も帰る前に一度寄るつもりなので、一緒に行きますか?」

「そうだな。そうさせてもらえるか」


 大学に行くことになった。

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