第262話 出征前夜*

「おかえりなさい」


 そう言って出迎えてきたノセットに、フリッツは安らいだ笑顔で応じた。


「ただいま」


 家の中に入り、リビングの机に包みを乗せる。


「うん? なんの荷物?」

「料理はできてる?」


 ノセットの問いかけを無視してフリッツが言うと、ノセットはなにかを察したのか、


「できてるよ。今温めなおすから、ミュセットと遊んでて」


 と、笑顔をつくって言った。

 ミュセットが、座っていた椅子から立って走り寄ってくる。


「おとーさん! あのね、今日は抱っこして……」


 いつも活発なミュセットにしては、少しおかしな要求だった。


「いいよ。おいで」


 フリッツはソファに座って膝を叩いた。

 ミュセットは、横から膝に乗り、上目遣いに父親を見ると、


「おとーさん、お仕事ってつらいの?」


 と、奇妙な質問をしてきた。


「べつに、つらくないよ。疲れているように見えるかい?」

「なんか、げんきがないから」

「そうか……」


 フリッツは軍事については指揮官でもないし、練兵をしたこともない。ただ、軍人にとって常識といえるような知識は持っている。なので素人とは言えないが、専門家でもない。

 戦場で指揮を執るというよりは、それ以前の戦略的な段階で有利な状況を整えるのが仕事だ。


 だが、戦場へ行かなくてよい、というわけではない。小規模な戦闘ならともかく、総力がぶつかり合う会戦となれば、フリッツの判断が必要なことが現地で起きてくるかもしれない。

 統領コンスルになって日の浅いフリッツには、オラーセム政権におけるフリッツのような、そういったことを全権委任できるような部下のようなものもいない。


 なので、フリッツは明日には出発し、戦場へと向かわなくてはならなかった。


「いや、お父さんは元気だぞ」

 疲れているのは事実だったが、ミュセットに心配をかけたくはなかった。

「うそ……」

「うそじゃないさ。ミュセットに会ったら元気になった」

「ふぅん……」


 つぶやくと、ミュセットは嬉しさを抑えながら、溢すように笑みを作った。

 なんとも可愛らしい、こわばった心がほぐれてゆくような笑みだった。


「じゃ、ゲームであそぼっか」

「ゲーム?」

「あのねー。お母さんとしてたんだよ。四個並べたら勝ちのゲームだよ」


 ミュセットは視線を机の端にやった。そこには、メジャーな遊戯の盤がある。

 象牙で作られたような高いものではなく、木製の安いものだが、ボードは升目で区切られ、駒は白と黒に塗り分けられている。

 本来の遊び方とは違うが、どちらかの色の駒を四個並べたほうの勝ちというゲームなのだろう。とフリッツは察した。


「いいよ。やろうか」


 フリッツは言うと、手の届く場所にあったボードと駒を手元に寄せた。



 *****



「遊び疲れたのかな。寝ちゃったね」


 ノセットが言った。ミュセットは、ゲームで思いのほかはしゃいで、フリッツが食事をしている最中にもおしゃべりをして、今はソファの上で眠ってしまっていた。


「寝室に運んでおくよ」


 フリッツは言って、ミュセットを抱きかかえて寝室に運んだ。

 ノセットと二人で使っているベッドに横たえようとすると、腕の中で身じろぎして、薄く目を開けた。


「おとーさん………?」

「おやすみ、ミュセット」


 手を離し、ゆっくりと布団をかけると、ミュセットは薄く開けた目を閉じて、睡魔に身を任せ、眠りに入ったようだった。

 思えば、赤ん坊のころから寝付きは良いほうだった気がする。

 フリッツは、ミュセットの柔らかい頬を一撫ですると、ベッドから離れた。


 リビングに戻ると、ノセットが椅子に座って、お茶を注いでいた。


「ノセット」


 フリッツは、持ってきた包みを開き、中に入っている木箱を取り出すと、蓋を開けた。


「うん、まあ、そうだと思ってたけど」

「一応ね」


 木箱の中にはクシャペニ金貨が整然と並べられており、ジャラジャラと音がしないように隙間に詰め物がされている。


「どういうつもりなの?」

「一応、だよ。僕に万一のことがあった時のために」

「私、男のひとのそういうところって、本当に嫌いだわ」


 ノセットは顔に嫌悪感を滲ませながら言った。もしかしたら、哀しそうであったのかもしれない。


「それが貴方なりの責任の取り方なの? 私やミュセットに対する責任は、お金を置いていくことじゃない。ちゃんとここに帰ってくることだわ。貴方はお父さんなのよ」


「……戦場では、何が起こるか分からないから。もしもの時のためだよ」

「戦争に行くのをやめたらいい。何度も言うけれど、あなたには、家族と自分の命以上に大事なものなんてないのよ」

「……何度も言うけれど、それはできない。戦争に勝つのは、君たちを守るためでもあるんだ」

「堂々巡りね……」


 ノセットは俯いた。何度か繰り返してきたやりとりを、この場でもう一度繰り返したことを、悔やんでいるようでもあった。


「私、軍人の妻だけにはなりたくなかったって話、前にしたかしら?」

「……聞いてないな」


 ノセットとの会話は全て覚えているが、フリッツは聞いた覚えがなかった。


「軍人の夫が死んで、誇らしいとか言っている妻。よくいるでしょう? 私、あれって大嫌いなの。本当に愛しているなら、家族を残して死んだ夫を誇らしいなんて思うわけないわ。私は、愛する人には自分より一秒でも後に死んでほしい。寂しい思いをしたくないから」


 言いながら、ノセットは溢れ出した涙を手で拭っていた。

 フリッツには、返す言葉がない。


「そんなに寂しがり屋なら、結婚している人を好きになんかなるなって話よね……でも、仕方ないわ。好きになっちゃったんだもの。まさか、グスッ、こんなことになるとは思わなかったけれど」

「ノセット。僕には君と娘の他にも守りたいものがあるんだ。それは君や娘より大事ではないけれど、たぶん命を捨てなくても守れる。べつに、全部を捨てなければ君を愛する資格がないってことはないだろう?」

「じゃあ、なんでこんなもの、渡すのよ……ちゃんと帰ってきなさいよ……グスッ」

「だから、一応だよ。本当のところ、兵力差は倍近くもあるんだ。負けっこない」


 フリッツが家財を処分してまでこのようなものを用意したのは、ガートルートの言葉が心に黒い影を落としていたからだった。

 数の差が二倍あろうが三倍あろうが、一つも慢心しないほうがよい。


 実際にユーリ・ホウに会って話をしてみた印象も、ガートルートの心配を裏付けるようなものだった。

 彼は、少年が青年になる過渡期のような若々しすぎる容姿をしていたが、その喋る内容は外見相応の、未熟な青々しいものではなかった。

 自信家の将軍のような、物事を政治ではなく武力で解決しようとする荒々しさは感じたが、それだけではなく政治的正当性と戦後の治世を気にする老獪さも持ち合わせていた。そのような相手は、確かに素直に数に劣る軍を突撃させて敗退するといった差配は行わないだろう。


 ただ、数の差が二倍もあるというのは有利なことには変わりない。

 死にたいわけではないし、撤退もする。ノセットが心配するように、高い確率で死が待っているといった展開はありえそうにない。


 今回は、二年前とは違い、敵地に深く侵入して、撤退自体が難しくなっているという状況ではないのだ。


「ちゃんと、生きて帰ってくるから」

「絶対だからね……」

「うん」

「あと、今日は泊まっていって」

「元から、そのつもりだよ」


 フリッツは席を立つと、涙の跡が残るノセットに寄って、顔と顔を近づけた。

 軽くキスをしたあと、フリッツは肩を抱き、二人はベッドに向かった。



 *****



 翌朝、早朝にノセット宅を出たフリッツは、自邸に戻り出陣の支度をしてから、発とうとしていた。

 軍人ではないので動きづらくなる鎧は纏わなかったが、軍服に近い仕立ての詰め襟の服を身につけている。


 もう一人の妻であるマージェリーは、妻の勤めとしてフリッツの装いを整えていた。

 最後にボタンを留めてゆき、詰め襟を締め、最後に袖のボタンを留め、腕の布をピッっと引っ張って伸ばした。


「素晴らしくお似合いですわ。行ってらっしゃいませ、フリッツ様」

「ああ、行ってくる」


 フリッツは、戦場での恥じぬ装いとして、最後に細身の剣を剣帯に通した。

 剣を扱った経験がないので、ただの重りでしかないのだが、これを持っていないと戦場ではなんとなくバツの悪い思いをすることになる。戦闘員として見做されないからだ。


「神のご加護がありますように――アリルイヤ」


 マージェリーは跪き、祈りを捧げると、フリッツの手を取ってキスをした。

 意外なことに、フリッツはその儀式を嫌とは思わなかった。むしろ、神頼みが済んだことで、少し気が楽になった思いすらした。

 戦場では運はあればあるほどよい。


「ありがとう。行ってくるよ」

「はい」


 マージェリーはお辞儀をして、フリッツを送り出した。

 最低限の荷物をまとめたバッグを持って家を出ると、フリッツは馬車に乗り込んで戦場へ向かった。

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