第260話 ガートルート・エヴァンス*

「どうぞ」


 フリッツが言うと、ガチャリと執務室のノブが動いた。


「ふぅ――、どうも、はじめまして。教皇領からやってまいりました、ふぅ、ガートルート・エヴァンスと申します」


 執務室にやってきた男は、頭を下げてそう挨拶をした。


「ふぅ。失礼ですが、座ってもよろしいですか?」


 軍服を身にまとった、眼鏡をかけた小太りの男は、袖で汗を拭きながら入り口に立って、物欲しそうにすら思える目でソファを見ていた。

 フリッツの執務室は、政庁の中でも高所にある。それは窓から街の様子を観察するためでもあるが、奥深くにすることで怪しい者が入り込み辛いようにするためでもある。


 彼にとっては、ここまで階段を登ってやってくるのはいささか重労働だったのだろう。


「もちろん、どうぞ。水は要りますか?」

「はい。よろしければ」


 フリッツは、部屋の横に常備してあるピッチャーからコップに水を注いだ。

 給仕を呼んで持ってこさせるのが通常の応接だが、いかんせん少しばかり時間がかかる。彼にとっては早いほうがいいだろう。


「どうぞ。檸檬れもんが少し入っていますが」

「ありがたい」


 フリッツが渡すと、ガートルートと名乗った男は、水を一息で飲み干した。


「ふう……」

「よろしければ、もう一杯どうぞ」


 と、フリッツはピッチャーごと持ってきてコップに注ぐと、そのままピッチャーを机の上に置いた。

 ガートルートは二杯目の水を半ばまで飲み干すと、満足したのかコップを置く。


「それで……エピタフ殿はいかがなされました? 少し前の便りでは、彼が来ることになっていたはずですが」

「彼は来ません。今回は、私が代理の責任者です」

「来ないのですか……」


 意外であった。

 エピタフ・パラッツォは、ユーリ・ホウに格別の怨念を抱いていると思っていたからだ。


「まあ、ここだけの話、どうしても本土を留守にできない状況、ということですね」

「……なるほど」


 エピタフ・パラッツォは、現在教皇と対立し、教皇を事実上軟禁状態に置いていると聞いている。


 ピラト二世は、歴代の中でも特に人望のある教皇というわけではないが、教皇を軟禁して権限を恣にほしいままするというのは、誰にでも受け入れられることではない。

 それを見越して、エピタフは反発の動きを見せた軍部の人間を早々に粛清した。そのため表向き内乱は起こっていないが、ヴァチカヌスを留守にすると失脚の危険があるのだろう。


「援軍を出していただけるなら、彼が来なくとも、こちらとしては問題ではありませんが」

「援軍二万では心許ないですか」

「いえ。十分かと思います」

 実際のところ、フリッツは二万という数を少なくは思っていた。

 だが、それは想定の範囲内である。

「なぜです? ガリラヤ連合の投入できる軍は四万程度ではありませんか」

「クルルアーンの援軍を取り付けました。さらに二万の兵がやってきます」


 フリッツがそう言うと、ガートルートは一瞬意外そうな顔をしたあと、にやりと口端を上げた。


「な、る、ほ、ど」


 短く区切りながら言うと、


「さすがはフリッツ殿。能力だけで成り上がっただけのことはある」

 ガートルートは、瞳をぎらぎらと輝かせ、興奮したように言った。

「……いえ」

 言葉は荒いが、これは一種の賛辞なのだろう。フリッツは気にしないことにした。

「兵数以上に、竜騎兵を投入できるのは大きいですね。鷲への牽制ができる」

「はい」


 鷲というのは、彼らにとって大きなアドバンテージの一つだ。

 というより、今までは偵察と捨て身の攻撃にしか使われてこなかったものが、ここ数年で大きなアドバンテージになってしまった。空中から投擲される様々なものは、現在でも対処が極めて難しい。

 空中を領土とするもう一種類の動物、竜騎兵を味方に引き入れたのは大きい。


「しかし、ユーリ・ホウはエンターク竜王国と接触し、龍王と書簡を交わす仲だと聞きました。交渉は難しかったのでは?」

「それは問題ありません。竜の二国は兄弟のように思われていますが、現在は幸運なことに、外交問題のせいで仲が冷えているので」

「ああ……外交にはあまり詳しくないのですが、だいぶ前に話題になっていた、海賊の話ですか?」

「そうです」


 その外交問題の発端は、クルルアーン竜帝国の南大陸沿岸部が海賊に荒らされたことに端を発している。

 竜帝国海軍にマークされていたその海賊は、ある日略奪から帰る途中、ついに発見されてしまった。


 発見したのが大艦隊であったら、撃滅して終わりだっただろう。両国にとって不幸だったのは、発見したのが哨戒中の小型船一隻だったことだ。もちろん、海賊の船団に小型船で突撃するのは無謀なので、その船は密かに追跡に移った。

 海賊の船団は、そのままエンターク竜王国の港町に入港し、略奪品の売買と補給を受けた。


 一連の報告を受けた龍帝は、港町の領主が海賊を従えていたのだと考え、エンターク竜王国に領主の首を要求した。

 しかし、エンタークの竜王はその港町の領主とは子どもの頃から懇意にしていたので、首を差し出さなかった。


 エンタークの言い分では、海賊は海賊旗を隠して入港していたので、海賊と知るすべはなかった。という話になっている。ただ、実際にはクルルアーン側の主張通り、港町の領主が海賊を従えたり、取引をして港を使わせたりしていたのかもしれず、そのあたりの真相ははっきりしていない。

 竜王国は、代わりにその海賊を狩って首を差し出そうと頑張ったようだが、海賊のほうもやり手だったようで、捕まらずに消えてしまった。


 五年も前の事件ではあるが、未だに決着はついておらず、両国の外交関係はなんとなくギスギスしたまま今に至っている。


「私も少しは心配していましたが、龍王の顔を立てて援軍を差し控える、というような空気にはなっていないのでしょう。竜王国のことは名さえ出ませんでした」

「それは良かった」


 ガートルートは、純粋に良いニュースを聞いたように、うんうんと頷いた。

 政治家には、努めて顔色を表に出さない者が多い。それに比べると、感情表現が素直なように見える。


「と、なると……戦力は、二万、二万、四万で、兵量としては八万といったところですか」

「はい。そうなりますね」

「その程度では不安ですね。敵軍のおおよその数はどれくらいか判明していますか?」


 前回、壊滅した十字軍の戦いでは、シヤルタ国軍の数は六万程度だったと推察されている。


「四万程度かと」


 と、フリッツは言った。

 これは既に集結している数ではない。忍び込ませている多数の密偵から集まってきている、移動している軍勢の報告を分析し、導き出したものだ。

 彼らが根拠地としている半島の先、シヤルタ王国国内については侵入が極めて難しいが、それより東になるとクラ人は多く存在している。

 もちろん犠牲は出るが、潜入して情報を収集するのは、さほど難しいことではない。


「ただし、公称は六万五千としておきます。クルルアーンの手前、そういうことにさせてください」


 フリッツが言うと、ガートルートは「ん?」と怪訝そうな声を小さくあげて、訝しげな表情をした。


「援軍に際して様々な条件が重なり合っているのです。六万五千としている限り、彼らは味方なので」


 フリッツは、もともと六万人以上の兵力が来るとは思っていなかった。


 二年という歳月は、つい先日まで仇敵であった異人種を自国の兵隊として信用できるまでに仕立て上げるには短すぎる。

 それに、シヤルタ王国はキルヒナ地域と都市国家地帯を吸収し、大きくなりすぎた。

 兵は治安維持に必要だし、またティレルメ神帝国側の国境も、侵掠の可能性は少ないにせよ空っぽにしておくわけにはいかない。

 小さな兵が幾らかずつ必要となり、その数を足していけば、少なくとも万は超えるだろう。


 内政の充実で兵の数は幾らか増えると見積もっても、前回の総力戦より多くの兵を動員できるとは思えない。ましてや、今回は自国の真ん中で戦争をするわけではない、遠く離れた前線で戦争をするのだ。到達する数は、どう考えても六万よりは少なくなる。

 最終的にはノイキルートを譲渡する条件には合わない。


 もちろん、それをクルルアーン竜帝国側が認めるかどうかは話が別だ。

 間違いなくいざこざが起こる。関係も悪化するだろうが、それは後々考えればよいことだ。

 戦争に負ければ国が滅ぶのだから、まずはそこに全てを注力しなければならない。


「ふむ……まあ、それはいいでしょう。しかし、四万ですか……」

「ええ。思ったより少ない。なんとか、こちらの有利に持ち込めました」


 こちらの兵数は倍もある。普通に考えれば、防御側としては十分すぎるほどの優越だ。


「フリッツ殿、言っておきますが、数の差が二倍あろうが三倍あろうが、一つも慢心しないほうがよい」


 ガートルートは、フリッツの余裕を咎めるように、厳しい顔をして言った。


「優秀な戦略家というのは、負ける戦争をしないものです。勝てないのであれば挑まず、勝てる状況を作ってから挑む。もちろん、状況がそれを許さない場合もあります。王からそこで戦え、譲るなと厳命された場合だとか、要地を守らずに捨てると、戦略的に極めて劣勢になって巻き返しが難しくなる場合だとか、そういった、どうしても戦わねばならない状況です。ですが、ユーリ・ホウはそれには当てはまらない。政権は確実に自分が握りしめていて揺るぎないし、攻めるのは来年にしても別に問題はない。なのに今、兵を集めて攻めてきている。勝ち目ありと見ているからです」


「………」


 目の前の小太りの男が正論を吐くのを見て、男を侮っていたフリッツは面食らう思いをしていた。


「凡庸な用兵で、四万を率いて八万にただ当たって兵を散らす。そんな未来は万に一つも訪れません。ゆめゆめ、ご期待なさらぬよう」

「……はい」


 フリッツが返事をすると、


「――おっと、失礼しました。フリッツ殿には必要のないお話でしたね。時折、考えるのに夢中になると、ついこうなってしまうのです」

「そうですか」

「戦争のことを考えるのが大好きなのです。体を動かすのは嫌いですが」


 なるほど。と、フリッツは合点がいった気がした。だからこんな体格をしているのか。


「……戦争を一心に考えられるのは必要な才能ですね。特に教皇領においては」


 この男がそういう人間なのであれば、むしろエピタフが来なかったのは、ガリラヤ連合にとって都合がよかったかもしれない。

 エピタフの有能無能が問題というより、クルルアーンの軍といざこざを起こしてしまうかもしれないからだ。

 好悪こうおの感情というのは、時として合理的な判断を超越する。


「まあ、そうですね」


 ガートルートはのどが渇いたのか、コップに残った水を飲んだ。


「僕は、宗教に熱心なエピタフ殿とは、正直あまり反りが合いません。ですが実力重視で重用していただいています。僕にとっても、戦争を主導できる立場に置かせてくれるのはエピタフ殿しかおりませんので、思想信条は横に置いて追従しています」

「……なるほど」

 なぜ、そのような内心を暴露するのか、フリッツは少し訝しく思った。


「まあ、というわけなので、僕個人はココルル教に宗教的な反感は抱いていません。我が軍と竜帝国軍が衝突しないよう、最大限善処するつもりです。ですが、近づけておけば末端のトラブルは避けられないでしょう。陣営は離していただけると助かります」


「……それは」

 フリッツは、ガートルートがいわば自分の抱いた危惧を読んで、先回りで言ったことを理解した。

「そうしていただけると助かります。もちろん、陣営は離れた場所に置くように手配するつもりです」


「はい。よろしくおねがいします」

「それでは、竜帝国軍の到着予定日を教えて貰うのと、できれば地域の地図もいただけますか? 連合軍の総指揮官はガリラヤ連合の将軍ですが、及ばずながら戦略を立てておきたいので」

「もちろんです。竜帝国軍は三日後には到着が始まる予定です。地図は、写したものをすぐに届けさせましょう。会敵予定地の詳細な地形は、ガリラヤの偵察部に詳しいのがいますので、地図を持って聞きに行くといいでしょう」


 この男は戦争に役に立つ。フリッツは政治家の直感として、そう感じていた。

 エピタフも、それを感じているからこそ彼を重用しているのだろう。


「分かりました。それでは」

 ガートルートは、席を立った。

「多忙なフリッツ殿のお時間をこれ以上奪うのは気が引けますので、そろそろ失礼させていただきます」

「そうですか」


 フリッツは引き止めることはせずに、追ってソファから立った。忙しいのは事実である。

 部屋を出るところまでは見送ろうと、立ったままガートルートが入り口のドアを開こうとするのを見ていると、ドアがゴンゴン、と音を発した。

 最近つけたドアノッカーが立てた音だった。


「どうぞ」

 とフリッツが言うと、ドアが開き、

「わっ」

 入ってきた女性事務員が、ドアの先に立っていたガートルートを見て驚いた声をあげた。


「失礼します」


 かつてのノセットとほぼ同様の役職についている彼女は、ガートルートの隣を通ってフリッツの元まで来た。


「敵軍から書状が届きました」

 と、耳元で囁く。ガートルートに聞かれることを避けるためだろう。

 彼女は、フリッツの手元に折りたたまれた手紙を置いた。封蝋が剥がされている。

「―――? どのような経路で?」

 フリッツが疑問に思ったのはそこだった。そういった機密書類であれば、地方の連合都市から届いたものであっても、彼女の目に触れることはないはずだ。


「その……政庁の郵便受けに。中身も悪戯とは思えないような出来のものでしたので、直接ここに持ってきました」

「分かった。言うまでもないだろうけれど、中身については一切、口外しないようにね」

「では、失礼します」


 と、彼女はそそくさと退出していった。

 フリッツは、ガートルートに見えないよう書状を開く。

 見せないほうがいい類の書類であったら、退出してもらえばよい。だが、どうもそうではないようだった。


「ガートルート殿」

「はい」


「ユーリ・ホウから面会の申し出がありました。私とあなたに。いかがなさいますか?」

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