第十八章 ガリラヤ後編

第256話 オラーセムの死*

「ケホッ――ゲホッ――」


 オラーセム・ハトランは、病床で酷く咳をしていた。


 フリッツ・ロニーは、病状悪化の連絡を受け、仕事を切り上げてハトラン邸に来ていた。

 病状は昨日よりずっと悪化している。咳をするごとに体の精気が失われているように、フリッツの目には映った。


 マージェリーは、オラーセムの近くで寝ずに祈りを捧げ、父親の吐いた痰の処理などを甲斐甲斐しくしている。

 数日寝ていないのか、目には隈ができている。


「フリッツさん。外でお話しましょう」


 往診に来ていた、かかりつけの医者が言った。

 フリッツには、医者がこれから何を告げてくるのか、大方分かっていた。

 なかば茫然自失とした気分のまま、部屋の外に出る。


「残念ながら、今夜は越せないでしょう。手の施しようがありません」

 寝室から少し離れた廊下で、医者は言った。

「そうですか……」


 オラーセムは、一週間ほど前にたちの悪い風邪をもらい、それを悪化させていた。

 医者によると、その風邪は咳は酷いが本来は死ぬような病気ではないらしいのだが、なにせ当人が老体の上、最近とみに食が細くなっていた。

 健康体であれば放っておけば治るような風邪なのだろうが、治るまで体が持たないという見立てなのだろう。


 フリッツも、素人の感想ではあるが、同じようなことを感じていた。

 体は今にも鼓動が止まりそうなほど衰弱しているが、病気のほうは快方に向かっているようには見えない。

 昨日と見比べても、より症状は酷くなっている。


「咳を和らげる薬を煎じ、飲ませておきましたが、残念ながら快復するまでは、とても保たないでしょう」

「……ありがとうございました。どうか、このことは御内密に」

「……ベルビオ氏にも?」

「できれば。あなたは、今日ここに来なかったことにしてください」


 フリッツは無茶なことを言った。


 この医者は、ハトラン家のかかりつけ医をやっている。

 別にハトラン家が専属で雇っているわけではないが、現家長であるベルビオ・ハトランには利益の繋がりがある。

 伝えて得になることはあっても、損になることは、フリッツの不興を買う以外にはない。


「分かりました。私は今日、ここには来なかった。ただ、使用人などへの口止めはお願いしますよ」

「もちろんです。助かります」


 フリッツはそう言うと、懐から財布を出し、口止め料を含める意味で、本来の診療費よりかなり多い額を包み、医者に渡した。


「金貨をもう一枚ください」


 だが、医者はそう言って更に金を催促してきた。


「………」


 フリッツは内心で不快に思ったが、金貨をもう一枚取り出し、医者に渡した。


「どうぞ」


 と、医者は薬包紙の包みを渡してきた。

「これは?」

 フリッツが聞くと、


「強い鎮静作用を持った、珍しい薬です。これを飲めば、たちどころに咳は止まるでしょう。代わりに体がだんだんと冷えて、数時間後には、苦しまず眠るようにお亡くなりになるはずです」


 驚いた。

 毒薬……というより、安楽死の薬らしい。


「よろしいのですか?」

「健康体を死に至らしめる薬ではありません。それに、私は今日ここにはこなかった。ならば問題はないでしょう」


 医者はそう言うと、ぺこりと会釈をして、帽子を被って出ていった。



 *****



 フリッツは寝室に戻った。


「けほっ……けほっ……」


 薬の効果か、オラーセムの咳は少なくなっているように見えた。

 それでも、顔色は良くなっていない。パン粥のような病人食でさえ、もう吸収できないのだ。

 いつまでも胃にとどまって、無理に食べても吐いてしまう。

 人間は食べなければ死んでしまう。当たり前の話だが、食べられなければ病が快復に向かうわけがない。


 フリッツは、22の時にオラーセムに目をかけられてから、政治の階段を登り始めた。それからというもの、彼から受けた恩は数しれない。

 その彼が今、旅立とうとしている。流行り病で両親を亡くした時より辛い思いがした。


「オラーセムさん。医者の見立てでは、今夜は超えられないそうです」


 フリッツは正直に死期の宣告をした。オラーセムは呆けたが、その人格まで失ったわけではない。

 心が虚弱な人にそうするように、病状を隠したまま逝かせることは、彼の精神に対する侮辱であるようにフリッツには思えた。


「そんなっ――」

 マージェリーは、父親の死期を知らされ、持っていた盆を落とし、手を祈りの形に組んだ。

「神よ、どうか……」


 その祈りに嘘偽りはないのだろう。だが、効果もまたありはしない。

 そう思っているフリッツは、無意味な祈りに少しうんざりとした気分になった。


「そうか……けふっ。こ、今年は何年だ」

「今は、二十二年の夏です」

「……そうか、もう二年も……なら、今日死ぬも一年後に死ぬも同じか……」


 失った記憶に思いを馳せているのだろう。

 どういう認識でいるのだろうか。二年前から唐突に今日に来たら、唐突に死にかけているといった感覚なのだろうか。それともおぼろげながらにでも記憶があるのか……。

 いまだ健全な意識を維持しているフリッツにとっては、掴みかねることだった。


「ケホッ、厄介な病だ。ここ数年のことが、霞にかかったように思い出せん……この調子では、随分と迷惑をかけただろう」


 どのような作用か、オラーセムは急に意識が鮮明になったようだった。

 口調が明朗さを取り戻している。


「そんなことはありません」

「そうか。それならよいのだが……ゲホッゲホッ――」


 オラーセムは再び咳き込んだ。


「オラーセムさん、喋らない方が……」

「フリッツ。ガリラヤを愛しているか?」


 オラーセムは、突然に言った。


「え? まあ……はい。愛しています」


 これは嘘ではなかった。フリッツは、祖国を愛していた。


「それならばよい……ケホッ。政治家というのは、愛する国民に要らぬと言われながら、国のために尽くす仕事だ。その心を大事にしろよ」


 その話は、不思議とフリッツが今まで投げられたことのない話だった。

 今際いまわの際になって出てきたということは、最後にフリッツに伝えたかった話なのだろう。


「オラーセムさんは、国民から慕われる、よい政治家でしたよ」


 ここ数年は呆けを隠してきたわけだが、それ以前は十分に有能で国民から慕われる政治家であった。

 それは間違いのないことだ。


「ケホッ……いや、国民は、政治家を愛さん。国民が、求めているのは、有能な統治者だ。ゲホッ、求めているのは、あくまで統治者としての能力なのだ。だから、ひとたび失敗をすれば、どんなに国を愛していても……ゲホッ、彼らは使い古された雑巾のように、政治家を捨てる。私は、何度もそれを見てきた。ゲホッ、ゲホッ――」


 ピンとこない話だった。フリッツは、経歴キャリアを積む過程で選挙も経験してきたが、常にオラーセムの庇護の下にあり、負けたことがない。

 強力な庇護を受けていたがために、選挙に際して無茶な公約を掲げる必要もなかったし、現実的な公約を現実的な方法で達成し、有能な政治家という定評を得ている。

 つまり、国民に捨てられたことなどないし、したがって失望もしていない。


「フリッツ。ガリラヤを愛する統領コンスルになれ。愛するのをやめた政治家は、己のために国を使うようになる。ゲホッ、そうなったら、政治家をやめるのだ」

「は、はい。心に留めておきます」

 オラーセムの言葉を咀嚼する間もなく、フリッツは言った。喋り続け、咳をし続けるオラーセムを見ていられなかった。

「それならばよい――ゲホッ、ゲホッ!」


 オラーセムは、一度咳き込み、それから痰が絡んだのか、何度も強く咳き込んだ。


「お父様、しっかり」


 フリッツの妻であるマージェリーが、オラーセムの背中をさする。口に厚手の布を当て、咳を受け止めた。


「フーーッ……まったく、あのやぶ医者め。効かんではないか……」


 オラーセムが布を見て、憎々しげに言った。ポイと布団の上に投げた布には、血が絡んだ痰が付着していた。


「マージェリー、外に出ていなさい」


 フリッツは、マージェリーに向いて言った。


「えっ、でも……」

「いいから。オラーセムさんと内密の話があるんだ。少ししたら呼ぶから」

「分かりました……」


 と、マージェリーは寝室から出ていった。


「どうしたのだ。話とは」

 フリッツは、懐から薬包を取り出し、サイドテーブルの上に置いた。

「……医者が置いていきました。これを飲めば、咳がたちどころに止まるそうです。その代わり、段々と体が冷え、数時間後には眠るようにして……」

 死ぬ。という言葉は、フリッツは言えなかった。口がその言葉を出すのを拒むかのように、喉から出なかった。


「なるほどな。要するに、体が病と戦うのを止める薬ということか……ゲホッ」

「そういうことだと思います……どうしますか?」


 フリッツは、それを奨めたいわけではなかった。ただ、血痰を吐くほどに激しく苦しんでいるオラーセムに、その案を隠したままにしておくのも憚られた。


「あやつ、最後にいい仕事をしていきおったわ」


 オラーセムは、口端を上げて微笑むと、薬包を掴むと紙を開き、白い粉のようになった中の薬を、さっと口に入れた。

 そして小さな水差しのような容器を取って、水で流し込んだ。


「オラーセムさん……」

 フリッツが、オラーセムの選択に呆然としていると、

「咳き込んで、家族とまともに会話もできぬ末期まつごなど、御免こうむるわ」

 と言って、オラーセムはにやりと笑ってみせた。

「マージェリーには言うなよ。自殺がどうこうと煩い」

「分かっています」


 言うまでもなく、イイスス教では自殺は禁忌とされている。

 老人が末期を穏やかなものにするためにその道を選ぶのと、青年が失恋かなにかで命を絶つのとでは意味合いが違うと思うが、教条に妄信的なマージェリーには、そのあたりの判断はできかねるだろう。激しく狼狽うろたえるはずだ。


「あれのことも、よろしく頼むぞ。たった一人の娘なのだ」

「分かっています。必ず」

「……よし、これで安心して逝ける。マージェリーを呼んでくれ。最後に話がしたい」

「分かりました」


 フリッツは、丸椅子を立ってドアのほうに向かった。


「マージェリー。オラーセムさんが話があると」


 ドアを開けて言うと、マージェリーは沈んだ顔で頷き、室内に入っていった。

 フリッツは廊下に佇み、これからのことを考えていた。

 マージェリーは宗教家だ。だが、フリッツは政治家であった。政治家は、常に次のことを考えなければならない。


 オラーセムが死ねば、ガリラヤニン総督と統領コンスルの座が空位になる。

 ユーリ・ホウという強大な敵を目の前にして、この国では、まず選挙を行わねばならないのだった。

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