第237話 エピタフ・パラッツォ

 俺はその日、魔女の森の焼け跡に足を向けていた。


 焼け跡には、未だに黒い炭の山となった家が放置されている。

 遺体は埋葬したが、残骸はあえて片付けさせていなかった。


 ここに来ると、彼女らを焼いた日のことを思い出す。

 最後に残ったエピタフ・パラッツォは、果たして幸運なのだろうか。


 彼は生きながらえるだろう。

 死にたくても、自決することはできないのだから。


 死ぬことと、生きながら地獄に居ること。

 どちらのほうが幸運なのか、諸説あるだろう。


 人間にもし生存本能がなく、死の苦しみのない方法が用意されていて、死へのハードルが低かったら、人生を辞める人は増えるのだろうと思う。

 この世界は誰にでも生きやすいわけではない。


 なんの動機も残っていないのに、なぜ俺はこんなことをしているのだろう。

 ただ生きているだけなのかもしれない。


 金があって、死ぬ理由がなく、他に楽しいことがないからかもしれない。

 自分の娘の人生をマシにしてやりたいという想いがあるからかもしれない。


 俺が頑張れば、まだ名も決めていない娘は、少なくともシモネイのような、重責に押し潰されそうな人生を歩まなくても済むだろう。


 俺は魔女の家の黒ずんだ焼け跡をじっと見ていた。

 本当は、ただ胸に空いた穴を埋めたいだけなのかもしれない。


 あの日の感覚を思い出してから、俺はマルマセットの屋敷に向かった。



 *****



 大魔女の家は、全て表玄関の反対に裏玄関があり、魔女の森と直接繋がっている。


 裏玄関から直接マルマセットの屋敷に入ると、案内を受けながら座敷牢の部屋に向かった。


 部屋の中に入る。


 そこは地上階なのだが、板張りの床の上に、トイレとベッド以外はなにも置いてなかった。

 窓は、膝より低い部分に一つだけある。


 鉄格子には横棒がなかった。

 扉の部分の上側だけは横棒を通さざるを得ない、と思いきや、扉部分から上だけは重厚な板材で作られていた。


 つまり、牢屋の中には、縄を吊るすための部分が一つもないのだった。

 一部分だけ板材にしているのだから、これは意図的なものだろう。


 服などを裂いて縄を作ろうと思っても、体重を預けられる場所がなければ首はくくれない。


 膝より上くらいの高さには、縄を引っ掛ける場所がどこにもないようにできていた。


 対して、鉄格子のこちら側には、本来牢獄にはあるはずもない、大型の暖炉が備えられている。

 換気のために、大きな窓も作ってあった。

 健康を害さないための工夫がなされている。


 実際の使用では、商売で拉致した人質を入れておいたり、狂を発した身内を入れておいたりしたらしい。

 頭のおかしい宗教狂いを入れておくには最適だろう。


「よう」


 俺は鉄格子の前で、豪華な椅子に座った。

 あらかじめ来訪は伝えておいたので、他の部屋から持ってきて置いておいたのだろう。


「聞き違いか? 下賤な悪魔が神聖なる言葉を喋っている」


 エピタフ・パラッツォは、髭をぼうぼうに生やしていたが、なお偉そうだった。

 捕虜になった時に着ていた、濃い紫色の軍服をまだ着ている。


 埃っぽく、血で汚れたままになっているが、なにか拘りがあるらしい。

 アルフレッドなどは、普通に洗濯させているし、場合によっては新しい下着などを要求している。


「俺はユーリ・ホウという者だ。聞き覚えはあるかね」


 俺は自己紹介をした。


「……貴様が? 悪の権化め。早く消え去るがよい」


 勝ち誇りに来たと思われたのか、どうも歓迎されない様子であった。


「あんたと話をしにきたんだ」

「耳が穢れる」


 エピタフは、ベッドに腰掛けて壁に背中を預けたまま、顔をそらした。


「ヨル記を読んでいないのか? 神は悪魔と会話をしている。耳が穢れるなどと、自分の小さな信仰が脅かされるのが怖いのかね」

「なんだとっ――」


 俺が挑発をすると、エピタフは容易に乗ってきた。


「ヴァチカヌスでは散々我々を拷問していたようだな。どのような理由があってそんなことをした?」

「フッ、悪魔に神の恩寵を与えてやっていたのよ」

「ふうん、生きたまま生皮を剥がされ、足から轢き潰されることが神の恩寵ね。まあ、構わない。それを覚えていてくれるのであれば」


 人間というのは、自分を正当化したがる動物だ。

 昔自分がやったことを、自分がやられれば、その時には事情があったのだと言いたがる。


 そんなことは許さない。


「私に同じことをするというのか? やってみよ。殉教こそ我が望みである」

「やらないよ。貴様は五体満足で返してやる」

「では、なにをしに来たのだ? 私は悪魔の話を聞くのは好まぬ。はやく消え失せろ」

「貴様が背教の徒であることをはっきりさせておこうと思ってな」


 俺がそう言うと、エピタフは顔を歪めた。


「神を畏れ、口を閉じるがよい。悪魔め。よりにもよってカソリカ教皇領挺身騎士団大司馬を任ぜられた私に向かって、そのような言葉を吐くとは」

「アルノラ書23:3”主は言われた。生き物を殺す時は、せめて苦しまぬように殺すように。むごたらしく殺せば、それだけ神品がけがれることになるから”」


 これはイイススが屠殺場でむごたらしく殺される動物を見て言った言葉だ。


「……悪魔は生き物ではない。見当違いな指摘であるな」

「コリント書6:17”汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう”」

「聖戦では、悪魔を殺すことは認められる。当たり前の話だ」


 有名であるようで有名でない教皇ハンナバルの悪魔宣言だな。


 教皇が不可謬権というものを使って唱えた言葉は、聖典で主が述べたのと同じ疑問の差し挟む余地のない言葉として扱われる。

 シャン人が悪魔であるという聖典解釈は、教皇ハンナバルによって疑いを認めない不可謬な宣言として布告された。


 それは同時に第一回十字軍の招集宣言でもあった。


 これによって、当時世界最大級の大都市であったシャンティニオンを得た十字軍は、とてつもない財貨を手に入れ、以降悪魔宣言の正当性は論じられることがなくなった。

 すでに袂を分かっていたカルルギ派などは馬鹿らしいと相手にしなかったが、カソリカ派圏では現在でも撤回されていない。


 シャン人を悪魔とするのは、トット語の研究者にとっては鳥を馬と解釈するレベルの相当に無理やりな偏向解釈なので、教皇領としてはここにはあまり触れてほしくない。

 なので、歴史を学ぶ上で重要な宣言であるのに、川に板を張って流れをそらすように、なるべく触れられないように仕向けられている。


「あんたの場合、戦争でなくても好んで殺しているじゃないか。自分から好んで穢れを触ろうとしている。シャン人をただ殺して回るだけなら聖行かもしれんが、拷問して悲鳴を楽しむなど立派な悪行だ。主のご意思に即しているとは思えんな」

「悪魔は苦しみながら死んでいくべき、という信念に従ってやっていることだ」


 よく言う。


 俺は、それが違うことを知っている。

 イーサ先生から聞いたし、捕虜にいた教皇領の大貴族からも聞き出した。


「違うだろう? ミナというシャン人の女に裏切られたんだよな?」

「……っ!」


 エピタフの顔色が変わった。


「姉のように接していたミナが、自分の両親を短剣でめった刺しにしているところを見て、頭がおかしくなったんだろ?」

「やめろ!!!!」


 エピタフは、唐突に絶叫を発した。


「ミナはお前の父親に毎晩犯され、貸し出しまでされていた。貞操観念の強かったお前の母親は――」

「話すなッ!」


 エピタフはベッドから獣のように立ち上がり、鉄格子にぶつかった。


「話すなァアアアアア!!!!」


 鉄格子をガシガシと揺らして威嚇をしている。


 まあ、こういう高い立場の人間だから、陰口として囁かれることはあっても、こうして直接指摘されることは一切なかったんだろうな。

 キレやすく、惨刑を好み、教皇の従兄弟ということになれば、誰だって敵にしたいとは思わない。


「なんだ? 聞きたくないのか。自分の昔話だろうに」

「悪魔がそれを言うな――ッ! 父上は清潔な方だった――ッ!」

「ハハッ」


 思わず笑ってしまった。

 そういうことになってんのか、こいつの中では。


 んなわけあるか。


「ではなぜ、ミナを買った? 理屈に合わんな」

「黙れえええええええ!!!!」


 それは、俺の声をかき消さんとする長い長い絶叫だった。

 だが、長くは続かない。


 俺は、絶叫が途絶えるのを待ってから、続きを話し始めた。


「聖職者の間で、シャン人女を出し合って人に言えぬパーティーか……ハッ、人を悪魔呼ばわりできるような、清廉潔白の集まりかね」

「はぁ、はぁ、黙れ、黙れっ!!!」

「おまえの拷問好きは、母親譲りらしいな? ミナという子も、毎晩吐き気を催すような狂宴に参加させられ、昼間は拷問を受けるのでは、気の一つや二つ狂いもするだろう」

「あああああああああああああああっ!!!!」


 よっぽど聞きたくないのか。

 耳を塞ぐのも逃げたようで気に食わないのだろう。


 こう見ていると、確かに常軌を逸しているようだ。


「ま、お前の妹まで殺したのは、確かに酷いがな」


 俺がそう言うと、エピタフはプッツンと切れたように喋るのをやめ、鉄格子の前で膝をついた。


「おまけみたいなもんだ。ま、気にするな」


 うん。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!!」


 エピタフは再び起き上がり、鉄格子を掴んでガタガタと揺らした。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!! 殺すッ!!! 殺してやるッ!!!!」


 鉄格子の間から手を出そうとしている。

 届くわけがない。


「苦しいか?」


 俺は何も楽しくはなかった。


 だが、何かが満たされる気はした。

 胸に空いてしまった穴に何かを投げ込む、かつて感じた懐かしい感覚がした。


 思えば、こいつのシャン人への妄執も似たようなものなのかもしれない。

 魔女を殺し、カーリャを殺し、それなりに溜飲が下がった俺とは違い、ミナはあっさりと胸に短剣を突き立て自殺してしまった。


 投げ込むなにかもなく、復讐のしようがなかったのだろう。

 復讐はシャン人そのものへと向かった。


「ミナの代わりにシャン人を殺してるんだろう? 幼稚な代替行為だな。幾ら殺しても、そいつはミナではないのに」

「はぁ、はぁ、黙れ……」

「あげく、聖句をベタベタ貼って自己の正当化か? 私がやってるのは正しい行為ですー、主の御心に沿っているんですー……聞いて呆れるよ」

「やめろ……やめてくれ……」


 やめてくれとか言い出した。

 俺は椅子から立ち上がると、エピタフの近くに寄り、見下ろした。


「お前のやってたことは、父親がやっていた口にだすのも憚られる淫蕩の宴と同じだ。単に自分の欲を満たしていただけのこと。そこのどこにも神聖や恩寵などない。お前は主の御子ではない。穢らわしい、育ち損ないの子供だ」

「………」


 なにも返事をしなかった。


 この程度の精神攻撃で参っちまうのか。

 よわっちいな。


「俺はお前には恨みがあるんだよ」


 俺がそう言うと、エピタフは十秒ほど時間が経ってから、


「恨み……だと」


 と返してきた。

 聞こえてはいるようだ。


「てめーのくだらねえ陰謀のせいで、嫁さんと両親を殺されてなぁ。いや、本当に参ったよ。三人とも、本当に心から愛していた人だったんだ」

「当然の報いだ……この悪魔が」


 この悪魔という言葉は、おそらく今までのとは別の意味だろう。


「いいんだ。なんと言ってくれても。だが、お前も両親と妹を殺されたのなら、分かってもらえるな?」

「悪魔がなにを……」

「分かってくれるよな?」


 自然と笑みが浮かんだ。

 今日はじめての笑みだった。


 俺は、エピタフの目をじっと見つめた。


「お前は俺にとってのミナだ。お前に与える苦しみは、この程度では済まないよ。お前が死ぬまで殺してやる」


 そう言って、俺は座敷牢から出た。



 *****



 俺はそのあと、マルマセットの屋敷の中で、一つの文章を書いた。


 ””

 我は淫蕩に耽る枢機卿から産まれし子供。

 父の性を引き継ぎふしだらな行いに励むなり。

 母の性を引き継ぎ人を切り裂き血を啜るなり。

 その全てはミナなる女性の影を追い求めんがため。


 我は教皇の従兄弟。

 心から求めるは優しき日のミナなり。

 耳長き民を虐げしは、喪われしミナを望まんがため。


 そのためになら己をも騙し、神にも唾を吐きかけん。

 狂いし心を慰めたるは神にあらず。

 切り裂かれし耳長き民の悲痛の声であるがゆえ。

 ””


「これでどうだ?」


 俺は、部屋に招かれていた男にそれを渡した。


「このくらいなら可能かと思います」


 男はすぐに答える。

 手元には、活版印刷で作ったテロル文字の表と、印刷聖書が開かれていた。

 男はシビャクに店を構えている職人であり、テロル語が読めないので、文章の大きさのみで判断している。


「あまり小さくしないでもいけるか?」


 読めないようだと困る。


「シャン語とは感じが違うので、なんとも……」


 そりゃそうか。


「できれば、パッと見で読めるようにしてほしいんだが。こうして顔を突き合わせていたら、普通に読めるくらいの大きさで」

「それはできると思います。経験上、このくらいの行の長さなら余裕です」

「そうか」


 それならいいんだが。

 顔に文章が書いてある人間なんて見たことないから、不安だった。


「じゃあ、今日中に、人間の額と両頬くらいの大きさの紙に書き写して、王城に配達させていただきます。その紙を誰かに貼って確かめてみてください。許可が出たなら、それで進めますので」

「ああ、それがいい。そうしよう」


 それなら間違いはない。


「では」


 彫師の男は、カバンを畳んで帰ろうとした。


「すまん、もう一ついいか?」

「ええ、なんでしょうか?」

「入れ墨ってのは、どれくらいの日数がかかるものなんだ」


 俺は入れ墨には疎かった。

 人生でおよそ絡んだことがない。


「胸のものも入れると、一日六時間ほど時間を貰って、三日くらいでしょうか」


 案外早いな。

 文字だけだからか。


「色は抜けないのか?」

「黒文字なら抜けません。死ぬまで」

「そうか」

「肌ごとむしり取れば別ですがね」


 彫師の男は、にやりと笑った。

 この男も、クラ人に肉親を奪われた一人なのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る