第181話 ガッラ・ゴドウィン*
ガッラ・ゴドウィンはその日、疲れた表情で、王城島の要塞にある執務室に戻った。
五日前の事件をきっかけに、変事に巻き込まれた王都は、今や混乱の極みに達していた。
ガッラ・ゴドウィンは、その狭間で中間管理職の悲痛を存分に味わっていた。
買収されたとしか思えぬ上司。不満をぶちまけてくる後輩。
とんでもない過激を言い出す部下。
そんな者たちの間に挟まれ、もみくちゃにされるのがガッラの役割だった。
そのせいで、もう空はすっかり暗い。ガッラは、真っ暗な部屋の天井から下がる鈎に、ランプの持ち手を引っ掛けた。
疲れ果てていたが、王都北区にある自宅には帰れない。戦争中であるからだった。
また、兵舎にはガッラの寝室はない。自宅があるからだった。
なので、ガッラは執務室で眠るしかなかった。
応接用の長いソファの真ん中に、腕置きが付いているのが呪わしい。
これがなかったらソファで寝れるというのに、ガッラは硬い床に寝袋を敷いて寝るしかなかった。
軍服の上を脱ぎ、二つに折ってソファに引っ掛け、軍袴に取り掛かろうとベルトに手をかけたときだった。
「おい」
「うおっ」
部屋の中に誰かがいた。
声の出もとを見ると、入り口のドアの脇に一人の女性が立っていた。
とっさに身構える。
「待て、王の剣だ。話があって来た」
王の剣。
それにしても、人がいるのに気づかずにズボンまで下ろそうとするとは。
よほど疲れているらしい。とガッラは思った。
若干気まずくなりながら、外しかけたベルトを戻す。
「王の剣か。今はどこについているんだ」
「キャロル殿下だ」
「そうか……やはり生きておられたか」
軍服の上を着ようと思い、先程ソファにかけた上着に手をかけると、砂埃っぽいザラつきが手のひらに残った。
ここ数日の騒動で、すっかり埃っぽくなっている。
なんとなく改めて袖を通す気になれず、ガッラはシャツのままソファに座った。
「話とは? 聞こうじゃないか」
ガッラにとっての王の剣は、接することは稀だが、近しい存在と言えた。
別部署の同僚のような感覚であり、立場的には近い。
「単刀直入に言おう。こちら側に寝返れ」
ティレトは壁に軽く背を預けたまま言った。
「……ふう」
「寝返れというのは変か。正しき主に従え」
「正しい主とはなんだ。カーリャ女王だって紛い物というわけではないだろう」
ガッラは、馬鹿馬鹿しいと思いながら詮の無いことを言った。
「王の剣が正しき主と認めている。カーリャのほうは魔女が認めているらしいが、どちらがシモネイ陛下の御心に近いか、論ずるまでもあるまい」
「はあ……」
ガッラは疲れていた。
そういった正論は、部下の突き上げで聞き飽きていた。
ここ五日間で、百に届こうかという数聞いた。
歩いている途中耳に入ってくる数も入れれば、千に届いているかもしれない。
「ルーク・ホウは死んだのだろう。親友が殺されて、貴様はそれでいいのか」
「いいわけがない。だが、軍人には弁えなければならない一線がある」
それは、ガッラの心に染み付いたルールだった。
上意下達。上の命令に下は従う。
それが軍機構の絶対のルールであり、その命令の中には当然、死ねという内容のものも含まれる。
である以上、そのルールに従わなかった者に対する罰則は、これもまた命を奪うものが最高刑である必要がある。
第一軍の行ってきた戦闘行動は、山賊退治など軽微なものが主だから、たいていの場合、彼我の戦力差は圧倒的なものになる。
なので敵前逃亡は少ないが、まったく存在しないわけではない。
ガッラも、戦いから逃げ出した年若い青年を処断したことがあった。
そういうことをしておきながら、自分は規則を破るというのか。
とはいえ、それはガッラの心の表面に乗った、綺麗な建前にすぎなかった。
深い部分でガッラの心にルールを染み付かせたのは、日常的に降ってくる、女の上官からの理不尽な命令だった。
どんなに馬鹿馬鹿しい命令に思えても、それに従わなければならない。自分が正しいと思っていても、命令の前には曲げなければならない。
それが部下の生死を左右する決断であってもだ。
それを数十年間、日常的に繰り返してきた結果、ガッラは諦めることを学んだ。
軍隊において軍規は絶対と割り切り、心を動かさないための仕組みを心の中に作った。
親友や部下の前では陽気に振る舞っていても、ガッラはそのような人間であった。
「メティナ・アークホースには逆らえんか」
ティレトは嘲るように言った。
「ああ、そうだ。俺に言われてもな」
ガッラがそう言うと、ティレトは壁から背を離し、ガッラの近くまで歩いた。
おもむろにソファに掛けてあった上着を掴むと、上着の胸の部分から、ついていた騎士章を引きちぎる。
これみよがしに地面に落とすと、それを踏みにじった。
「なにをするッ!」
騎士たる誇りを唐突に踏みにじられ、ガッラは憤りの声をあげて立ち上がり、ティレトに掴みかかった。
ティレトは、避けるでもなく、黙って胸ぐらを掴まれた。
「貴様は騎士ではないのだから、これを持つ資格はない」
ティレトは、なおも騎士章を踏みしだきながら、ガッラの太い腕を奇妙な形で握った。
腕のとある一点に、女の力とは思えぬ力で親指を突き立てられると、ガッラの太腕には鋭い激痛が走った。
手が勝手に開き、胸ぐらから手を離してしまった。
「貴様は近衛に入る時、誰に槍を捧げた。メティナ・アークホースに捧げたのか。違うだろう。シモネイ陛下の御前で、陛下に槍を捧げたのだろうが。それを忘れ、亡き陛下の意に反すると知りながら、メティナに従うお前は、騎士ではない」
「ぐっ……」
ガッラは歯噛みする。
言い返せなかった。
王の剣は、王に絶対の忠誠を誓っているからこそ、王の剣たる。
血脈で選ばれたわけではない。彼女らの多くは孤児であり、何人もの死人が出るような過酷な試練を経て、ようやくここにいる。
女王に命じられれば赤子も殺すし、仕事ならば男に体を明け渡すことも厭わない。それでも彼女らの心は誇り高い。
女王に忠誠を誓っているからだ。
今こうして悩んでいるガッラとは違うのだった。
赤子殺しや売春婦のような真似をしていても、彼女らは女王への忠誠に誠実だという確信を胸に抱いている。
だから誇り高くいられる。
ガッラはそうではなかった。
なので、俺だって女王に槍を捧げた時の誓いを守っている。とは反論できなかった。
ガッラは、自分が騎士ではなく、ただのくだらない魔女の手下の一人になったように感じた。
嫌な思いを振り払うように首を振ると、ガッラは再びソファに腰を掛けた。
「なぜ俺のところにくる……どうせ第一軍は動けん。下の者が命令に従わないからな」
ガッラは、二脚のソファの間にあるテーブルに置かれた、数枚の紙を見る。
吊り下げられたランプの真下にあり、光源の死角となっていて暗いが、それは確かにそこにあった。
王都には、もはやこの紙に書かれた内容を知らぬ者はいないだろう。
字を読めぬ者も、内容は伝え聞いて知っている。
これが空から撒かれたせいで、それまで抑えていた部下は、怒り狂ってしまい、今や統制できなくなりつつある。
なぜあの時、我らは動かなかったのか。
王城に第二軍が攻め込み、女王が今まさに弑されんとしていたその時に、ただ傍観に徹していた我らは何なのだ。
女王の騎士ではなかったのか。一体我らは何者だというのだ。
一部の兵などは、ビラの内容を信じ切って、血の涙でも流しそうな勢いでそんなことを叫んでいた。
今も叫んでいるだろう。
今日などは、後輩の一人が連名を綴った紙を持ってきて、少人数でもって第一軍本部に斬り込み、魔女の手先どもを斬り殺そうなどと言ってきた。
真剣に、牢にブチ込むことを考えたが、そんなことをすれば、反動で本当に反乱が起こってしまう。
こんな状態では、軍を動かすどころの話ではない。
「第二軍など、戦う前から戦意喪失だ。嘘か真か知らないが、追撃に出たユークリッハ騎士団がホウ家の老騎士一人に撃退されて、団長の首を持ち帰ってきた。生き残りがホウ家の恐ろしさを吹聴して回っているよ。あれじゃ、戦う前から負けたようなもんだ」
ガッラからしてみれば、戦えば絶対に負けるわけがないのだから、自分がわざわざ寝返る必要などないという話だった。
念には念を入れるどころの話ではない。
獅子が手負いの仔兎を狩るのに、保険が必要だろうか。
ホウ家対第二軍の戦いは、一方的な蹂躙となるだろう。
ホウ家に負ける要素などない。
「ユーリく……」そう言いかけて、ガッラはためらった。彼はもう騎士院を卒業する年齢で、恐らくはホウ家の頭領になっている。「ユーリ殿は、考えすぎだ。俺の手など借りなくても、戦には勝てる」
「ユーリの考えでは、数カ月後には十字軍が来る。魔女は十字軍に国を売っているとのことだ」
「は……?」
ガッラは全ての思考を停止して、呆然となった。
「仮に魔女の計画が全て上手くいって、ユーリとキャロル殿下が王城で毒殺され、カーリャが魔女の手の内で女王となったとしても、魔女に得るものはないそうだ。シモネイ陛下の為政下ならば、一枚岩で十字軍と戦うことができるが、カーリャの政権ではそれすらもできない。数年内に十字軍が来ることを考えれば、ただ死が見えているばかりの簒奪だ、と。ならば十字軍と通じ、国を売る代わりに自らの安全を保証する約定を結んでいると考えねば、辻褄が合わないと言っていた」
ガッラの頭は真っ白になった。
疲れでぼうっとした頭に冴えが戻り、無理やりに働きだした頭には、痛みが起こっていた。
それでも考えるのは止められなかった。
十分ほども考えていただろうか。
その間、ティレトは一言も声を発せず、ただ待っていた。
確かに。
いろいろな要素がからみあって、判断はできかねるが、その可能性を提示されると、確かに魔女の計画には違和感があった。
もし、その話の通りだとすれば、国が滅ぶ。
俺たちは、国を売った売国奴の片棒を担がされているというのか。
「ユーリは、その十字軍と戦うために、第二軍すら無傷で手に入れたいらしい」
ガッラの考えが一段落ついたのを見て、ティレトはぽつりと言った。
「当然、隊長格は総取っ替えするつもりだろうがな。ホウ家の兵を代わりに入れ、何ヶ月か小突き回せば、少しは使えるようになると考えているのだろう」
「わかった。第一軍は、動かない。動こうとしたら積極的に止めよう」
ガッラがそう言ったのを聞いて、ティレトは深い溜め息をついた。
「そうか。ユーリは、あの人は父上の親友だった人だから、協力してくれるはずだ。と言っていたのだがな。女王の前で槍を交えた仲なのだから、と。どうやら奴の見込み違いだったようだ」
ティレトは発言の偽造をした。ユーリの口からそんな言葉は出ていない。
ミャロからの情報を交えて考えた、急作りのでまかせであった。
「勘違いをしないでもらいたい。俺も動くが、実際に第一軍を掌握できるかなど、断言しようがない。ここで出来ると言って、俺が失敗したらどうする。ユーリ殿の戦略が破綻するだろう」
「確実に実行できそうなのは、軍を動かさないことくらいだ、というわけか」
「まあ、そうなる。それくらいのことは、確実にできると約束できる」
「わかった。そう伝えよう。裏切りの心配はないようだから、ユーリの計画をお前に伝えておく。よく聞いてくれ」
ティレトは、その計画を話し始めた。
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