第152話 イーサ先生の部屋
翌日、俺は一人、学院のほうに足を向けていた。
玄関をくぐり、階段を幾つか登ると、イーサ先生の講義準備室のある廊下に出る。
廊下を端まで歩くと、ドアの前に立った。
コンコン、とノックすると、
「はい、どうぞ」
と、涼やかな声が帰ってきた。
「失礼します」
カチャ、とノブをひねってドアを開けると、良く整理された文机の前に、眼鏡をかけたイーサ先生が座っていた。
相変わらず、クッションもない木の椅子を使っている。
イーサ先生は、俺の方を見ると、少し驚いたような顔をした。
「ユーリさん、お帰りになっていたんですね」
「はい。おかげさまで……」
「あ、杖をついていますね。怪我をなさったのですか?」
イーサ先生は、心配そうに言った。
俺は松葉杖ではなく、老人が使うような手杖をついている。
「ええ。でも、すぐ治る怪我のようです」
「そうですか……よかった。あ、どうぞお座りください」
イーサ先生は、すっと立ち上がると、手で軽く椅子を指し示した。
椅子の近くまで歩き寄ると、手を差し伸べてくる。
必要はなかったが、手を握って軽く体重を預けながら、椅子に座った。
「ありがとうございます」
「いえ……それより、どうでしたか? 旅は」
椅子に座って一息ついた俺に、イーサ先生は訪ねた。
「あー……ちょっと、よくないことが多かったです」
「そうですか……それはそうですよね」
少し焦った様子で、一瞬口ごもった。
「戦争ですもの。馬鹿なことを聞いてしまいました。すいません」
「いえいえ」
「……争いというのは、やはり、楽しい思い出は残しませんね。勝っても負けても……そうでない方もいるのでしょうが」
イーサ先生の口ぶりは、なんだか経験者っぽい響きがあった。
「イーサ先生にもそのような経験が?」
俺は、旅の土産話は昨日散々したので、あまり話したくない気分だった。
イーサ先生の話のほうが聞きたい。
イーサ先生のような、争いと無縁と思われる人でも、やはり人と激しく争ったことはあるのだろうか?
「武人の方々のように、武器を取って戦った経験はありませんが、私もヴァチカヌスでは名の知れた論客でしたので……」
ああ、そういうことか。
「論の正しさを示すためには、論戦で勝つことが必要と、修辞学を修めたりもしましたが……言い負かしても恨みばかりがつのって、虚しいばかりでしたね」
若い頃は、かなり激しく他人を論破するような人だったのだろうか。
まあ、若い頃のインテリというのは、往々にしてそういうものだし、そうして自らの理念を練っていくものだ。
なので不思議とは思わないが、そういったイーサ先生を想像できない自分もいる。
俺はイーサ先生が
「でも、聴衆の中には賛同して同志になった人らもいたのでは?」
イーサ先生の理論は、俺が聞いても納得できるほど理路整然としていて、いちいち根拠と研究に裏付けされていて、美しい。
そこらの馬鹿が捻った理屈と比べれば、プロの左官工が塗ったぴっちりとした壁と、素人が作った隙間だらけの板壁ほどの差がある。
「そうですね。たいていは、若い聖職者たちでした」
「年をとると実利を考えるようになりますからね。思想の中身より、それを支持したら、どう得になるのか……とか」
正論で人の心を動かすことが、力に直結するというのは、言論の自由が保証されている民主国家での話だ。
当然ながら、教皇領の連中は弾圧に抵抗感があるわけではない。
若者というのは、志はあっても力がない。
理想を大声で語ることは得意でも、拷問も冤罪も苦にしない捜査組織相手に戦えるような、合理的な組織づくりができるわけではない。
また、民衆を味方につけるにせよ、民衆にとっては神学論争なんてもんは雲の上の話だ。
民衆が武器を取る動機にはならない。
よっぽど有能な扇動の天才でもいれば話は別だろうが、どう考えたってイーサ先生はそういうタイプではないしな。
「その通りですね。ユーリさんと同い年のころに、その知慧の一欠片でもあったら良かったのですが」
なんか褒められた。
「いやいや、何を言い出すんですか」
「いえ、これは本当にそうなのですよ。当時の私は……その、今から思うと、だいぶ愚か者でした。気性も
やんちゃだったってことか。
でも、ただ異端を叫んでるだけの馬鹿だったら、異端者として破格の特別待遇なんてしないだろう。
ごくごく普通にぶっ殺すか、ぶっ殺せなかったら追放して終わりのはずだ。
確か、イーサ先生を捕らえてつれていけば、列聖してくれるんだっけか?
列聖というのは、やっぱりお金を払えばやってくれる事ではなくて、教皇であっても死後聖人に列せられない場合があるらしいので、やっぱりとんでもないことをしでかしたのだろう。
存在を丸ごと否定しなければ、教会の存在のほうが否定されるような。
そういったことは、ただの愚か者にできることではない。
なにかしら人の心を動かす何かがなければ、火が燃え上がるような騒動にはならない。
「今も後悔することがあります。あのように急がず、地道に少しづつ活動していれば、今頃は小事が積み重なって大事を成せていたのではないかと」
イーサ先生はそう言って、物憂げに少し黙ったあと、
「未練ですね」
とぽつりと言った。
その顔には、なんとも既視感があった。
ああ、じいちゃんだ。俺の祖父が時折していた顔に似ている。
そういえば、性格も、雰囲気もちょっと似てるな。
なんで今まで気づかなかったのだろう。
「あ、そうそう、ユーリさんの旅の話でしたね。なんで私の話を……」
イーサ先生は、慌てた様子でそう言った。
「いえいえ、興味深かったです。ああ、旅の話でしたね、よくないことが多かったですが、面白いこともありましたよ」
ここは明るい話題に変えるべきだろう。
なんだか暗くなってしまったし、イーサ先生も昔のことはあまり思い出したくなさそうだ。
「そうですか。そうでしょうね、どんなことがあったのですか?」
「竜を見たんですよ」
「えっ!?」
イーサ先生は、さすがに驚いた様子だった。
驚いたイーサ先生というのは、なかなかレアだ。
「竜が戦場に飛んでいたんです。あれは見ものでした」
「竜ですか。はぁ……なるほど……よくもまぁ、十字軍に竜ですか」
なんだか呆れているようだ。
わざわざ運んできた連中の膨大な労力に思いを馳せているのだろうか。
「教会的には、やはり敵としていたこともあって、十字軍に帯同させるのはあまりよろしくはないはずなのですが」
そりゃそうか。
竜を使っていたといえば、一番有名なのはクルルアーン竜帝国だが、これは在りし日のクスルクセス神衛帝国と大喧嘩をして、彼の国が滅ぶ遠因を作った。
大昔の話なので、今はどうなのか知らないが、仇敵の使う動物兵器といったイメージはあるだろう。
クルルアーン竜帝国というのは、今でも存在する国で、建国から千年も経つ古い国だ。
ただ、千年間一つの王朝がずっと統治していたわけではなく、王朝の交代や簒奪が幾度となく起こっているので、何度も中身が入れ替わっている。
詳しいことは知らんが、各王朝は建国者のアナンタ一世の後継、というか王権の継承者を名乗っていて、なのでクルルアーン竜帝国というカンバンは千年間降ろされずに使い続けられてきた。ということらしい。
まあ、中身がいくら変わってても、老舗の看板というのは降ろしたくないものだろう。
「前の時に鷲に苦しめられたので、今回は持ってきたのではないかと」
「ああ、そうでしたね……。そういうことですか。しかし、よくもまぁ……飛んでいたのですか?」
「飛んでいました」
めっちゃ元気に飛びまくってた。
なんだったんだよあれ。
「実を言いますと、私も何度か見たことがあるのですよ」
「え、どこで見たんですか?」
基本的に、竜は砂漠気候の動物なので、教皇領のほうにはいないはずだ。
「実は、クルルアーン竜帝国に学術調査で行ったことがあるのです。その時には何度も見ました」
「ああ、そうなんですか」
イーサ先生も色んなところに行った経験があるんだな。
「それ以外にも、実はヴァチカヌスの周辺にも、見世物をする一行が来ることがあって、見ることはできるのですよ」
「へえ」
「さすがに、ヴァチカヌスの中には入らないのですが……四年に一度くらいでしょうか? 近くの農村で畑を何枚か借り上げて、そこに大きなテントを張って、見世物にしていました。やっぱり、なんだかんだで皆興味があるようで、市民の方々は大勢見に行っていましたね」
サーカスみたいなもんだろうか。
まあ、そりゃ見たいよな。
俺だって、見世物屋がシビャクの近くにドラゴン持ってきた、なんてことがあったら絶対見に行ってたもん。
「それって、見世物小屋の飼育員が通年で飼っているんですか?」
「いえ、やはり半島の中では気候が合わないようで、死んでしまうようです。というより、聞いた話だと、怪我などで使い物にならなくなった竜を、買い上げて持ってくるようですね。竜は海を超えられるほど長くは飛べませんから、ロープで縛り上げて、船に積んでくるのですが、やっぱり生き物はそういうことをされると、非常に消耗してしまいます。ヴァチカヌスに来るころには、息も絶え絶えで飛べない状態と聞きました」
竜にとっては片道切符なんだろうな。
哀れな話だ。
俺が墜とした竜だって、生きてアフリカまで持って帰る計画ではなかったんだろうし。
「それじゃ、やっぱり俺が見たのは相当無理して運んできたんでしょうね」
「そうだと思いますね。このような北の果てまで生きて来たということは、元より壮健な竜だったのでしょう。それにしても、毎日大量の薪を燃やす必要があったでしょうに、よく持ってきたものです」
やっぱり、イーサ先生もそういう観測らしい。
「それに、竜というのは、ココルル教圏では大切な存在なのですよ。本来、彼らにとっては竜を見世物にしたり、北に持ってきて使い捨てのように扱うのは、とても良くないことなのです。見世物にしていた人たちも、まあ、半ば闇業者といった感じでしたしね」
「そうなんですか?」
じゃあ、俺が殺した竜騎兵も、なんつーかハグレ者みたいな奴だったのかな?
鷲乗りだって、全員が全員、完全に100%騎士というわけではなくて、商人が本当に緊急に依頼する伝書屋みたいな形で、民間人の鷲乗りというのも居るしな。
まあ、まともな正規の騎士身分というか軍人だったら、自分の国の戦争でもねえのにこんなところに来たりはしねーか。
「竜というのは、鷲と同じで、あちらの人々にとっては誇りの対象なのです。それと同時に、野生の個体は人間にとって脅威でもあります。馬などと違って、野生の竜は人に慣れませんからね。人々にとっては駆除もまた日常なので、竜を殺した者は勇者として尊敬されているそうです。そのあたりは、こちらの鷲まわりの文化とは違うところですね」
竜を殺した者は勇者とかいう話は、初めて聞いたな。
つーても、絶対行くことはないであろう遠方の国において若干誇れる感じの前歴ができても、なんの得もなさそうなんだけど。
期限が切れた一万円くらいの当たりクジを見つけたような気分だ。
逆にちょっと損した気分になる。
「そうなんですか。まあ、見た感じちょっと鷲とは違う様子だったので、文化も変わってくるでしょうね」
鷲は頭もいいし、明らかに人を覚えているし、なんなら忠誠心もある。
イーサ先生が、同じ空を飛ぶ騎乗動物を扱う文明として、比較文化学的な観察をしたくなるのは仕方がないが、似ているところを探すほうが難しいような気もする。
「近くで見たのですか?」
あ、言い方がまずかったか。
うーん、はぐらかすか?
でも、後から知れることだろうし、別に隠すこともないよな。
「そうですね、まあ、上空で鷲ごと体当たりして、ちょっと相打ちになっちゃいました」
「……えっ? ユーリさんがですか? あっ、足の傷はその時の」
まあ、その時のもんではないが、大して違いはあるまい。
遠因を探れば墜ちたせいだし。
「あー、まぁ、そうです。実を言いますと、そのへんが不運の始まりってところで。でも、お陰様でなんとかなりましたので」
イーサ先生にテロル語を教えてもらったお陰で……。とでも繋げようか。
あ、でもイーサ先生、ちょっと怒っているような……。
「ユーリさん、あなたの生まれから考えれば、勇猛果敢なのは責めることではないのかもしれませんが……南方のことわざで”
「はい」
「これは、オッコの木という木が、たまに早成りの果実をつくって、その果実は酸っぱくて種も育たないことに由来していることわざで、つまりは若いうちから生き急いでも大業はならずという……」
そこで、イーサ先生は口ごもった。
「ん……」
咳払いにもならない、思いもよらず出てしまったような声が小さく聞こえた。
おそらく、さっき自分が若い頃やらかした話をしたのを思い出して、あ、自分もそうじゃん。しかもさっき話したばっかり……と思ったのであろう。
そのことは、表情から明確に汲み取ることができた。
「……そういう意味が込められているのですが、ユーリさんは私を……その、反面教師にして頑張らなければいけません」
なんとか纏めたようだ。
「はい。そうします」
心にはイマイチ響かなかったが、イーサ先生が心配してくれたのは感じられた。
「ええと……そう、そうでした。頼まれていた仕事の件なのですが」
おっと、イーサ訳のワタシ派聖典の件か。
今日は、半分はそれが理由で来たんだよな。
「なんとか完成しました」
と、イーサ先生は机の上に広げてある本を見て言った。
それがそうなのか。
「ありがとうございます。助かります」
「何度も読み返して注釈を書き換えたりしたので、ちょっと見苦しくなってしまいましたが……」
「今は読み返していたのですか?」
「はい。大事な仕事なので、何度も推敲しましたが、ここ二週間ほどは加えるべき部分も見つからないので、とりあえずはこれで……あとはユーリさんが読んで、直すべき箇所を指摘してもらえればと思います」
「ちょっと読ませて貰ってもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
と、イーサ先生は机の上の本を重そうに持ち上げ、俺に渡した。
けっこう分厚い。
羊皮紙の白紙の本に書いたようだ。
ページを開くと、前書きもなにもなく、最初からイイスス教の聖典の冒頭から話が始まっている。
最初から書き込みと訂正を考慮してあったのか、行間がけっこう空けてあり、かなりの頻度で文章に横線が引かれ、その下に訂正した文章が書いてあった。
文章の作りは読みやすく、聖典の他に何冊か読破したテロル語の本と比べると、目が通りやすい気がするが、
テロル語に関しては、会話はできるものの、熟達して自由自在に操れるというわけではないので、詩感までは上手いこと汲み取れないのがもどかしいな。
文章の良い悪いは判断できかねるのだが、イーサ先生の文章なのだから、かなり良いものに仕上がっているのだろう。
俺は何ページか読んだあと、適当なところで見切りをつけて、ぱたんと本を閉じた。
「大変だったでしょう。報酬については後ほど」
「いえ、報酬については……」
「受け取ってください。これほどの仕事をさせて報酬を渡さなかったとなれば、俺のほうがおかしく思われてしまいます」
これは金を受け取らせるための言い訳だが、できればイーサ先生には安全を買えるくらいの金は持っててほしい。
「……はい、ではお言葉に甘えさせてもらいます」
「そうして頂けると助かります」
「本、今お渡ししたいところですが……あとで誰かに取りに越させたほうがよいかもしれませんね」
イーサ先生は俺の足を見た。
確かに、杖をついている状態では、もう片腕も本で埋まるのは危ないかもしれない。階段とか。
「それなら、僕がまたあとで取りに来ます。もう数日すれば、歩けるようになるでしょうから」
というより、印刷機のほうの開発が恐らくまだなので、本ができていても即出版というわけにはいかない。
ただの板で作ってもいいんだが、できれば活字でやりたいんだよな。
テロル語はシャン語と比べれば文字数が段違いに少なく、三十字しかないので、走り出しとしては最適なのだ。
「そうなのですか。なら、今はお預かりしておきます」
「お願いします」
俺は本をイーサ先生に返した。
「それでは、そろそろお暇させて頂きます」
俺はこの後も、ちょっと用事があった。
「そうですか。名残惜しいですが、仕方ありませんね」
俺は立てかけていた杖を持つと、ゆっくりと椅子から立った。
片足を酷使していた影響で、怪我のない右足に軽いしびれが走ったが、傷は痛まない。
目線を足元から上げると、再び机に戻されたワタシ派の聖典が目に写った。
どうなんだろう。
もしかしたら、これが歴史を変えるのかもしれない。
将来的に何百億冊と印刷される聖書の原典がこれになるのかも。
まぁ、なにもかもうまく行かなかったら、異端を書した異書として歴史に埋もれることになるのだろうが。
未来のことなんて考えても仕方がないが、世界が湖だとしたら、そこに投じる石の一つにはなるのだろう。
その波紋がするすると消えるか、次第に荒ぶり大津波となるのかは分からない。
だが、その石は、湖に放たれる前に、世に問われる前に、今ここにある。
以前、イーサ先生は、そのことについて言っていた。
その行為によって、死ぬ人があるかもしれない、と。
俺はドアのところまで歩き、ノブを捻ってドアを開けた。
「イーサ先生」
俺は振り向いて言った。
「どうしましたか?」
「イーサ先生が昔つけた火は、その本によって再び燃えあがるかもしれません。俺は、それでもいいと思います」
「……なぜですか?」
「火は人を焼き殺すだけではないからです。火は必要ですよ」
そして、俺は続けて言った。
「人が凍えているのであれば」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます