第101話 夜の森

「……起きろっ。起きろっ」


 耳元で小声で言われながら、俺は目を覚ました。

 身を寄せあっているキャロルが、ポンチョの中で顔を近づけて俺を起こそうとしていた。


 月明かりにキャロルの顔が照らされていた。

 まだ夜であるらしく、朝日が差している様子はない。


「……どうした?」


 目をこすりたいところだったが、身動ぎをするのもはばかられた。


「なにか臭いがするんだ」

「臭い?」


 臭いでいえば、体には相当汚れがたまっているので、臭いは酷いはずだが。


「焚き火の臭いというか、焦げ臭かったり……」

「……っ!」


 それはコトだ。

 一気に眠気が冷めた。


 鼻を使ってスンスンと臭いをかぐ。

 だが、かぐわしい女の体臭がするだけで、臭いはわからなかった。


「わからん。一度脱ぐぞ」

「うん」


 ぱぱっとポンチョを脱ぐと、俺は立ち上がってキャロルから離れ、再び鼻を使った。

 やはり臭いは感じられない。


 だが、ここ数日のキャロルの感覚は冴えている。

 勘違いとも言い切れない。


「今は匂いがするか?」

「いや、しない。けどさっきは確かにしたんだ」


 なら、風向きが少し変わったのかもしれない。

 山火事ならともかく、焚き火程度の匂いなら、風向きが少し変わっただけでそれてしまう可能性もある。


「感じたのはいつ頃のことだ? ついさっきか」

「うん。そうだ」


 俺はすぐに自分の親指を舌で舐めた。

 風向きを確かめる。

 少し逸れたとはいっても、向こうが火を焚いているとすれば、風上に遡れば発見できるかもしれない。


「それじゃ」


 少し見てくる。


 と言おうとして、心のなかの何かがうずき、言うのをやめた。


 風は、俺が今日キャロルを背負って歩いてきた方向から吹いて来ていた。

 敵が足あとを追ってきているのだとしたら、そちらに無遠慮に行くということは、順と逆に二重の足あとを付けることになってしまう。


 直感的に、それはまずいと思った。


 もし敵が明日の朝追跡を再開したとして、二重になっている足跡が自分の宿営所まで続いているところを見れば、当然「昨日の晩、標的は俺たちを見ていた」と考えるだろう。


 そうすれば、俺が近い場所にいることがバレてしまう。

 また、警戒も強まる。


 むろん、二人組程度だったら、夜のうちに俺のほうから奇襲をかけて始末してしまうことを選ぶだろう。

 寝ていれば何の抵抗もなく殺してしまうことができる。


 そうしたら、足跡もくそもない。

 だが、場合によっては五十人ほどが集まって寝ている可能性もなくはない。


 その場合は、俺一人で撃滅することなど不可能だ。

 そうしたら、敵にヒントを与えてしまうことになる。


 この状況では一つのミスが命取りになる。

 だが、見に行かないという選択肢はない。


「見てくる。少し待っていてくれ」


 目を凝らすと、新月から戻りつつある月のお陰か、夜目がそれなりに効くようになっていた。

 足元くらいは見える。


 俺は、軽くジャンプして出張った木の根に足を置いた。

 それを5~6回繰り返し、まずは十メートルほど足跡を作らずに離れた。


 そうしてから風上に登り始めた。



 ***



 二百メートルほど歩くと、焚き火の匂いが俺の鼻でも明らかに分かるほど強くなってきた。

 キャロルの勘違いではなかったようだ。


 更に百メートル弱歩くと、明かりが見えた。

 光を見ると暗闇が見えなくなるので、注意して進む。

 ほんの近くまで接近すると、木の影に隠れて、慎重に様子を伺った。


 たくさんの男たちが、少し開けたところで横になっていた。

 素早く数えると、十二人いる。

 やはりというか、クラ人の兵たちだ。


 歩哨が一人立っており、もう一人は焚き火にあたり、他は火を囲むように横になっていた。

 それぞれは封筒のような形をした寝袋に入っている。


 持ってきた弓を握り直す。


 歩哨は鎧をつけているが、胸と腹を板金で覆ったような半鎧だった。

 加えて背中を見せているので、弓で射れば倒せるだろう。


 だが、もう一人、起きて焚き火にあたっている人間は、全身甲冑の、所謂プレートアーマーを着ていた。


 王侯貴族が着るような素晴らしい装飾と技術によって作られたものではなく、わりと作りが雑で、金切りバサミで薄い金板を切った貼ったして作った。みたいな感じだ。

 しかも所々錆びているようにも見える。


 だが、それでも全身を覆っているのは間違いなかった。

 まあ、普通に考えて、こいつが部隊長格なんだろうな。


 きちんとした強弓と鋼の矢尻を使うなら別だろうが、俺が持っている短弓と半分ナマクラのような矢尻では、どうにも鎧を貫ける可能性は薄そうだ。

 もちろん兜は脱いでいるが、頭をピンポイントで狙えるような技術は、俺にはない。


 部隊長を殺せば混乱させることは可能だろうが、十中八九外れて終わりだろう。

 実際、頭を狙ったとして、この距離では一割当たればいいほうだ。


 もちろん、一割の確率でも何のリスクもなければ挑戦するのが正解だ。

 だが、実際にはリスク満点だった。


 俺は逃げきれる自信があるが、外した場合、敵に情報を与えてしまう。

 俺がすぐ近くにおり、既に自分たちは追いすがっているという情報を。


 今は、こいつらには手を出さないのが賢明だ。

 どうせ藪蛇になるなら、最初からなんもやらないほうがいい。


 俺は顔をひっこめた。

 そして、薄明かりの中で、僅かに届く焚き火の明かりを使って、時計を取り出して時間を見た。


 午後の九時だ。

 食事も終わって、眠るにはいい時間ではある。

 だが、この様子では、歩哨も含めて全員が眠る、というのはありえないだろう。


 去るか。


 来る時と同じように、俺は音もなくその場を後にした。



 ***



「はぁ~~……」


 しばらく歩いたところで、盛大にため息をついた。


 貧血でもないのに眩暈がした。

 胃が締め付けられるような気もする。


 あいつらがいたのは、まさに俺が昼間に通ったところだ。

 俺が、ちょっと開けてるしここで夜を明かすか、と一瞬思って、いやまだ歩ける。とスルーした場所だ。


 つまり、連中は明らかに俺の足を追っている。


 そして、絶好のタイミングで夜襲をかけても、俺には連中を殲滅することはできない。

 もう一つ条件が加わる。

 キャロルを背負ったままでは、俺は連中より足が遅く、明日か、運が良くても明後日の午前中には、絶対に追いつかれる。

 そうしたら終わりである。ということ。


 苦しい。


 だが、死ねない。

 いつもは、どうしようもなくなったら無念の中で死ぬのも一興、などと考えていた俺だが、今はそれじゃ済まない。


 俺の生死は、キャロルのそれと重ね合わせになっている。

 死ねないし、負けられない。


 だが、負ける。

 もう俺たちは詰んでいるのだ。

 土を踏まずにキャロルを背負って歩く方法はない。


 背負ったままでは歩くのがやっとで、さっきやったように木の根を飛びながら移動することはできないのだから、二人の状態では足跡を消せない。


 終わりを意識すると、死の足音が聞こえたような気がした。

 心臓の脈が早くなり、呼吸が荒くなり、神経が乱れ、手が小刻みに震え始める。


 いや。

 この考えはいけない。


 恐れるな。

 諦めて、投げるな。


 どんな時でも可能性はある。

 穴のまったくない包囲などない。


 人間がやることなのだから。

 俺と同じで、相手も間違いを犯す人間なのだ。

 絶対に間違いを起こさない神のような存在と戦っているわけではない。


 状況を覆す選択肢は必ずある。


 問題は、俺にそれを発見できる能力があるのかということ。

 そして、実行できる能力があるのかということだ。


 なにより、小さな可能性だからと、諦めてしまうことは、俺にはできない。

 一人だったころの俺なら、いつでも諦められた。


 俺の命は、必死に頑張るほどの価値はなかった。

 簡単に見捨てて、いつでも諦めてしまえる程度のものだった。


 だが、今はキャロルの運命と紐付けされてしまっている。


 たとえ可能性がなかったとしても、やるしかないのだ。

 心臓が張り裂けるまで。



 ***



「……っ!」


 キャロルのところまで戻ると、少し身じろぎしたのが見えた。


「俺だ」


 そう言うと、緊張が緩んだ気配がした。

 敵かと思ったのだろう。


「どうだった?」

「ああ、居たぞ。十二人、今日俺が通ったまさにその道に野営していた」

「……そうか」


 淡々とした返答だった。


「じゃあ、もう終わりだな。明日には……」

「まだ何も終わっちゃいない。何もな」

「……そうか? 何か策があるのか?」


「ああ。帰ってくる間に考えた」

「聞かせてくれないか?」


 教えるのか。


 ……まあ、それもいいかもしれん。

 軽くでも教えないと不安だろうしな。

 不安というのは、留守番する子どもを安心させるレベルの話じゃなく、この場合は悲観して首を掻き切るレベルまで発展しかねないから、切実な問題だ。


「そうだな……簡単に言えば、俺たちが追いつめられてるのは、弱点を抱えてるからだということに気づいた。足が遅いというな」

「……うん、そうだな」


 自分のせいだと思っているのだろう。

 キャロルの声色はどこか儚げだった。


「敵と戦う前に、その点を一度整理する必要がある。こちらの弱点を晒して、相手にそこを攻められる戦いをしたら、負けるのは当たり前だからな」

「うん」

「そして、よく考えたら、敵のほうにも同じように弱点があることに気づいた。当たり前だがな」


「そうなのか?」

「ああ。だから、こちらの弱点を無くして、相手の弱点を突く。相手の嫌がることをするわけだ」

「……わかった」


 ?

 わかったってのは、何をわかったんだろう。


「私を置いて戦ってくるということだな」


 ああ。

 こいつ本当に冴えてるな。

 墜落してからこっち、こいつも背負われてるだけじゃなく、必死に戦っている。


「言っておくが、それもこれも、お前の鼻のおかげだ。敵をこちらから発見したのは、めちゃくちゃ大きい。お前のおかげで救われたようなもんだ。これは気休めじゃなくな」


 今日の発見がなかったら、明日は追いつかれるまでのほほんと歩くことになっていたろう。

 そうなったらホントのホントに終わりだった。


「いいんだ」

「何がいいんだ?」

「……私は足手まといだから」


 足手まといとか。


「俺は好きでやってるだけだ。お前が気にすることじゃない」

「違う。私のせいだ」

「そうじゃないって何度も言ったろ」

「ちがう………ふっ、うっ……」


 なにか様子がおかしい。


「ふがい……ないっ……ぐ……くぅ……うぅう……」


 涙声だ。

 泣いてるのか。


 そして、なんだかパシパシとなにかをしている音が聞こえはじめた。

 薄ぼんやりとしか見えないが、自分の足を殴っているらしい。


「おい、やめろ。一体どうした」

 俺はわけがわからずそう言った。


「この足が……動けばっ……」

「怪我してるんだからしょうがないだろ。おいっ」


 俺はしゃがむと、キャロルの腕を暗闇で掴んだ。

 暴れられたら困ると思ったが、キャロルは暴れること無く力を抜く。


「この足が動けば……一緒に戦えたのに……っ」


 キャロルは絞りだすように言った。


 その気持ちは分かる。

 俺だって、立場が逆だったら辛いだろう。


 今まで学んだ戦いの術を発揮することもできず、キャロルに守られるだけだったら。


 だが、俺はキャロルを重荷に感じているわけではないのだ。

 これが守る価値を感じない屑だったら、重荷に感じて仕方がなかっただろう。

 しかし、現実に、今の俺はそんなふうに感じていない。


「そうだな……だが、俺は悪くないと思ってるぞ」

「……なにがだ?」

「俺だって命がけなわけだけどな、お前を守るために命をかけるのは、まったく悪くない気分なんだ。自分でも意外なほどにな」

「………えっ……」


 これで気が楽になってくれればいいんだが。

 まあ、気休めにでもなればいいだろう。


「ともかく、話は後だ。今晩はやることが山程あるからな。さっさとここを移動するぞ」

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