第56話 イイススの儀式

 翌朝。


「面白い頭してるな」


 宿から出て酒場へついた俺は、開口一番に言った。


 見事につるつるだ。

 ここまで剃り残しがないと、自分の仕事を褒めてやりたくなるな。


「朝起きたらなってやがった。どこのどいつが……」


 ハロルは憤懣やるかたない様子だ。

 口止めをしておいたので、ウェイトレスさんは話さなかったらしい。


「似合ってるぞ」

 実際にはまったく変だった。

 酒場にいる他の客もクスクスと笑っている。

「似合ってるわけあるか」

 ハロルはぺたぺたと頭に手をあてて、しきりに撫でさすっていた。

 気になるのかな。


「まあ、いいじゃねえか。いい気分転換になるだろう」

「なにが気分転換だ。野郎、見つけたらぶっ飛ばしてやる」


 恐ろしい。

 誰だ、寝てる間にハゲにするなんて酷いことをやったのは。

 許されざるよ。


「朝食をおめしあがりになりますか」


 昨日のウェイトレスさんが笑いをこらえながらやってきた。

「もちろん。二人前お願いします」

「かしこまりました」

 ペコリとお辞儀をして去ってゆく。


 朝食がやってくると、俺は銀貨一枚をウェイトレスさんに握らせた。

「宿代込みということで」

「はい。ありがたく頂いておきます」


「金持ちだな、おい」

 ハロルは俺が払った銀貨を見て、苦い顔をしていた。

 もったいないと感じたのだろうか。

「いろいろ儲かってるんだ」


 実際、かなりの金はあった。

 つい先ごろ、謄写版印刷で印刷・製本された本が白樺寮内で売れ、ざっくざっくと金が入ってきたのだ。


 一冊につき金貨2枚というボッタクリの値段設定で、最終的に四百部ハケたから、八十万ルガ儲けた。

 原価や印税を抜くと、純利益は六十万ルガほどだが、それだけあれば船の一隻くらいは楽に買える。


「貸してくれ」

 真面目な顔でいいよる。

「アホかよ」

「頼むっ。この通りだ」

 深く頭を下げてきた。


 まんまるのツルッパゲを見せんなよ。

 吹き出しそうになるだろうが。


「悪いな。俺は自分の船が欲しいんだ」

「お前が船乗りになるのか?」

「いや、他人に任せるけど」

「じゃあ、俺に任せてくれ。頼む」


「駄目だな」


 俺はそっけなく言った。


「……言っとくが、俺以上の船長はいねえぜ」


 ハロルはなぜか自信ありげだ。


 つい先日自分の船を沈めた男が、よくもまあそのセリフを口にできたものだ。

 会社を潰した男が「俺以上の経営者はいねえぜ」と言うようなもんだ。


「それで、共和国のほうとは何往復したんだ」

「都合、六往復した」


 六往復。

 なかなかのもんだ。

 蛮勇ここに極まれりといったところか。


「まあ、それでも駄目だな」

「なんでだよ。損はさせねえって」

「俺の新しい船には秘密の装備を積むんだ」

「……どういう装備なんだ?」


「大海原で遭難しても、常に自分の位置が分かる装備だ」

 俺がそう言うと、ハロルの顔色が変わった。


「なんだって? お前、それ秘密にしてやがったのか。なんで教えてくれなかった」


 なんか怒りだした。

 まあ、それを積んでたら、こいつの船は無事だったわけだからな。


「考えついたのは半年前で、ようやく形になったのが一週間くらい前の話だ。といっても、発明が早くてもお前には教えなかったがな」

「なんでだよ。教えてくれたっていいじゃねえか。ケチくせえ」

 不満気であった。


「これは、もしものときに女王陛下をアイサ孤島にお連れするための技術なんだよ。俺がバカ面こいて、ホイホイお前に教えてみろ。脳タリンのお前のことだから、アルビオ共和国へ行ったら、考えなしに酒の席で酔っ払って、クラ人に口を滑らしちまうだろう。そうしたら、クラ人の世界にその技術が広まる。そうしたら、アイサ孤島が攻め放題になる。どうなるか想像できるか。想像してみろ」


 俺がそう言うと、ハロルはしかめっ面をして目をつむった。

 俺の言ったとおり想像しているらしい。


「できたか?」

「……まあ、ヤバいことになるってことくらいはな」


 どうも想像力が足りていない気がするが。

 まあ、いいか。


「そうなったら、女王陛下も、キャロル殿下も、イーサ先生まで殺されることになる。お前が口を滑らしただけで、そういうことになるんだ。最悪、お前のせいでシャン人って種が滅びるかもしれねえ。そうなったら、お前をブチ殺したくらいじゃなんの慰めにもならない。軽々けいけいと教えられるもんじゃないんだよ」


 天測航法は、恐らくクラ人も発明していない技術なので、どうしても秘匿しなければならない。

 そのため、俺は特許も申請していなかった。


 申請すれば、誰ともわからぬ他人に広まってしまうからだ。

 六分儀などは天体観測装置として申請したが、天測航法の仕組みそのものは届け出ていない。


「……わかったけどよ。でも、じゃあどういうやつに船を任せるつもりなんだよ?」

「まだ全然決めてないけどな。教えたら、船から降ろすわけにはいかなくなるだろ? 陸で暮らしたいとか、他の船に移りたいとか、独立したいとか言われたら、そいつは殺さなきゃならない。だから、そのくらいの責任感がある奴じゃないとな」

「……そうか」


「まあ、お前が船長で悪いってわけじゃない。相応の覚悟ができていればな」

「相応の覚悟ってのは、なんだ」

「命に変えても秘密は守るって覚悟さ。知ったら殺されるような情報を知るには、死ぬ覚悟もいるだろ」

「そりゃそうだな」


「ところで、俺はこれから王都に戻るけど、お前も来るか?」

「……行く。死なねぇなら親父に事情を話さなきゃならねえしな」


 ハロルはなんだか覚悟を決めたような顔で言った。

 沈没したこと伝えてなかったんかい……。


「じゃあ、路銀を貸してやる。銀貨二枚くらいでいいか?」

「一緒に行かねえのかよ?」

「俺は空から来たんだよ。鷲は二人乗りはできない」

「はー。そういえば騎士様だったっけな……。分かったよ」


 俺はそのあと朝食を食って、「じゃあな」とハロルに別れを告げると、代官所へ行った。

 代官所で星屑を返してもらうと、王都に帰った。



 ***



 それから、四日後の昼のことだった。

 スズヤが来ていたので別邸で食事をしていると、執事の人が来て、ハロルが玄関にきていることを教えてくれた。


「お母さん、すいません。仕事が入ってしまいました」

 俺がそう言うと、

「もう、親子揃って仕事仕事なんですから。もうちょっとお母さんを構ってくれてもいいじゃない」

 と、お母さんはなんだかブーたれていた。


「ごめんなさい。そのうち埋め合わせしますから」

「きっとよ? 約束ですからね」

「もちろんです。僕が約束を破ったことがありましたか?」


「えーっと、ここ一年で埋め合わせの約束が三回あったかしら」


 あら……。

 そういえば、なんだか記憶にある気がする……。

「ごめんなさい」

 子どものようにペコリと頭を下げて謝った。


「いいのよ。でも、大切な女の子との約束は破ってはいけませんからね」

「は、はい……」

「わかったら行ってよし」

 許可が出た。


「そ、それでは、失礼します」

 俺は部屋を辞した。


 玄関先へ行くと、守衛に中に入るのを止められたハロルが、不満気に突っ立っていた。

 まあ……止めるのも無理はないか。

 実家にいったん帰って着替えてきたのか、さすがに浮浪者というほど殺伐とした服装ではないが、あんまり格好いいとはいえない。

 ハゲを隠すためか、頭には毛糸の帽子を目深にかぶっていた。


「なんの用だよ」


 ママと引き離されたぼくは不機嫌だった。


「用って……お前が王都に来いって言ったんだろうが」

「ふうん。それで、そっちの子は誰だ?」


 俺は、ハロルの横にいる子どもを見た。

 俺と同じくらいの子どもに見える。


「初めまして、僕はゴラ・ハニャムと申します」

 ぺこりとお辞儀をした。

「俺はユーリ・ホウだ。聞いていると思うが」

 ゴラは大人しそうな少年だった。


 だが、細身ながら体はギッチリと締まっていて、顔も日に焼け、海の男と言われれば、納得できなくもない。


「こいつは、航海士だ」

 え……。


「航海士って、もっと年寄りなんじゃないのかよ」

「ジジイは、アレだ。死んじまったからな。陸まで持たなかったんだよ。陸が見えたところで安心したのか……」


 ハロルは沈痛な面持ちになった。


 ああ……。

 なるほどね。

 ハロル一人で帰ってきたのか。


「悪いことを聞いたな……」


 その事実を聞いたのは昨日今日の話なのだろう。

 ゴラの表情は暗かった。


「まあ、いいさ。だけどコイツはこれで一人前だからな。ジジイのお墨付きだ」

 おおかた、その爺さんに鍛えられてきたとかなんだろう。

「だが、その爺さんの弟子なら、なんで船に乗っていなかったんだ?」

 大事な航海であったはずなのに、お留守番だったというのは、腑に落ちないところだ。


「ガキが産まれそうなんで、陸に残ったんだよ」


 ガキ?

 あかんぼってこと?


「??? え、だってそいつ何歳? 俺と同い年くらいじゃないのか?」

「えーっと、十六歳だったか?」

 ハロルがゴラに聞いた。

「はい。今年で十六歳になります」


 十六歳???

「もう子どもできたの?」

「はい。結婚してまだ一年なのですが」


 ちょっとまてい。

 俺とかまだ童貞なんだけど。


 この野郎、童貞どころかもう結婚して子どもできとるとか。

 十六歳で子持ちとか。


 精通して速攻でアレしてコレしての大忙しかよ。

 こんな大人しそうな顔しやがって。

 まだ成人まで四年あんだろが。


 ドッラみたいなDQNなら「あぁ、さもあらん」って感じだけどよ。

 世の中どうなってんだよ。

 くそが。


「ふーん。ま、まあそれはいいんだけどな」


 俺は冷静を装った。


「一体、ここに何しに来たんだ? 二人で飯屋でも開くことにしたのか?」

「ちげえよ。俺も覚悟を決めたってことだ」


 ほ~ん。


「覚悟って言われてもなあ。言いたくはないが、口だけではなんとでも言えるからな」

「口だけじゃあねえ。イイスス様に誓う」


 神に誓うんですって。

 でもこいつ、ニワカ教徒だしなぁ……。


 ああ、そうだ。


「よし、そこまでいうなら分かった」

「ヨッシ!」

 ハロルは勢い良くガッツポーズをした。


 喜んどる喜んどる。

 つーか、俺も最初から任せるならハロルかなぁと思ってたしな。


「イーサ先生のとこ行こう」



 ***



「おや、ユーリさん、ハロルさん。ハロルさんはずいぶんとお久しぶりですね」


 クラ語講座の準備室に入ると、今日も今日とて、イーサ先生は暖かく迎えてくれた。

 ここにはいつも同じ空気が流れている。


「ご無沙汰しておりやす」


 相変わらず、こいつはイーサ先生の前では妙な口調になるな。


「あら、そちらの方は?」

「ゴラと言いやして、今ではあっしのたった一人の部下でありやす」

 あっしって。

 一人称としてどうなんだよ。

「初めまして、ゴラさん。私はイーサ・ヴィーノともうします」

 イーサ先生は丁寧に挨拶をした。

「こちらこそ、はじめまして。ゴラ・ハニャムです。お噂はかねがね聞いております」

 ハロルがいろいろ喋ってんのを聞いたんだろう。


「それで、今日はなにかご用件でも?」

「イーサ先生、前にイイスス教の秘儀の話をしていましたよね」


 以前に色々と話を聞いていた。

 イイスス教には様々な秘儀があり、入信の際に行われる洗礼の秘儀だのなんだのと、いろいろなものがある。


「はい。たくさんありますが、どれのことでしょうか」

「誓いの秘儀です」

「誓いの秘儀ですか……。聖職者がしゅに変わって誓いの証人となる秘儀ですね」

「イーサ先生はできますか?」

「もちろん、できますよ。ワタシ派では古式にのっとってやることになっています」


 ナチュラルにワタシ派とかでてくるからビビるわぁ。

 古式というのは、どのようなものなのだろう。


「じゃあ、お願いしていいですか?」

 と頼むと、

「ユーリさんがですか?」

 と、イーサ先生はちょっと困惑した様子であった。


 さもあらん。


 イイスス教徒以外の者がイイスス教の秘儀をやったところで、何の意味もないのは当たり前の話だ。

 モスクを建てるのに地鎮祭をやって欲しいという奴は、なかなかおるまい。

 神主とて「え、土地神様キレちゃうんじゃないの?」と心配になるであろう。


「ちょっとね、ハロルさんと約束したいことができてしまって」

「ああ、ハロルさんとですか。それなら分かります」

 得心がいったというふうに、イーサ先生は頷いた。

 かわいい。


 ハロルはイーサ先生の中では立派な信徒なので、ハロルがやる分にはなんの問題もないはずだ。

 イーサ先生は、腰掛けていた粗末な椅子をまわして、ハロルに向き直った。


「でも、ハロルさん、分かっていますか? 誓いの秘儀で誓われた誓いを破るということは、すなわち神を侮辱するということになるのですよ。もちろん、死後は地獄を彷徨うことになります。あなたも洗礼を受けたからには、軽はずみにやっていい儀式ではありませんよ」


 いつの間に洗礼を受けた。

 洗礼名ホーリーネームとか持ってんのかな。


「重々、わかっておりやす」

「なら、わかりました。それでは、契約内容を教えて下さい」


 えっ。

 教えなきゃ駄目なのか。


「全部教えないとダメですか?」

「はい。そうでないと、私のほうも無責任になってしまうので」

 そういうことらしい。

「そうですか……」

 うーん。


「もちろん、懺悔と同様、秘密は厳守します。それが私の信仰に反するものであっても」


 なるほど。

 それなら話そう。


 天地がひっくり返ったとしても、イーサ先生は信仰を手放さない。

 ここにいるニワカ信者と違って、イーサ先生ならいくらでも信用できる。

 例え拷問にかけられても、一度守ると決めた秘密は漏らさないだろう。


「わかりました。お話します」


 俺は話し始めた。



 ***



「私は裁判官ではないので分からないのですが、その話を聞きますと、ハロルさんが終身雇用され続けなければならない。というのはすこし理不尽に思えますね。誓いで代替することにはならないのですか?」


 イーサ先生は、ハロルの退社不可の条項に苦言を呈してきた。

 俺も、そのへんは脅しで言っただけなので、どうかと思っていた。

 この世界には憲法なんぞはないが、職業選択の自由を終生奪うような話だし。


 別に、絶対に技術を漏らさないと信頼できているのであれば、やめてもらっても何の問題もない。

 問題は、信頼できないということだ。


 人間というのは利己的なものだし、過去のことは忘れるものだ。

 百年たっても恩を忘れず、他人に尽くし続ける。などという人間の存在を、俺は信じられない。


 だが、人を使うにあたっては、そんなことを徹底していては、事業は広がらない。


 それは、ある意味でトレードオフの関係にある。

 こちらを立ててはあちらが立たず。

 人材を選びすぎ、戸口を狭めすぎてしまえば、事業は広がらない。

 選り好みしすぎれば、大事な機会を逃してしまう。


 イーサ先生のところに来て、誓いの秘儀をやってもらうというのは、言わばその信頼を補強するための措置なのだ。


「考えてみれば、そうですね。ハロルさんは敬虔なイイスス教徒なので大丈夫でしょう」

 と、俺はその条項を削ることに同意した。


「ええ、もちろんです。ハロルさんは私の三番弟子ですからね」

 あれ。

「一番弟子ではないのですか?」


 ハロル以外に弟子がいるというのは、俺もここに通って長いが、見たことも聞いたこともない。


「一番弟子と二番弟子はホースとワサップというのですが、彼らは殉教いたしましたので、陰府よみにて審判を待っている身なのです。もちろん、シャン人ではハロルさんが初めての弟子ですよ」

 以前にクラ人の弟子がいたらしい。


「そうなのですか……それは悪いことを」

 たぶん、教皇領から出るときに死んじゃったんだろうな……。

「いえ、いいのですよ」

「そうですか」

「弟子に庇われて師匠が生き延びるというのは、みっともないことですが……」

 やはり、大なり小なり気に病んでいるようだ。


「お二人もイーサ先生をお救いできたことを誇りに、陰府よみで健やかに暮らしていることでしょう」


 イイスス教では、死後の魂は「陰府よみ」というところに行き、そこで暮らすということになっている。

 陰府というのは、一種の異世界であって、山もあれば川もあり、都市もある。


 人間は死後そこに行き、日常生活を送るのだが、陰府にはスピリチュアルな法則が存在するので、生前に悪いことをした連中は、よい生活ができない。


 現実の世界では、人間は足を使えば豊穣の地だろうとエベレストの頂上だろうと、物理的に行こうと思えば行けるわけだが、陰府ではそれができないのだ。


 生前に罪を犯し、霊魂が汚れた不浄の者は、豊穣の地に近づくと体が焼けるように痛むので近づけないし、その地で採れた作物も泥の味がして食えないことになっている。

 生前に悪行ばかり行い、罪咎つみとがにまみれた者が、最上層の天府パラダという神のお膝元に行くことは、人間が生身で太陽の表面を歩くようなもので、不可能であることらしい。


 結果、生前に罪を犯したものは、痩せた冷たい土地でクズ同士の骨肉の争いを続け、餓鬼どもに苛められながら暮らすことになる。

 イイスス教では、この土地のことを地獄ダイスという。


 だが、ここにも一種の救済措置があり、陰府に下った後であっても、自らの罪咎を悔い改めることで、少しづつより豊かな世界へ近づけることになっている。


 聖典によると、地獄の中でも最底辺の土地に生きている人間は、日光の差さぬ塩害の酷い土地で、これは恐らくはイイススという人物が実際に嫌いだった食べ物なんだろうが、腐った泥地に生きるイカと、泥地の水辺に生えるドクダミの葉を食って生きている。


 もちろん、ホースとワサップという人は、殉教したのであるから、高位の地域で最も良識ある賢人の方々と語り合ったりしつつ、神の恩寵を存分に浴びて、何不自由なく暮らしている(ことになっている)はずだ。


「そう言っていただけると、なんだか救われる思いがいたしますね」

 イーサ先生は柔らかく微笑んだ。


「まあ、三番目の弟子は誓いを裏切らないでしょう」

「おう、裏切らん」

 ハロルは自信たっぷりに言った。

「では、始めましょうか」


 儀式というのは、具体的にはどういう物なのだろう。

 俺は知らなかった。


 イーサ先生は、まず机の上にあった小さな瓶を手に取ると、その蓋を開け、硝子のコップに水っぽい液体を注ぎ、それを口に含んだ。

 そして、口に含んだ水をとろとろとコップに戻すと、それをハロルに渡した。


「飲んでください」


 ……。

 え、えーと?


 ハロルは無言でコップを受け取ると、それに口をつけ、液体を飲み干した。


 えーっと?

 あの、イーサ先生?


 口を使っての誓約ということだから、先ほどの行為にどういう意味合いが含まれているのか、だいたい察することはできるけどよ。

 おそらく、一度口にしたものを戻した液体に、なにか呪術的な意味が含まれてるんだろう。


 だけどこれって、眼鏡美人のイーサ先生だから絵になるけど、これが油ぎったおっさんだったら、どうすんだよ……。

 そいつがにんにくとか食べた後だったら、俺だったら吐いちゃうと思うけど……。


『これで我々の口は聖別されました。虚偽の言葉を口にすることはまかりなりません』

 おっと、クラ語だ。

『はい』

 ハロルが言った。


『それでは、ハロル・パテラ・ハレルよ。これより誓いの秘儀を始めます。ハロル・パテラ・ハレルは、主イイススに対し、これから以下のことを特に誓う』

 始まった始まった。


『一つ、ユーリ・ホウ氏を裏切らぬこと。一つ、ユーリ・ホウ氏の持つ海を渡る術法を伝授される見返りとして、それを他人たじんに漏らさぬこと。一つ、与えられた術法を利用するにあたり、生を賭して守秘管理の責務を担うこと。一つ、術法を利用する間はユーリ・ホウ氏に雇われ、その元を去った後は術法の一切を忘れ、利用をせぬこと……』


 さすがはイーサ先生だけあって、俺の言った内容を、完璧にクラ語へと翻訳していた。

 即興で訳したにもかかわらず、その言句には詩的な響きすらある。


『以上のことを誓うことを、総主教イーサ・カソリカ・ウィチタを証人として、宣言するか? この誓いを違えるは、己を欺くにとどまらず、主を欺き、主の愛に背を向けたことを意味する。さすれば、己の神品しんぴんは著しく損われるであろう』


 神品しんぴんというのは、イイスス教の用語で、陰府よみでの格のようなものを指す。

 ゲームで言えば善人度みたいなことになるか。

 神品を著しく損なえば、つまりは陰府では地獄層を彷徨うハメになる。ということだ。


『ハロル・パテラ・ハレルは、十分に理解し、主に誓います』

『よろしい。汝の宣言は主に誓われた。アリルイヤ』


 厳かな宣誓が終わると、イーサ先生はパンッと手を叩いた。


「これで終了です。お疲れ様でした」

「どうも有り難うございます」


 俺は礼を言った。

 なんとまあ面白い儀式であった。


「ハロルさん。誓いを忘れてはなりませんよ。破ったら、大変なことになりますからね」

「もちろんでございやす」


 だからその口調やめろって。


「僕にはよく分からなかったんですが、どう大変なことになるんですか?」


 一人クラ語がわからなかったために、ずっと蚊帳の外にいたゴラが言った。

 そりゃ大変なことになるんだよ。

 知らないけど、大変なことになるったら、そりゃもう大変なことになるんだろう。


 ハロルは死後地獄を彷徨うことになるだろうし、これはまあニワカ信者だからどうでもいいにしても、イーサ先生から絶縁されて二度と口を聞いてもらえなくなるだろう。

 それはハロルにとっては大変なことだ。


「この誓いには世俗的な拘束力はありませんから、どうにもなりませんよ。あるとしたら、私が死ぬくらいです」

「そうだな。気休めみたいな……えっ?」


 ???

 今死ぬって言った?


 え?

 思わずハロルのほうを見ると、口をあんぐりと開けていた。

 知らなかったのか。

 どうも、俺の聞き間違いではないらしい。


「さっきイーサ先生が死ぬって聞こえましたけど、もしかして聞き間違いですか?」

 一応聞きなおしておこう。

「はい? あっ、申し訳ありません。誤解を招く表現をしてしまいましたね。死ぬかも知れないというだけですよ」


 あら。

 そらそうだよな。自殺とか駄目らしいし。

 でも、死ぬかもしれないというのは、剣呑な話である。


「どうして死ぬかもしれないんですか?」


 意味不明なんだが。


「えっと、先ほどの儀式は、教会法的には師の責任を担保に、誓約者に誓いの内容を守らせる儀式なのです。誓いの秘儀のそもそもの由来は、カッソによる外典福音書第三節にある説話にありまして、これはー……かいつまんで説明をしますと、使徒サハラの弟子が棄教の末に凶行に及んだお話なのですが、そのことに責任を感じた使徒サハラは、眠りについたイイスス様の墓所の前で、なにも口に入れず一月ひとつきのあいだ瞑想し、主にお伺いを立てたのですね。ですから、ハロルさんが誓いを破った場合には、私も同じようなことをする必要があります」


 なんてこったい。

 ……やっちまったなぁ。


 事前に説明を求めるわけだ。

 要するに連帯保証人のような制度であるらしい。

 口約束の証人になってください。程度の儀式だと思っていた。


「ですから、もしものときは、私も一月の間瞑想します。本当は聖寝神殿の聖寝室の近くにある専用の間に篭もるのですが、それは無理なので、森に入ってやることになりますね。神のお許しがあれば、使徒サハラのように生き延びられるでしょう」


 えっと。


 森にでも入ってやるっていうのは、もしかして大樹の根っこにでも座ってやるつもりなのでしょうか。

 このへんの森には野生のオオカミとかもけっこういるし、先生のような食の細そうな女性が座っていたら、一ヶ月といわず一週間ともたないように思えるのですが。


「もしかしてその間は絶食ですか?」

「いいえ、水は飲めますよ」

 …………。

「でも、それはカソリカ派の話ですよね。ワタシ派ではやらなくてもいいのでは」


「今のカソリカ派では、罰金というか上納金をおさめるだけですね。この方法は、約五百年ほど前までカソリカ派で行われていた古い方法になります。私の研究ではカッソによる外典福音書は偽書とはみなさないので、誓いの秘儀は有効です」


 やべぇ、取り付く島もない。

 ワタシ派って意外と原理主義的なのかな……。


 ワタシ派では死ぬまで断食するのに、金だけ払えば済んじゃうカソリカ派のほうもどうかとは思うが……。


「……さっきのは取り消してくだせぇ」

 ハロルが唐突に言った。


「おや、何故ですか?」


 イーサ先生は素直に不思議そうであった。

 やべーこの人通じてねえ。


「先生を巻き込むわけにはいきやせん」


 そうだそうだ言ってやれ。

 主に俺のせいだけど。


「ハロルさん、どういうことですか? 今しがた主の名に誓ったというのに、それを早々に裏切るというのですか」


 声のトーンが変わった。

 硬い、乾いた声色だった。

 普段の柔らかさがなく、静かな怒気がにじみでているような。


 イーサ先生が怒るのは初めて見る。

 こわい。


「しかし……先生にご迷惑がかかるのは」

「迷惑とは思いませんよ。そう思っていたら、秘儀を引き受けたりしません」

 ガンとした態度だ。

「ですが」


「ですがじゃありません。あなたは神に誓いを立てたのですから、誓いを破った後のことなどは考える必要はないでしょう。あなたがしっかりと決意し、心を曲げずに、誓いを履行し続ければ良い話です。なにも起こりません。それとも、ハロルさんは最初から誓いを破るつもりで、秘儀にのぞんだというのですか?」


 こっわ。

 返答次第では師匠と弟子の縁を切るぞ。という意思が伝わってくる。


「そうではありやせんが……」


 かわいそうに、ハロルはみるみると萎縮してしまっていた。


「では、構わないでしょう。ハロルさん、いみじくも主の眼前に跪き、洗礼を受けた以上は、いたずらに秘儀を撤回するなどという発言をしてはなりませんよ」

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