第52話 ルジェの落胆*

 パンッ


 小さく音が響き、ジューラの頬が弾かれた。

 その衝撃で、ジューラの銀冠がはずれ、床にコロコロと転がる。


 カツン、という音がして、石灰岩の壁に当たって止まった。


 貴賓席で勝負の行方を見守っていた、ラクラマヌス家の現当主、ルジェ・ラクラマヌスは、今は控え室にいた。

 控え室には、ルジェとジューラの二人だけしかいない。


 ジューラは、まだ華麗な衣装を纏っている。

 この衣装は、ラクラマヌス家からの持ち出しであった。

 汚れようと破れようと、文句をいう人間はいない。


「とんだ醜態を晒してくれましたね」


 その声には、祖母が傷心の孫にかけるべき暖かみはなかった。


「ですが、お祖母様……あれはお母様がそうしろと」

「おだまりなさい!!!」

「くっ……」


 ラクラマヌス家現当主のルジェは、王都の裏側に横たわる汚物を、ことごとく見知った女であった。

 齢は九十に届こうとしている。


「白樺の寮で派閥を率いながら、こんな簡単なことも分からぬとは……」


 ルジェは怒りに震えながら言った。

 少しは見込みがあると思っていた孫娘が、こんな馬鹿な計画に乗ってしまったことが、腹立たしくてしかたがなかった。


 少しくらい頭を使えと言いたくなる。

 そもそも、この年齢になってまで教養院を卒業できない女の頭脳になど、期待しても仕方がないのかもしれない。

 だが、それにしても、と思わざるをえない。


 全学斗棋戦は伝統ある一戦だ。

 故に、優勝をすれば周囲の見る目も変わってくる。

 名も覚えられるし、出世にも有利になる。

 特に、決勝の相手が将家の跡継ぎともなれば、それはもう一目置かれるようになる。


 そのために、卑怯な手を使うことは構わない。と、ルジェは考えていた。

 ルジェは、十八歳で教養院を卒業するまでに斗棋戦に二回出場し、二回目の大会では優勝もしていた。


 その際、ルジェも多少の策を弄した。

 その経験から言えば、放火によって心理的に混乱を生じさせるのは、悪くない手だ。


 だが、やり方は最悪だった。


 どうせ馬鹿娘の考えた下衆の策に違いないが、衆人環視の中で、対局中の口上として伝えるという方法は、下の下だ。

 まるでチンピラが考えるような策であった。


 斗棋であのような舌戦で相手を混乱させるような真似をして、観客はどう思うか。

 あの時点で気分を害すであろう。


 権謀家というのは、良識にとらわれていてはいけないが、良識という建前を忘れてしまってもいけない。

 建前を忘れてしまえば、街にいるチンピラと何が違うというのだ。


 建前が、高貴さや家柄という鎧を形作り、それこそが繁栄をもたらすのだ。


 だから、馬鹿だというのだ。

 馬鹿娘も、目の前の馬鹿孫も、それがわかっていない。

 権謀家としてのセンスがない。


 一番重要なはずの建前を、日常と乖離した不必要なものと考え、行為と建前を混同させてしまう。

 だから、やることなすことがチンピラ染み、他人から軽んじられる。


 そもそも、あれをやって、勝てなかったらどうするのか、考えもしなかったのか。

 下劣な策を講じたとして、それで負けてしまえば、同じ負けるにしても何倍もみっともないことになる。

 今のように。


 そもそも、斗棋戦で優勝できるほどの腕前かと言いたくなる。

 実力もないくせに欲をかいた挙句、あんなふうに家名にまで泥をつける負け方をした。


 同じ負けるなら、見かけ上だけでもフェアプレイに徹していれば、負けても握手をしてそれで終わりなのだ。

 女王からねぎらいの言葉すら与えられるかもしれない。


 家名にまで響くなどということは、ありえない。

 つまり、ジューラは無用のリスクをわざわざ背負い込んだということになる。


 ルジェは、自分だったらどうしていただろう、と考える。


 家屋に放火するにしても、それを伝える手段は、控室に怪文書を送るなどの手段にしたはずだ。

 女王まで見ている衆人環視の場で、自慢げに悪行を告白する必要など、まったくない。


 それ以前に、二番目の勝負が終わった時点で、早馬を走らせて伝えれば、放火の中止指令が間に合ったかもしれない。

 それとなくそのことを伝えれば、あのユーリとかいう若造は、負けてくれていたはずだ。


 ルジェは、自分が勝った大会でも、多少の策は弄したとはいえ、大まかな部分では実力を伴って優勝した。

 それゆえに、決勝の一戦目、二戦目を見ただけで、あの若造が勝ちを譲ろうとしているのは分かった。


 一戦目の芸術的なまでの勝利と比べ、二戦目は明らかに不自然な指し筋をしてきていたからだ。

 最初は、集中力の持続が極端に悪いタイプかとも思ったが、拙い指し筋とキレのある指し筋が交互にきていたので、これは明らかに意図的なものだと気づいた。


 内心で、これはジューラが策謀を巡らしたからに違いなく、だから若造は勝ちを譲ることになったのだ。と、孫の才覚を褒め称えたくなったほどだった。

 一戦目に勝ち、二戦目でこうした指し筋をしているのは、負けるにしても自分の力量を誇示したいがゆえのことであろう。と。


 しかし、そこで行われた取引は、恐らくはあの若造のやっている商売への譲歩が対価となっているはずなので、その譲歩の内容について、自分が知らされていないことは不思議に思っていた。


 だが、それは大きな問題ではない。

 負けさせておいて約束は反故にする。

 そういうつもりであるかも知れないからだ。


 だが、現実は違った。

 ジューラは事前にユーリに働きかけたりはしておらず、むしろ向こうのほうが気を利かせて、勝ちを譲ろうとしていたのだ。

 こちら側にそれを気づかせようとして、わざと一戦目で圧倒的に勝ち、二戦目で拙く負けた。


 それは、魔女家の得意とするはずの、政治的な駆け引きだった。

 そういった駆け引きでは、わざわざ一から十まで伝えるようなことはしないのだ。


 むろん、仲間内では、いくらでも対話をすればいい。

 一から十まで伝えあって、なんの不都合もない。


 だが、表向き敵対している二者の間では、そうはいかない。

 敵対している間柄にあっては、面会自体が危険であるし、会合しようという動きを見せるだけで、身内から叩かれる危険性がある。


 だが、敵対しているからこそ、落とし所について二者の間に対話が必要なのだ。

 こういった、運の要素が強く絡む勝負事では、更にその必要性は強くなる。

 そういった場合の駆け引きでは、小さな不自然から鋭敏に意図を察しなければならない。


 騎士側がわざわざそれをやったのに、こちら側がそれを読み取れず、こちらに有利な取引をメチャクチャにしてしまった。

 こちらは魔女家なのだから、向こうの独り合点では済まない。

 駆け引きには気づいて当たり前である。


 百歩譲って、気付かなかったのはまだいい。

 あろうことか、こちら側から向こうのメンツを潰すようなことを口走り、勝てた勝負を最悪の形で負けにするとは。


「なんという莫迦……っ」


 何度罵っても足りないくらいであった。


「すみません、お祖母様、すみませんでした……っ」


 地べたに跪き、孫は必死に頭を下げている。


 ルジェが悲しいのは、一番見込みがある後継者が、これだというところだった。

 そいつがこのような醜態を晒してしまった以上は、ジューラが当主になったところで、他の魔女家からは侮られっぱなしになる。

 ただ負けるだけだったならば良かったものを、それを取り返しのつかない醜態にしてしまった。


 もはや、ルジェにはジューラに見切りをつけ、新しい子に期待するという選択肢はない。

 子が産まれたとして、才覚を判断できるまでには、少なくとも十余年の歳月が必要になる。

 残念ながら、ルジェはその頃には天寿を全うしているだろう。


「ぐっ……」


 ルジェは皺のよった頬を歪ませ、歯ぎしりした。

 涙がでるほど悔しかった。


 怒りに任せて、持っていた杖を、ジューラの頭に打ち下ろした。


「あうっ!」

 ジューラは杖の石づきを頭に受け、小さな悲鳴を漏らした。


「ハァ、ハァ」


 ルジェは息を切らす。

 一度ならず、二度でも三度でも叩いてやりたかったが、老骨の身には、二度それをする活力は湧いてこなかった。


(どうしてくれたものか)


 ルジェは、孫を打ち負かした若造について考える。


 ジューラの情けなさのほうを恨んでいるからか、不思議と憎しみは湧いてこなかった。

 若い武家の騎士にありがちなことに、魔女家を舐めているのであれば、報復の必要がある。


 だが、あの若造はそうではなかった。

 勝ちを譲ろうという態度を示した。


 三戦目、一瞬、目が合った時のあの眼差し。


 若者にありがちな浮ついた部分はまるでなく、当主としての監督不行き届きを責めるように、呆れた目でこちらを見ていた。

 勝ちがほぼ確定し、栄光が目前に迫っているというのに、得意げになるふうでもなく、喜びがあるふうでもなく、むしろ勝ちを譲れず、こちらと敵対することになってしまったことに、悲しんでいるようですらあった。


 馬鹿ではない。


 羊皮紙ギルドの要請も、放火によって一応は義理を果たした形になる。

 だが、このまま羊皮紙ギルドの利益を損ない続けるようであれば、この先も争わざるをえない。


 ラクラマヌス家のメンツを潰された報復も、なにがしかの方法でするべきだろう。

 頭の痛い問題であった。



 ***



 ルジェは、出来の悪い孫娘を見下ろしながら、考える。

 ルジェには、ジューラのために何かをしてやらなければ、という考えはまるで浮かんでこなかった。


 どうにかして汚名を返上するのは、ジューラが己の才覚でやるべきことであって、自分が手を貸してやる事柄ではなかった。


(こんなでも、ギュダンヴィエルよりマシか……魔女として残ってはいるのだから……)


 そう考えると、ルジェは少しは心が慰められた。

 ギュダンヴィエル家の才児、ミャロ・ギュダンヴィエルと比べれば、まだ救いようがある。


 ギュダンヴィエルもラクラマヌスと同じく、近年才ある子には恵まれていない。

 当主の長女にいたっては、いくらうちの馬鹿娘でも、これよりはマシ。というほどの面汚しだ。


 なにせ、あそこの娘は、名も知らぬような家の騎士と、あろうことか在学中に密会を繰り返し、子を孕んでしまったのだから。

 その子は流産してしまったが、結局は一年間を休学し、その男と結婚することになった。


 そんなどうしようもない女だったが、とんびたかを生むというのか、そこから産まれた子供は、とてつもない才の持ち主であった。


 七大魔女家セブンウィッチズの家の後継者は古代シャン語の習得が必須条件になるが、嘘か真か、十歳にして古代シャン語を話せたという。

 古代シャン語は生半な勉強では習得できず、ルジェでさえ苦労した。

 魔女としての勘所の冴えも申し分なかった。


 これでは、期待するなというほうが無理だ。

 それが、教養院に入学する年齢になると、親だの当主だのを全て騙し、書類をすべて完璧に偽造して、唐突に騎士院に滑り込んだ。

 当主は入学式直前になり、学院から連絡がきて、ようやく取り返しの付かない事態に気づいたという。


 ルイーダ・ギュダンヴィエルの落ち込み振りは、普段は他人に同情などしないルジェであっても、思わず気の毒になってしまうほどであった。


 それと比べれば、まだこちらのほうがマシだ。

 少なくとも、使いではあるし、魔女として生きる意思は持っているのだから。


「いつまで寝っ転がっているんです。早く帰る支度をなさい」


 ルジェは土下座しているジューラに言い放つと、部屋を後にしようとした。

 そのとき、扉が開いた。


「お、お母様」


 馬鹿娘であった。

 走ってきたのか、汗をかいている。


「なんですか、騒々しい」


 ほとほとうんざりしている馬鹿娘の顔をみて、ルジェは疲れが倍増するようだった。

 馬鹿にもほどがある。


「それが……一人帰ってこないのです。実行班が」


 ルジェは馬鹿娘を殺したくなった。

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