第27話 きっともう怖くない

 威井田いいだは捕縛され、千海せんかいも身柄を確保された。けれど、そのことがニュースで流れることはない。

 私のパパは、私が生まれる前に死んだことにした。事実じゃなくてもこの想像のおかげで、千海をまっさらな他人として受け止められる。

 もう二度と、名前も顔も見ることはないだろう。たとえ目にすることがあったとしても、振りまわされたりしない。だって、自分の人生のことだけで手一杯で、それどころじゃないから。

 そんな暇なんて、私にはないからだ。

 矢凪やなぎさんの安全も、陰ながら無事に守られた。いずれ遠からず、数パーセントの遺産を相続する知らせが届くと思う。びっくりしたり戸惑うようなことがあったとしても、大きな夢があるらしい矢凪さんなら、正しく活用してくれるはずだ。


 そう信じたい。

 私が、陰ながら恋した人だったから。


 かいさんと頭の痛くなる会話を交わし、シャワーを浴びてご飯を食べたら強烈な睡魔におそわれてしまい、自室で泥のように眠った。

 目覚めると、すでに夕方になっていた。オレンジ色に染まる天井を眺めながら、そっと下腹を触れてみる。指は難なく肌に埋まり、柔らかな熱を帯びたものに爪先があたった。

「……やった、認めてもらえた」

 思わず微笑む。

 起きあがった私は、砂己さこさんに分け御霊を戻す前の貴重な経験をすべく、ジャージ姿で部屋を出る。階下におりると、夕ご飯のいい香りが漂ってきた。

 台所をのぞくと、頭にタオルを巻いた美月みつきさんが団扇で酢飯をあおいでいた。

「うわ、すごいおいしそうです」

「うっす、起きたか。今夜はみんなで海の宝石箱食おうぜ」

 海鮮だらけのちらし寿司らしい。絶対おいしいに決まってる。

「はい。あとで手伝います」

 母屋をあとにして、道場に向かう。西日に照らされた床板を裸足で踏みしめ、天井を見あげた。

 普通の人があまり経験できないライフイベントを、私は山ほど越えてきた。ほとんど哀しくて辛くて苦しくて、悔しくて怒ることしかできないことだったけれど、引きが悪くてついていない運命のおかげで、こんな面白いこともできたりする。


 生まれてはじめて、思える。

 人生は、そんなに悪いものじゃなかったらしい。


 前に羽伊ういさんが見せてくれたときのように、道場のすみに立つ。かたむいた日差しが、私の長い影を床に落としていた。それを見つめながら、思う。

 このままここにいて、流されるようになんとなく楽しく暮らして、よくわからない気持ちのまま櫂さんのお嫁さんになることもできる。

 その契約を先送りにし、記憶をなくして自分の暮らしに戻り、ふたたび地道に生きることもできる。

 私はどうしたい? なんて、そう自分に問うまでもない。

「――よし、決めた」

 微笑みながらつま先立ちになり、勢いをつける。対角線に走り、螺旋状に壁をあがった。

 まるで、風に運ばれる鳥の羽のよう。時間も空間も重力さえも忘れ、ただ日差しの影に紛れて遊ぶ。

 一瞬のうちに天井を駆け抜けて壁をおり、宙返りで着地した。

「……できてしまった」

 ありえない無理ゲーだと思っていたのに、拍子抜けするほど簡単だった。

「おつかれさまでした」

 入り口から声がし、振り返る。普段着の羽伊さんがこちらを見ていた。

「正直、びっくりするほど簡単でした」

 あ然としている様子の私を見て、羽伊さんは小さく笑う。

「そう思えたのなら、完全にあがりです。本当にありがとうございました、倉本さん」

 そう言うと笑みを消し、表情を固くした。

「それで、これからどうするんですか」

 私は笑みを浮かべ、答えた。

「とりあえず、美月さんのちらし寿司を食べたいと思います」


 * * *


 私が手伝うまでもなく、豪華な晩ごはんはすでにできあがっていた。

 きらきら輝く海の宝石箱がテーブルに並ぶ。お吸いものと茶碗蒸しも追加され、盆と正月が一緒にきたみたいだ。

「さあ、打ちあげだ。のんで食おう!」

 美月さんが缶ビールを置いたとき、櫂さんがきた。私の隣にいる羽伊さんが、無言のままじっとりとした眼差しを向ける。すると、櫂さんは苦く笑いながら座った。

「まだ怒ってるの? 紬さんは怒ってないのに」

 怒ってないというか、そんな暇もなかっただけです。そんな私の内心のぼやきを体現するかのように、羽伊さんの眉がぐぐぐと寄った。

「そういうことじゃないんですよ」

 不機嫌そうに缶ビールをつかみ、タブを押す。

「あっ、グラスにそそぎま……」

 す、と手を差しのべる前に、羽伊さんはビールをのんだ。

「おいおい、乾杯する前にのむなよ」

 美月さんの文句にもかまわず、羽伊さんは水をのむように喉に流し込み、むっつりとした様子で息をついた。

「……のまないと正気でいられない。倉本さん、なにのみますか」

「あ、麦茶でいいです」

「紬っち、のめないのか?」

 のめるけど、やりたいことがある。だから、いまはのまない――とは言わず、うなずいた。

 乾杯をし、みんなで食べる。料理のおいしさは言わずもがなで、それ以上においしく感じるのは、きっと一人じゃないからだ。

「こんなふうに晩ごはんをみなさんと食べるの、はじめてですね」

「そういえばそうだね」

 櫂さんが言う。

「いつになく難航して激務だったからなあ」

 美月さんが遠い目をしてビールをのんだ。すると、櫂さんが笑う。

「なにはともあれ、おつかれさまだ。次の案件がきてるけど、いまは忘れてただのもう」

「もう次がきてるんですか」

 私が驚くと、ほろ酔いの羽伊さんが言った。

「俺たちに安息なんて言葉はないんです。そんな激務な一族にあなたが嫁ぐなんて、俺は納得してないですから。俺はあなたに幸せになってほしかったんです」

 ――えっ。

 私を含めた全員が羽伊さんを見た。

「お、珍しく酔ってる」

 櫂さんがにやりとする。美月さんが私に言った。

「普段無口なぶん、羽伊は酔っ払うとなんでもしゃべるぞ」

「えっ」

 櫂さんが立ちあがり、羽伊さんのそばに座る。そうしてから、そっと肩に手を添えた。

「羽伊、どうして紬さんに幸せになってほしいと思ったの?」

 羽伊さんの眼差しが、とろんとしていく。

「……ターゲットの護衛をしていたときから、倉本さんが一生懸命に暮らしてるのを見てたんです。この世界は不公平だから、要領のいい人間が得することが多い。だからこそ、倉本さんのような人……というか、倉本さんには幸せになってほしかったんです。なにか、報われるようなことがあればいいなと思ってたんですよ。それなのに……って、もうしかたないですけど」

 本当だ、すごいしゃべってる。というか、矢凪さんへの気持ちがバレているのはわかっていたものの、そんなふうに思われていたなんて知らなかった。

 羽伊さんが私を向く。

「兄さんのことは好きだし尊敬してます。あの人はたいがい無茶ですけど、よほどのことがないかぎりこんなことはしないって俺は信じてます。だから、きっとあなたのことはかなり本気です。でも、あの人はときどきものすごく適当になるから、まわりが振りまわされることも多いし、とにかく真面目に相手をするのは大変なんですよ。わかりますか、倉本さん!?」

 顔を近づけられ、私はのけぞる。

「は、はいっ?」

 櫂さんが苦笑した。

「あの人って……ここにいるの見えてないな。おーい?」

 羽伊さんは目の前で手をふる櫂さんを無視し、私に言った。

「でも、あなたが家族の一員になるのは、嬉しいです。だから、正直ものすごく複雑です」

 そう言うと、眠たげな様子でうなだれる。ぐらぐらと身体が揺れだし、櫂さんの肩に頭が落ちそうになった……矢先、ぐんと体制をもちなおした。

「……酔ってても櫂兄への拒否がすごいな」

 美月さんが感心する。と、羽伊さんがまた私を見た。

「――どうするつもりなんですか、倉本さん」

「えっ」

「あなたがこの先を決めるって、兄さんに聞きました」

 櫂さんと美月さんも、私を見つめる。

「だから俺も、ちょっと譲歩できたんです。本当にちょっとですけど」

 私は姿勢を正し、箸を置いた。

「私は、自分の暮らしに戻ろうと思います」

 美月さんが息をのむ。でも、櫂さんの表情は静かだ。と、小さく微笑んだ。

「それで? 続きがあるでしょ」

 バレてる。櫂さんには図星をつかれてばかりだった。いまさら櫂さんに隠せることなんて、私にはなにもないらしい。

「やっぱり、いまはどうにも決められないので、まっさらな状態の自分にまかせてみることに決めました。なので、いったん戻ろうと思います」

「……いったん?」

 美月さんが言う。私はうなずく。

「みなさんと一緒にいられるのは嬉しいです。でも、結婚なんて想像もしたことがないし、櫂さんへの気持ちも謎です。私は不幸な結婚を見て育ったので、怖いという思いも、やっぱりまだ残ってるんです」

 言葉をきって、息をつく。みんなが静かに私の言葉を待ってくれる。

「記憶をなくして戻ったら、私はまた度のない眼鏡で自分を守って、これまでどおりに暮らすと思います。そのままおばあちゃんになってしまうかもしれないけれど、もしかしたらどこかで変われるかもしれない」

 傷つくのが怖くて、哀しい思いをしたくなくて、心を閉じたまま生きてきた。

 自分を守るので精一杯で、余裕がなかったから。でも――。

「もしも変わることができたら、きっともう怖くない。そうしたら、いろんなことにちゃんと向きあえる気がする。もしも激務な櫂さんやみなさんになにかあっても、支えられる人でいられると思うんです」

 三人が息をのむ。私は羽伊さんを見て、美月さんを見て、櫂さんを見た。

「なので、あの。もしも私が眼鏡をはずすときがきたら、そのとき迎えにきてください」

 櫂さんはまばたきもせず、私を見つめる。

「いいよ」

 そう言って微笑む。

「きみがいくつでも、たとえ来世になったとしても、必ず迎えにいくよ」

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