第10話

 俺は、12歳のときに角枝の椿が咲いた。だいたい花持ちは小学校低学年頃に小さな花が咲き始めるから、ずいぶんと遅咲きだったことになる。家族は皆歓喜した。末っ子である俺以外の家族は花無しだったし、もう誰も咲かないと思っていたから。おまけにごく貧しい生活をしていた。親は俺を芸能事務所に入れた。珍しい椿のおかげで、選考に通ったのである。

 事務所には椿持ちがもうひとりいた。名前をトウィといった。歳は五つ違った。優しく聡明で、自分の美しさに誇りを持っていた。角枝の椿と同じ白色を好み、身に着けるのはいつも白い服だった。だから色のあるのは、角枝の焦げ茶と、瞳のグリーンだけだった。彼はことあるごとに俺の世話を焼いた。鬱陶しいとあしらいながらも、彼の隣は心地よかった。喧嘩と金の話で冷え切った家の中より、よほど。

 俺が17歳になった年、俺たちはコンビで売り出された。トウィがあんまり白い服ばかり着るので、対になるように黒い服を着せた誰かと組ませたらいいのでは、というプロデューサーの思い付きであった。

「じゃあ、瑠璃山」

と、トウィが言ったので俺になった。芸名は、花の色にちなんで緋と貴雪。緋が俺で、貴雪がトウィである。思い付きでできたようなコンビであるのに、そこそこの人気を博した。しかし、世に出てから一年経つか経たないかのうちに、俺たちは活動を停止した。否、停止せざるを得なかったのである。

 トウィの病が発覚したからであった。


 彼が初めて涙を見せたあの時、なぜすぐにでも角枝をやると言えなかったのか。あの頃俺は事務所の仕事の他に、匿名で付け花を加工して売っていた。事務所で稼いだ金は家族にほぼ使い込まれていた。自由に使える金の手立てを失うのは躊躇われた。

 それに、移植をしたところで治るとは限らなかった。再度同じように枯れてしまう可能性を考えると怖かった。彼以上に、俺は自分の価値は角枝しかないと思っていたから。

 そんなものは全て言い訳である。トウィはあの日から一度も移植の話をしなかった。そのことに、内心ほっとしていた。あの頃はまだ、彼の失くした角枝が伸びるというおとぎ話のような可能性を信じていた。

 角枝を切断してから、彼の病状は日に日に悪化していった。まともに歩くことも喋ることもできなくなり、瞳の色も濁っていった。彼が恥ずかしがっていたのも束の間で、その意識さえ混濁し始め、話すことも笑うこともないまま息を引き取った。

 葬儀のあとも俺は呆然としていた。事務所からのメールや家族から金の催促が溜まっていたが返事をする気にもなれず、足は無意識にいつかのコテージに向かっていた。昔、出演した映画の監督と揉めたとき、「ボイコットしちゃおう」とトウィが俺を引っ張っていった山小屋。俺は一週間そこにいた。

 何もする気が起きなかった。空腹も感じなかったし、眠りもしなかった。ただ空の色が変わっていくのを見るともなしに見ていた。このまま自分も死ぬのじゃないかとぼんやり思った。

 一度だけ彼の名前を呼んだ。おそろしい響きだった。真夜中の静寂に反響して、反響して、耳をつんざくほどだった。だから息を殺した。張り詰めた沈黙を守っていた。それなのに、


ほとり、


と椿が落ちた。

 続けざまに、花がひらく音と落ちる音ばかりが、部屋の中に響いた。もっとも、俺がそう感じただけかもしれない。もはや時間の感覚さえわからなくなっていた。夜が明けて、透明な光が窓から差した。地面に転がる椿は瑕ひとつなく、朝日を受けて輝いていた。

 椿がひらく。落ちる。ああ、こうやって、日常は巡っていく。彼がいなくなっても、何食わぬ顔で。ひらく。落ちる。

 うるさいな。

 耐えられなくなったから、備え付けののこぎりを手に取って―。



「あの時、躊躇わずにすぐ移植手続きをしていたら、あいつは死ななかったかもしれない。肝心な時に渋って、死んでから角枝を切るなんて、馬鹿もいいところだ」

 あの後、ちょうど点検に来ていた管理人がドアの下から流れる血を発見して、俺は病院に運ばれた。傷口が膿んで高熱が一週間続いた。その時の後遺症で亀裂のような傷が額から頬にかけて走っているが、それだけである。角枝も手術すれば繋がるということだったが、断った。角枝なんかいらない。一本でも二本でもくれてやる。金も全部やるから、返してほしかった。今更後悔しても、何も元には戻らない。医者が角枝を医療提供してもいいかというのでぞんざいにサインをした。

 それから事務所との契約も、家族との縁も切ってこの街に住んでいる。



 片角になったうのは、逆光の中で微笑んでいる。

「私、あのひとに憧れているんです。あのひとみたいに綺麗に優しく、生きたいんです。だから瑠璃山さん、」

 うのは俺に手を伸ばした。俺の頭を抱えるようにして、静かに囁く。

「私たち、しっかり生きなくちゃ」

「……あいつの分まで生きろと?」

「馬鹿いうな」

 強い口調に、思わず顔を上げた。真剣な顔のうのと目が合う。

「そんなのは、誰にもできないことだ。あんたが一番よくわかってるはずだ。それにその必要はない、あいつはあいつなりにしっかり生きた」

 ぶっきらぼうで生意気な、若い時の自分のような口の利き方。

「なあ、瑠璃山さん、ううん、俺。いつまで自分にできなかったことばかりに目を向けてる気だ。なんであいつの花を見てやらない。ちゃんと綺麗に咲いてんだろ。あんたの記憶を通して見た俺が言うんだ、あんたに見えてないはずがないよな」

「花……だって……?」

「そうだよ。角枝を失くしてからだって、あいつはずっとあいつだったよ。綺麗なままだったよ。自分が悲しくても、苦しくても、誰のことも傷つけなかったし、生きることを諦めてなかった。前に進んでた。見えなくても、誰よりも綺麗な花を咲かせてたよ」

『ねえ、色も音も、匂いや感触さえ感じられなくなったら、花は存在していないことになるんだろうか』

『そんなわけねーだろ、そいつに感じ取れないだけで、ちゃんとあるんだから』

 いつか交わした言葉が蘇ってくる。

 ああ、そうか。俺に感じ取れなかっただけで。

 ずっと、そこにあったのか。

「ねえ、俺たち生きなくちゃ。あいつから貰ったものを、ちゃんと抱えて伝えていかなきゃ。汚れてしまっても、優しく生きようよ。それで、あいつに負けないくらい、綺麗な花にしようよ」

 うのは泣きながら、包帯を巻いたままの額を俺の額につけた。ざらりとした布の奥から体温が伝わる。気づけば俺も涙を流していた。シーツの上に転がった椿が、朝日を受けて光っている。

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