第67話 この人となら
「まさか、あの方に対しては、もうそんな思いはありません」
「自覚がないだけじゃないのか? 自分を犠牲にしてまで、あいつの王太子の座を守りたいというのは、尋常じゃないように思えるよ。繰り返すが、元々アーネストは王太子になるべき立場ではなかったんだ。あいつが王太子でなくなったところで、本来のあるべき立ち位置に戻ったに過ぎないんだぞ?」
「別に私は、何が何でもアーネスト殿下が王太子であるべきだと思っているわけではありません。例えばカインさまが本心から王座に就くことを望んでいて、そのために公表なさるのであれば、私は反対いたしません。それはカインさまの正当な権利ですし、私が口を出すことではありませんから。しかし私の学院生活のために公表するのというのは、やはり違うと思うのです」
己を守るために、他人を犠牲にしなければならないときは存在する。ビアトリスとて、アーネストとの婚約を解消するために、容赦なく彼を踏みつけた。良心が痛まないではなかったが、それでも当時のビアトリスにとってあれは唯一の選択肢だった。
しかし今回はそうではない。学院を辞めて領地に引きこもることはとても残念だが――それでも、耐え難いというほどではない。
「私のアーネスト殿下に対する個人的感情と、あの方に対する評価は全く別の問題です。私はアーネスト殿下が王太子として真摯に努力してこられたのを知っています。そしてその努力は、あと一年と少しの私の学院生活よりも尊重されるべきだと思うのです。別にあの方に対する個人的な好意や執着で言っているわけではありません」
ビアトリスは必死でそう主張した。しかしどこまで彼に伝わっているのか、心もとなく感じられた。
実際のところ、ビアトリスがアーネストに執着しているように見えるなら、カインが怒るのは当然である。カインを巻き込みあれほどの騒動を引き起こしておきながら、今更アーネストに心を残しているとしたら、共犯者となったカインとしてはやっていられない話だろう。
ビアトリスの言葉に、カインは何も答えなかった。
そのことがまた、ビアトリスの不安を掻き立てる。
(私に失望しているのかしら)
そう考えた瞬間、背筋に冷たいものが走り、初めてアーネストを怒らせた時の恐怖がまざまざとよみがえった。
――君は自分が偉いと思っているのか?
地を這うような低い声。
優しかったアーネストの豹変。
二人の穏やかな関係は、あの日を境に崩壊した。
カインとも、こうして終わってしまうのだろうか。
こんな形で、彼を失ってしまうのだろうか。
今改めて考えてみても、この件を公表するのは正しいこととは思えない。
しかしカインを失うかもしれないと思うと、胸を締め付けられるような痛みを覚える。一人あずまやで泣いていた自分を引き上げてくれた特別な人を、こんな形で――
「……すまない。馬鹿なことを言った」
視線を上げると、カインは苦笑を浮かべていた。
その柔らかな表情に、一気に身体が弛緩する。そこにいるのはいつものカイン、初めて会った時から変わらないカイン・メリウェザーだった。
「君が正しいよ、ビアトリス。俺はアーネストの努力とやらは良く知らないが、学院で再会したとき昔と比べて成長しているのは感じたし、その陰にはあいつなりの努力があったんだろう。それを簡単に踏みにじるのは確かに褒められた話ではない。それにアーネストはアメリアの件について、君に警告までしてくれたことだしな。……俺はアーネストに嫉妬して、冷静な判断ができなくなっていたようだ」
「嫉妬、ですか」
「ああ。好きな女性が他の男のことばかり気にしていたら、嫉妬するのは当然だろう?」
好きな女性。
カインはさらりとそう口にした。
「……情けないな。本当はもっと格好良く告白するつもりだったんだが、結局こんな形になってしまった」
「そんな、私の方こそ今までみっともないところを散々お見せしてきましたから。カインさまにもそういうところも見せていただいた方が安心します」
「そうか」
「はい」
「ビアトリス、君が好きだ。ずっと前から」
「私もお慕いしています、カインさま」
言葉は、ごく自然に、当り前のように零れ落ちた。
それと同時に、温かいものが胸の奥からこみ上げてくる。
アーネストと別れて以来、誰かとそういう関係になることを、心のどこかで恐れていた。
しかし今のビアトリスは、微塵も不安を感じなかった。
この人となら大丈夫、行き違っても、ちゃんとこうして修復できる――ビアトリスはそう確信して、温かな幸福感に包まれていた。
それから二人はあれこれと今後のことを話し合った。二人の意思を双方の家にどんな風に伝えるかといった直近のことから、結婚後の遠い将来のことまで、あれこれと。二人で計画を練ることは、何とも言えないわくわくするような喜びがあった。
そして帰り際になって、カインは言った。
「ビアトリス、あの件は世間に公表しないことを約束する。しかしアメリアを潰す意思は変わらない。あの女がしてきたことについて、必ず相応の報いを受けさせてやる。だからそれまで、正式な退学はしないで待っていてほしい」
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