第65話 父の提案

 瞼を開くと見慣れた天蓋が目に映った。

 いつものベッドにいつもの寝室。

 外からは小鳥の鳴きかわす声がする。


(今、何時かしら……)


 おそらくまだ夜が明けたばかりだろう。

 起き上がろうとしてベッドに手をついた瞬間、手のひらにずきりと痛みを覚えた。

 この痛みは何だろう。

 確か昨日は舞踏会に行って、カインと踊って、それから――


「お嬢さま! 気が付かれたのですか?」


 侍女のアガサの声に、ビアトリスは王宮であったもろもろの出来事を思い出した。

 あの後。朦朧とした意識の中、手のひらに応急処置を施され、カインに送られて家に帰ったことをぼんやりと覚えている。そして従僕の手で自室のベッドに運ばれて、そのまま眠ってしまったのだろう。


「大丈夫ですか? ご気分は?」

「大丈夫よ、ただ少し頭が重いみたい」

「すぐにお医者さまを呼んでまいります!」


 ほどなくして、ウォルトン家お抱えの医師が姿を現した。ビアトリスも幼いころから診てもらっている老医師だ。

 医師はあれこれ質問したのち、使われた薬の候補をいくつか挙げて、「いずれにしても、すぐに頭痛は治まるでしょう。後遺症などもありませんよ」と請け合った。

 ちなみに手のひらの傷も大したものではなく、この分なら跡も残らないだろうとのこと。

 その後医師と入れ替わるようにして、父が部屋を訪れた。


「その……大丈夫か、ビアトリス」


 父は痛ましげな顔で問いかけた。


「大丈夫ですわ、お父さま」

「……何があったのか訊いてもいいか? 大体のところは察しているが、お前の口から訊いておきたいんだ。辛いようならまたにするが」

「いいえ、今お話ししますわ、お父さま」


 ビアトリスはナイジェル・ラングレーから声をかけられて以降のことを、かいつまんで説明した。父は静かに耳を傾けたのち、「酷いことだが、未遂で済んで本当に良かった」と息を吐いた。


「あいにくあの卑劣な男には逃げられたそうだ。今から何か言っても鉄壁のアリバイを用意しているだろうと、メリウェザー君が言っていた」

「そうですか……」


 おそらくカインはビアトリスを助ける方を優先して、彼を取り逃がしてしまったのだろう。


「腹立たしいことだが、未遂で済んだ以上は下手に騒ぎ立てない方がいいだろうな。お前の評判に傷がつくし、それに――」

「はい。王宮の者が絡んでいる以上、申し立てても認められることはないと思います」

「そうだな……。それにしても、まさか王妃がここまでやるとは思わなかった。すまないビアトリス。ラングレーを引き入れてしまったのは私の落ち度だ」

「いえ、私の油断が招いたことですから」

「そうだな、お前にも落ち度はある。むろんお前をエスコートしていたメリウェザー君にもな。我々は皆油断していた。未遂で済んだことは本当に幸運だったと思わねばならない」

「はい」

「だからビアトリス、お前は学院を辞めて、結婚まで公爵領で暮らしなさい」

「はい?」

「王都にいる限り、どこに王妃の手の者がいるか分からない。王宮には近づかなくても、どこか別の場所で同じ目に遭う可能性がある。公爵領に行けばさすがにそんなことはないはずだ。王妃の方も、目障りなお前が王都から消えれば、そのうち関心を失うかもしれない」

「お父さま、私はちゃんと卒業まで学院に通いたいんです」

「聞き分けなさい、ビアトリス。お前の気持ちはわかるが、何かあってからでは取り返しがつかない」


 父は淡々とした口調で言った。


「……まあ、急に言われても納得できないのは無理もない。しかしはっきり言っておくが、私にはそれが最良の選択だと思う」


 父が部屋を去ったのち、ビアトリスはただ茫然とベッドの上に座り込んでいた。




 午後になって、カインが見舞いに訪れた。

 カインはビアトリスを危険な目に遭わせたことについて土下座せんばかりに謝罪してから、昨日の顛末をカインの側から語って聞かせた。


 ダンスを終えて戻ってきたところ、ビアトリスの姿がどこにも見当たらなかったこと。居合わせた知り合いに、ぐったりした様子のビアトリスがナイジェル・ラングレーに伴われて広間を出て行ったと教えられたこと。知り合いによれば、ナイジェルは「連れは気分が優れないようなので、救護室で休ませる」と周囲に語っていたこと。救護室にビアトリスの姿は見当たらなかったこと。クリフォード時代の知識をもとに、広間の近くで「そういうこと」に使われる可能性のある部屋を片っ端から当たったこと。そしてついにビアトリスを見つけ出したこと。


 カインは沈んだ表情のビアトリスに、「すまない。やっぱりショックだよな」と頭を下げた。


「いえ、そういうわけではないのです。もちろん恐ろしかったのは事実ですけど、結局何もなかったわけですし。ただ……」

「ただ?」

「父に学院を辞めるように言われました」

「なんだって?」

「王都にいてはまた同じ目に遭うから、王妃さまの手の届かないところに行った方がいいと。父の言うことは分かるのですが、私は最後まで皆と一緒に通いたかったので、それが少しショックなんです」


 ――マーガレットさま、シャーロットさま。一緒にお昼をいただいてよろしいかしら。


 昼休みに勇気を出してマーガレットたちに声をかけ、そこから始まったビアトリスの学院生活。あれからの日々はビアトリスにとって、かけがえのないものだった。

 むろん卒業後も友人付き合いは続けたいと思っているが、それでも一緒に通って笑いあった日々は、きっと生涯の宝物になるだろうと信じていた。それがまさか、こんな形で断ち切られてしまうとは――


 カインはしばらくの間無言のまま、うつむくビアトリスを見つめていたが、やがて意を決したように口を開いた。


「ビアトリス」

「はい」

「大丈夫だ、君は退学する必要なんかない」


 そして怪訝な表情を浮かべるビアトリスに、優しく微笑みかけた。


「アメリアをつぶそう」

「つぶす?」

「ああ。破滅させて、力を封じて、もう二度と君に手出しをできないようにする」

「……そんなことができるのですか」

「できる。こちらにはあの女の知らない切り札がある。――メアリー・ブラウンのことを、後で話すと言っていただろう」

「はい」


 唐突に出てきた名前にとまどいながら、ビアトリスはとりあえず頷いた。


「彼女の本名はグレイス・ガーランド。ガーランド伯爵家の末娘で、ピアノが得意な腕を買われて、同じくピアノ好きな母の侍女をやっていた。グレイスは十七年前、アメリアに命じられて国王陛下に偽の証言をしたことを、心から悔いているそうだ」

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