アルタイカの咆哮

大月行蔵

プロローグ


悪魔の姿を見たことがあるかね。

あるいは神の姿を――。

このウスリーの森では両者はあまりに似すぎていて、どうにも区別がつかぬ。


我々はその存在を「アンバ」と呼んでおる。

アンバの名を聞いたことがないかね。都会の言葉で「守護者」と言えばわかるか。

アンバの本当の姿が悪魔なのか、神なのかは、それは誰にもわからぬ。どちらにせよ、我らウデヘ族はアンバの怒りに触れ、この森で生き抜く術を失ってしまった。

もはや猟に出ても恵みは得られない。

クロテンもアカジカも、めっきりその姿を消してしまった。

我々は先祖代々守られてきた誓いを破り、先祖代々守られてきた棲み処をも失おうとしている。

そして長きに渡って受け継がれてきたウデヘ族の歴史が――。


そこまで話すと老人は、火がついたように咳き込みだした。

男たちは老人の背を擦るでもなく、案ずるでもなく、ただ黙って見守っていた。

苦しげに目を瞑った老人の細い目は、顔中に刻まれた深い皺と同化して、もはや見分けがつかなくなっていた。

ほどなくして咳が治まると、にわかに老人は下腹に力を込め、クロテンの断末魔のような叫び声と共に、足元のカーペットに赤茶色の痰を吐き出した。


老人の小屋は薄暗く肌寒かった。

表に出れば長い冬を耐え抜いたタイガの森と獣たちが、思い思いに生命の躍動を謳歌していることだろう。しかし老人の小屋の中にはまだ、死せる冬の気配が濃密に漂っていた。

老人はさらに二度三度苦しげに喉を鳴らすと、再びロシア語まじりのウデヘ語で話し始めた。


聞け、ロシアの兄弟たちよ。森の奥深くに行ってはならぬ。

守護者の姿を見た者には、必ず厄災がふりかかるからだ。

よいか、決してアンバの姿を見てはならぬのだ。


そこで老人は口を閉ざし、目を瞑った。

そのままじっと動かなくなり、やがて微かな寝息をたて始めた。


男たちは顔を見合わせ、詰め物だらけのソファから立ち上がった。

彼らの誰一人としてウデヘ語を理解する者はいなかったが、この老人が何を言わんとしているかは充分に理解出来た。

しかし男たちは迷信などハナから信じていなかった。

彼らは底冷えのする老人の小屋を後にして、

呪われしタイガの森奥深くへと消えていった。

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