第188話


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「行っちゃった……」


 黄泉千佳ヨミチカは寝殿の中に下がり、窓から空を眺めた。

 空の色は、徐々に青さを増している。

 今の時刻は不明だが、太陽らしき小さな物がぼんやりと霞んで見える。


 箱舟の輝きは消えつつある。

 浮いていた船体も、ゆっくり前進した後に、湧き出る泉の傍に着地した。


 御魂たちの半分は月に去り、半分はこの地に還った。

 やがては、新たな体を得て産まれて来るだろう。



「巫女さま。船の輝きが失せ、民が不安を感じているようでございます」

 小君が取り急いで知らせに来た。

 それを聞いた有明の尼君は、恭しく提言する。

「再び、姿を御見せした方が宜しいかと存じ上げます。あの……私どもが、御言葉を考えますので」


「……うん……」

 大きく吐息をし、畳に寝かせていた縫いぐるみをひつに戻す。

 物語を記した巻物や、水路の図面や建物の設計図などが収められている。

 

 傍らには、現世から持ち込んだサトウキビの苗を植えた細長い大型の鉢もある。

 けれど――30センチほどの苗木の上半分はしおれかけていた。


「ねえ。黄泉千佳ヨミチカちゃんのこと、これから白織しらほりさまって呼んでいい?」

 神名月かみなづきは、そそっと近付いて来てささやいた。

「『白い織り姫』って字を当てるんだけど。白いうちきを着てるし、高貴な感じがするでしょ?」


「……あんた、ユーカイした久住千佳のことを、そう呼んでたでしょ」

「……何で知ってんの?」

「あんたの頭の中なんてお見通しよ! それよりサトウキビが……」


 黄泉千佳ヨミチカは泣きそうになった。

 栽培し、実を収穫して甘い菓子を焼くと和樹に告げたのだが――


「どうしよう……」

 狼狽して、周りを見回す。

 鉢に入れた土も湿っており、水やり不足では無い筈だが……



「……それって、こっちの世界だと早く枯れるんじゃない?」

 如月きさらぎが苗木を指差し、太郎丸を抱き上げた水葉月みずはづきも頷いた。

「そう言えば、神名月かみなづきが現世から持って来た大きい白い桃も、ひと晩でしなびたよね」


「ええっ!?」

 黄泉千佳ヨミチカは彼らに詰め寄った。

「そんな大事なこと、早く言いなさい! ああ、どうしたら……」


「あの……白織しらほりさま」

 雨月うげつが口を挟んだ。

「上手く行くか断言は出来ませんが……」


「何か方法があるの!?」


「はい。しなびた桃ですが、私は種を取り出して植えてみました。すると、翌日には発芽しましたが、間もなく枯れました。この世界での生育は難しいかも知れませんが、もしかしたら……」



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「分かった、やってみましょう!」


 雨月うげつの提案を受け入れ、黄泉千佳はガッツポーズを取る。

 神名月かみなづきの指示の下、家来たちは甲板の跳ね板を下ろした。

 すぐ下に、船底に通じる緩やかな階段がある。

 

 全員が、船を出入りする方法を理解していた。

 箱舟の主だった『蓬莱の尼君』の啓示だろう。


 階段の下、左舷側天井に車輪があり、それに丈夫そうな綱が繋がっている。

 中央の柱にも車輪が付いており、それを数人で回せば、左弦側の出入口の戸板が上がる。

 床に敷かれた二枚の舷門(タラップ)を押し出し、接地させれば外に降りられる仕組みだった。

 

「よし、ゆっくり車輪を回してくれるか?」

「はい!」


 家来たちは、車輪の横軸に手を掛けた。

 気合いを入れ、ゆっくりと左回りに進み、網を巻き上げて行く。

 


 

 その間――

 女たちは寝殿の中で、長袴をたくし上げて着丈を詰めていた。

 袴の左右の切れ目に手を入れ、生地を引っ張って結び、足首丈にまで詰める。

 うちきも、引き摺らないようにたくし上げる。

 

「大丈夫でしょうか。舷門には滑り止めの横板が打ち付けてありますが、けっこう傾いています」

 舷門の造りを、小君が女たちに説明する。

 貴族や女房達は、斜面を歩くのには慣れていないからだ。


「あたしは平気! 尼君さんたちは……歩き慣れてないから、上に居て!」

 

 黄泉千佳ヨミチカは、慣れぬ沓で歩く練習をしつつ、他人を気遣う。

 その様に、尼君たちは袖で目を拭う。

 在りし日の、玉花の姫君や王后さまを思わせる心遣いだった。

 やはり、姫君が選ばれた御人おひとに間違いは無い――

 尼君たちは、新たな主人に忠義を誓い合う。

 


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 箱舟を前にした人々は、身分に関わらず膝を付いて待つ。

 船の横の戸板が内側に開き、出入りのための舷門が少しずつ降りて来る。


 巫女さまや四将さまが、近くに降りていらっしゃるのか――。

 固唾を呑み、期待に胸が高鳴らせる。

 犬や、牛車を牽いていたいた牛たちも一声も発しない。

 

 奇妙な緊張感が漂う中――

 ついに四将たちが姿を見せた。

 四人は揃った歩調で、舷門の半ばまで降りて来て並び立つ。

 どよめきが上がり、人々は前のめりになる。

 

 より近くで見る四将は、若く美しく、気品に満ちている。

 やはり、月帝さまの護衛に選ばれるに相応しい若者だと、無言の賛辞を送る。



 雨月うげつは――そうした人々を眺め、ふた呼吸を置いてから口を開いた。


「花の国の民よ。私は『近衛府の大将』の雨月うげつと申す。先ほどまで、神聖なる神巫人ミコビトさまの憑依よりましを務めた者だ。だが、使命を果たされた神巫人ミコビトさまは今上の世を離れ、天の御国へと帰られた。人の姿に戻った我ら四将には、神聖なる力は無い。なれど、この国の復興のために力を尽くすことを誓おう」


 刀を掲げ、威風堂々と声を張り上げる。

 間を置かず、澄んだ声が響く。

 



「……この地の民よ、これから新しい世が始まるのです」


 言葉が終わると同時に、四将たちは左右に散った。

 奥から、白き衣の巫女が現れたゆえである。

 巫女は、ゆるりと舷門を下り、半ばあたりで停まった。

 

 その御顔立ちは実に愛らしい。

 薄く塗った白粉おしろいに、紅梅色の紅は鮮やかに引かれ、額と頬に掛かる黒髪がはらりと揺れる。


 少し離れて立つ四人の尼君も若く、巫女の白と尼君たちの墨染めの対比は美しい。

 人々は、異世の巫女と現世の尼たちの姿を、感慨を持って眺める。

 王家の姫君が白き装束を纏い、古き邪神を封じる儀式を行っていたことは知っている。

 ゆえに、人々は白き装束の巫女を、すんなりと受け入れた。

 


 そして次の御言葉を待っていると――

 後ろから、苗木を持ったわらはが現れた。

 小さな壺に植えた苗木は、半ば枯れて首を垂れている。


 何事が起きるのか――人々の凝視の中、巫女は口を開いた。

 

「この御船の傍らに、泉が湧きました。これこそ、この地に還られた王君さま、王后さま、姫さまの御魂の思し召しです。水を分け合い、身を寄せ合って生きよと仰せられているのです。前に座す幼き娘よ。両手で水をすくい、こちらにお出でなさい」


「は……はい!」


 生成りの小袖姿の少女は立ち上がり、言われるがままに、両手で水をすくう。

 小君は舷門を降り、少女の前に立って促した。


「さあ、その水をこの壺に注いで」

「はい……!」


 少女は、素直に従う。

 両手の中の水が少しずつ、壺の土に吸い込まれる。


 すると――


「おおっ!」

 人々の驚愕の声が波のように広がり、大きくうねった。

 水を得た苗木は、垂れていた首をスッと天に伸ばした。

 黄色かった茎も鮮やかな緑に変わり、葉も力強く左右に伸びた。


 人々の不安は、一気に霧散した。

 若き巫女は紛れも無く、祝福された御使いだと信じた。



「鳥だよ!」

 幼い少年が、天を差した。

 十数羽の鳥の群れが頭上を旋回し、御神木があった場所を目指して去った。


「巫女さま!」

「『大いなる慈悲深き御方』の思し召しだ!」

「きっと、新たな御神木が育つよ!」


 歓喜の声が上がり、人々は手を振る。

 その中、神名月かみなづきも口を開いた。


「これよりこの船をおやしろとし、巫女さまの住まいとする。巫女さまの御名は『白織しらほり』さまである。老人や病人は、当面は船底で暮らして貰う。まずは、全員の住まいと食料を確保する」


 人々は指示に従い、老人たちを前に誘導する。

 家来たちも船から降り、柄杓や椀を人々に与える。

 それらを見守る巫女は、人知れずに胸を撫で下ろしていた。


 雨月うげつの機転だが、これでこの地で生きていけると確信した。


(天音ちゃん、方丈先輩、黄泉姫さま……見守っててね)


 蓬莱綾音本人には掛けられなかった言葉を、感謝と共に贈る。

 彼女たちと過ごした短い日々は、宝物になった。

 自分が『巫女さま』と呼ばれるとは今でも信じられないが……



(……ナシロっちにも『白織しらほりちゃん』て呼んで欲しかったな……)



 懐かしい声を思い出し、微笑んだ。

 頬がポッと熱くなったが、すぐに人々に目を向ける。

 人々に語った言葉は、尼君に教わったものでは無く、自然に湧き出たものだ。


(……天音ちゃんの想いを、みんなに伝えるよ)

 

 巫女は、輝くような笑顔を浮かべる。

 

 貴族の女性も袿をたくし上げ、人々を自邸の蔵に案内しようとしている。

 男たちは、半壊した家から食器や道具を探そうと相談している。

 四将たちも、彼方の稜線を見上げた。


「我らは、山を捜索しよう。山芋や木の実が採れるかも知れない」

「ああ、獣も生き残っているかもな」

「でも、食うなよ。まずは、仔を増やして貰わないとな!」

 

 緑は少ないが、山の形は崩れていない。

 鳥と同様に、四つ足の獣たちも生き残っているに違いない――。

 

 そして、山の向こうには、『月窟つきのいわ』に通じた道がある。

 千六百人の子孫と、家畜たちが移住するための道だ。


 希望を携え、彼らは月を目指すだろう。

 朱鷺色の陽の向こうにある大地を――。

 

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