第186話
「愛する民よ、別れの時が参りました」
姫君は愛おしそうに人々を見つめ――微笑む。
「我が父、我が母、我が魂……。我らは、この国の大地となり、尽きぬ豊穣をもたらしましょう。風となり、種子を国の最果てまで運びましょう。水となり、草や鳥の渇きを癒しましょう。炎となり、冷えた手を温めましょう。ですから、民よ……分かち合い、強く生きてください。古き神、慈悲深き母、数多の祈りと願いが、二つの国に実りを与えんことを……」
姫君は合掌し、瞼を深く閉じた。
箱舟は輝きを増し、御霊たちの一部がゆっくりと空に昇り、八方に散っていく。
「この国に生まれ、死していた者たちである! 新たな世のために、新たな身を得るために発ったのだ! ある
大巫女が両手を掲げた。
姫君の魂が去り、新たな世の始まりを人々は悟った。
困難な世となろう。
それでも、希望はある。
土地とひとつになった王家の方々の加護がある。
人々は膝を付いて祈り、新たな世のために生きる決意を捧げる。
舞い飛ぶ無数の御魂の輝きで、箱船の甲板に発つ者たちの姿も見えなくなった。
「さて……我も、この地に還る。後は……」
皆を寝殿に導いた大巫女は、口を開いた。
「月の王帝よ。
それを聞いた小君は、弦月の着物の袖を強く握った。
親子同様に過ごした日々を思い出し――顔をくしゃくしゃにして縋り吐く。
「……小君、ありがとう。君と過ごせて本当に良かった」
膝を付いて小君を抱き、永遠の別れを惜しむ。
実の息子と過ごせなかった時間――
この子は、それを充分に埋めてくれた。
身代わりのように思っていたが、その気持ちも直ぐに消えた。
彼は身代わりでは無く、別個の人格だと悟った。
笛を教わり、簡単な学問を教え、子弟とも親子とも付かぬ時を過ごした。
それは、互いの『宝』となっている。
「君が成長した姿が目に浮かぶよ。私が教えた算術を次の世代の子どもたちに伝え、国造りに役立ててくれるね?」
「はい!」
小君は元気よく返答し、父と慕う人の袖を名残惜しんで離し……足元で跳ねていた太郎丸を抱いた。
弦月は頷き、こちらを見ている偽り四人に近づいた。
「君たちも、私の息子だったな。君たちのことは忘れない。君たちは、とても勇敢だった。船を護ろうと努めてくれたこと……心から感謝している」
「弦月さま……」
雨月の偽りを最初に、代わる代わる抱き合い、別れを惜しむ。
彼らには、父も母も無い。
けれど、『息子』と呼んでくれる人が現れ、短くも満ち足りた時を過ごせた。
弦月は、優しい声で彼らを励ます。
「君たちは、新しい世の英雄なんだ。辛いこともあろうが、絶対に遣り抜ける。人の心が分かる君たちなら、素晴らしい世を作れる」
「我らも、お手伝いいたします!」
家来たち六人が座し、こちらを見上げている。
「これまでのように、四将さまにお仕えいたします!」
「何でもお命じになってください!」
「……俺たち、
が、月帝さまが進み出て、笑って仰られる。
「君たちの懸命な姿を見て、彼ら自身が決めたことだ。君たちは、本物に負けないぐらいに果敢に闘った。私の妹が愛し、姪が生まれ育った国だ。君たちになら、この国を任せられる」
「つきみかどさまぁ……」
四人は泣きながら膝を付き、宣言する。
「がんばります! 美味しい米を作って、野菜を作ります!」
「水路も作らなきゃな! ここに連れて来た男の人が詳しかったし。図面も残ってる筈だ」
「ユーカイしてきただけじゃん」
手には、現世から持ち込んだ白ウサギの縫いぐるみを持っている。
黄泉姫の願いで記された物語の写本や絵巻。
村崎夫妻が記した現世のトイレの図解や料理の記録。
櫃に収められたそれらは、この寝殿に置いて守りきった。
そして、サトウキビの苗も。
「サトウキビを栽培して、甘いお菓子を焼くよ!」
「ナシロっち……あたし、黄泉姫さんから聞いたんだ。闘いが終わったら、あたしは現世で生きられないって。黄泉の川は閉じられて、現世には流れなくなる。そうなったら、あたしの身体は持ち堪えられないって」
「
「デートしてくれた時に言ったでしょ。着物の裾を引きずって、お姫様みたいに歩きたいって。ほら、今はこんな綺麗な着物を着て、袴を引きずって歩いてる。似合ってるかな?」
「うん、とても似合ってる」
「やっぱりね。この
甲が、わずかに濡れたのが見える。
「あたし、バカだけど……みんなのために頑張るよ。巫女だって紹介されちゃったから、後には引けないし!」
「うん。みんなが、ほーっと見とれていた」
和樹は頭を下げ、想いの丈を語る。
「……ごめんな。初めて君を見た時には、ひどい態度を取ってしまった」
「安心しろ!
縫いぐるみを掲げ、その顔を和樹に押し付け、満塁の笑顔を見せる。
しかし……すぐに、笑顔は別れの悲哀に消えて行く。
それでも、必死に泣くのを堪えて、縫いぐるみを抱き締めた。
「……これ、大事にするよ。現世で楽しかったこと、忘れない。先輩の家で浴衣を着て、花火をして、お風呂に入って、フリフリドレスも着て……。学校の勉強は大嫌いだったけど、お父さんもお母さんも優しかったし、ミゾレも可愛かった。素敵な思い出をたくさん作った。だから……大丈夫だよ」
「……ごめんな……」
和樹は――繰り返した。
そう答えるのが精いっぱいだった。
抱いてあげたいが、それは
今も、妹のようにしか思えない。
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