第33話
一度深呼吸して、こっそり手の甲をつねってみる。痛い。
――――イルヴィスが、私を好き?
いやいや。そんなの、だって。そんなはずがないし、ありえるはずもない。
だいたい私とイルヴィスはあの夜が初対面なはずで、あんなに酔っぱらっていたのだ。
いいところなんて、一つも見せられていないのに。
「そんな冗談、面白くないですよ」
「私はこんな冗談を言いません」
「それに、好きな人がいると」
「私はなんとも思っていない女性の話をご丁寧に聞きません。わざわざ手を貸したりしませんし、ここまで付き合いませんよ。ましてや、好きでもないのに婚約話を持ち出すわけないじゃないですか」
その通りすぎて、何も言えなかった。
私はイルヴィスを神様みたいと言ったことがあるが、確かにどんな聖人君子でも人助けのために婚姻までしない、はずだ。
それに、イルヴィスは"女嫌い"と言われていたのだ。まったくそんな素振りがなかったし、私もそれどころじゃなかったから今まで忘れていたが。
「でも、イルヴィス様には想い人がいらっしゃるはずでは」
「……あの話ですか」
「えっと……?」
「アマリアはあの夜、私がなんと言ったか覚えていますか?」
まだ完全に酔う前だから、よく覚えている。
『私が愛した女性には婚約者がいたんです。彼女が幸せならばと、私は見守ることにしたんです』
その口ぶりからして、だいぶ前からその女性を想っていたと分かった。
『でも、彼女は今苦しんでいます』
婚約者がいる。今は苦しんでいる。
その時、イルヴィスは私の方をじっと見ていた気が、する。
『だからもう身を引くのをやめて、彼女を迎えに行きます』
その言葉に、私は顔も知らぬ女を妬んだ。救いの手が差し伸べられることに対してか、はたまた別な何かに対してかは分からないが。
ふと、ここ数日のイルヴィスの行動を思い返す。
ずっと私のためにいろいろしてくれていたが、果たして他のことをする余裕があっただろうか。
仮に時間があったとしても、私を公爵家に滞在させるだろうか。婚約なんてもってのほかだ。
「おや、覚えていたんですね。てっきり全部忘れていたのかと」
「忘れるわけ、ないじゃないですか」
大混乱している私に、イルヴィスは満足そうに笑った。
「少しは意識してくれました?」
心臓の音が聞こえる。
自意識過剰だろうか。イルヴィスの想い人の話が私と重なる。
「当初はもっと時間をかけて、少しずつ距離を縮める予定だったんですけどね」
浮かれていたせいで台無しですと、イルヴィスはいつもの調子で話している。朝食を勧められたが、とても味わえる状況じゃない。
もう何がなんだか分からなくなっている私に、イルヴィスは目を細めて意地の悪い笑顔を浮かべた。初めて見る顔だ。
「そんなに慌てなくて結構ですよ。時間制限は無くなりましたから、ゆっくり、落とします」
「へ、」
「それにアマリアは既に私のですので、変な虫が付く心配もないです」
まあ、付かせるつもりもないですけど。
昨日なら社交辞令と流せた話も、今日は酷く動揺する。顔が熱くて、今にも叫び出したい。
「幸い、待つのには慣れていますから」
「ええと」
戸惑いを見せた私にイルヴィスは苦笑いをした。
その顔に罪悪感を覚えるが、本当に心当たりがないのだ。
「酷い人ですね。いたいけな少年の心を奪っておきながら、何一つ覚えていないなんて」
「少年!?」
さっきまでの悪い顔が一瞬で消え、眉が垂れ下がった。どこか責める声色もあり、まるで捨てられた子犬のような顔に、こちらが悪いことをした気分になる。
いや、一方的に忘れてしまったから私が悪いのでは……?
必死に少年という言葉をヒントに記憶を掘り返すが、やっぱり心当たりがない。
「そんなに綺麗に忘れられていると、私から教えてしまうのはなんだか悔しいですね……」
「ごめんなさい……」
イルヴィスは少し考え込むと、すぐに笑顔を浮かべた。
「せっかくここに滞在していることですし、毎日少しずつお話しましょうか。仲良くなるきっかけにもなりますしね」
「でも、イルヴィス様の負担になりませんか?」
「まさか。アマリアと過ごす時間に癒されることはあれど、疲れを感じることはありえません」
迷うことなく言いきったイルヴィスに、変な声が漏れそうになった。
恐らく真っ赤になってしまった私を楽しげに見つめる視線を感じるが、目を合わせないように気合いを入れた。
そんな感じで。イルヴィスとお話する時間が私のスケジュールに組み込まれたのだった。
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