第103話「禅」
『禅』というものは割と有名になっている。
しかし、それがどういうものなのか正確に知る人は少ないだろう。
簡単に言えば精神修養なのだけれど、精神をどうすれば良いかのノウハウの一つと言える。
「座禅なんて何処に行けば位教えてくれるんだろ」
「それは私に
私とジブリールは
ここは誰でも座禅に参加出来る所らしい。
住職さんは
通路の両側に膝の高さほどある壇に畳敷きのスペースがあり、座布団が置かれている。
「ここに座るんだぁ」
「これをどうぞ」
住職さんは平たいボールのような物を手渡してくれる。
これの片隅にお尻を引っ掛けるように座る座布という物らしい。
本来は『結跏趺坐』という両足の裏を膝の上に置く座り方が望ましいそうだ。
無理なら、片方の足の裏が上になる『半跏趺坐』でも良いらしい。
あー、私にはそんな複雑な座り方は無理だわぁ。
私は普通に足を組んで座ってみた。
いわゆる『
私には、これでも精一杯なんだよ。
でもお尻が高くなると、膝が座布団に付きやすくなるね。
「座禅をする時は、壁の方を向いて座るんです」
「あ、はい、そうなんですか」
住職さんの指摘で体を回転させる。
壁の方を向くと、割と距離が無い。
けど、そうやって座ってると修行してるって風になるね。
「座禅というものは、考えや思いで一杯になっている心を一旦リセットするためのものなんですよ」
住職さんは説明してくれる。
リセットするために、浮かんで来る考えや思いを無視して、ただ座っていれば良いそうだ。
座禅の時間は線香一本が燃え尽きるまで、おおよそ一時間位。
「それだけで良いんですか?」
「そうですよ」
……座禅ってそんなに簡単な事だったんだ。
取り敢えず座禅に入ってみる。
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座禅ってそんなに簡単な事だったんだ。
そう思っていた時がありました。
気が付くと色々考えてるんだよね。
気が付く度にボーとするとうに頑張った。
でも直(すぐ)に何かを想っている自分がいる。
どうやって無視すりゃ良いんだよ。
あ、また考えてる自分がいる。
そうこうしている内に終了の鈴が鳴る。
座禅が終わったら、お寺の御本尊の前でお経をあげる。
その後、茶話で色々話をして今日の修行は終わる事になる。
私は住職さんからアドバイスをもらう事にした。
「座禅の間は、思考に遊んではなりません。
浮かぶ考えや思いは脳内の生理現象ですから、囚われるのを止める事です。
本当に思考をしない人は、死んでいる人だけでしょう」
「はぁ、そうなんですか。
なぜ皆さん座禅をするんでしょうね」
「皆さんの動機はそれぞれでしょう。
しかし修行の末、
やがてはやって来るものに我を捧げる『捨身飼虎』。
全てを手放した時、全てが手に入ると言う。
何を言われているのかサッパリ判らない。
けど、座禅は仏教の開祖ゴータマ・シッダルタさんの修行法の血脈を継いでいるそうだ。
座禅をする者は皆ゴータマ・シッダルタさんの修行の追体験をするのと同じ事なのだとか。
「これが精神修養なんですか」
「その通りです」
自らを手放した者に『我』は無し。
『悟』った後に『悟』無し。
『私』と思っているものは自らの内の何処にも無い事が知れるそうだ。
「うーん、自分というものは無いんですか」
「そのための座禅という修行なのですよ」
『私』とか『アイデンティティ』も思考に過ぎないらしい。
その『思考』を手放した後に残るものがある。
それが仏教の真髄なのだとか。
「うーん、訳判らん」
ゴータマ・シッダルタさんは何も考えないで知る事が出来たって事かな。
むしろ考えに考え、命題の追及の末に答えが出たと考える方が理に適っていると思うけど。
何も考えずに座った末に行く所まで行き着いたのか、突き抜けたのか、結果的に同じなのかな。
そのために三十七の瞑想法を編み出したそうだけど。
ここの流派は、座って座って、ただひたすら座る事を旨としていると聞いた。
これを『
「そんなに長く座禅をしなくちゃいけないんですかぁ」
「ヒルトさん、これは引き算の瞑想とも言えるんじゃないでしょうか」
仙人の瞑想法は、足し算の瞑想法に含まれると言って良いと言う。
禅から言わせると、『正師は奪い、邪師は与える』らしい。
座禅という修行にはゴールは存在しないらしい。
ゴールが無くても、結果を求めず続けるのが『道』という概念なのだとか。
改めて見直せば、『仏道修行』『仙道』『神道』とどちらにも『道』が付いている。
「引き算と足し算の瞑想法ねぇ」
「どちらでも、ご自分に合うと思えば、その方法を取れば良いんですよ」
『瞑想』という精神修養は極めれば、神に至れるものでもあるという。
仙道に於いては、不死の肉体を創造し、時空をも超越出来てしまう。
「最初から神族の私には、尚解らんというか」
でも
何も考えないのは何か不安になる。
でも物事は成るようにしか為らない。
何かが起こるかもと心配するより、何かが起こってから対処すれば良いだけだ。
「それにしても、思いや考えは脳の生理現象ですか。
修行とはいえ、ただ座っているなんて木か石になれって言われてるような」
「そうですね、木石になりなさい。
木や石は貴女が考える以上に何でも知ってますよ」
「はぁ、そうなんですか」
私には正直、木や石が何を考え、何を知ってるかなんて考えた事も無かった。
住職さんの言うには、花に「あなたは何者ですか?」と聞けば答えると言う。
「そんなの知るか」と。
自分が何者なのか、それを考えるのは無駄な努力のようだ。
考えなくても、人は最初から『自分』なのであって、自分の外に自分は無い。
自分は『何者』なのかではなく、『何者』になるという事。
誰かが言う何者かというのは、他人の評価と言うしかない。
誰が何を言おうが言うまいが、『自分はただ此処に在る』。
それが真理以外の何だと言うのだろう。
それが追確認出来れば、それで全て。
アイデンティティ云々は、煩いだけの雑念に過ぎない。
「はぁ、それは『我思う、故に我在り』ですか」
「では思わない我は、何処に在るのでしょうね」
「哲学ですか? 難しいですね」
「難しいですか? 思っても思わなくても、貴女は今此処に居るではありませんか?」
「あ! その通りだと思います」
「難しく考えなくても良いのですよ」
人は考え次第で他者を如何様にも都合良く見て判断しようとする。
でも、それは果たして真実だろうか。
私は『真実』がどんなものなのか解らなくなって来た。
全ての思い込みを手放した時に、それを見る事が出来るらしい。
「何だか難しいけど、面白そうなお話しですね」
「だから言うのです。
知りたければ、全てを放り出し、黙って先ず座れと」
「それが座禅なんですか?」
「何度でも言います。
黙って手放して、座って座って座り倒しなさい」
「はぁ、これが噂の禅問答ってのかな」
「違いますよ。
禅問答と言うのは、師が弟子に回答不可能な問題を出すんですよ」
弟子は回答不可能な問題の答えを出そうと、もがき苦しむ。
師はどんな答えにも失格を出し続ける。
考えに考えを重ね続けた弟子は、思考のゲシュタルト崩壊を起こす。
そんな末に辿り着けるものがある。
そのための出題が禅問答の出題らしい。
「うわぁ、ただでさえ解らないのに、まだ追い詰められるのは嫌だなぁ」
私達はその後、七日間ほど修行に明け暮れた。
一時間座っては、30分休憩を取り、また座る。
食事と就寝以外は座り続けるだけの修行を続けてみた。
でも、七日間の修行じゃぁ何も解らないし、何かが成ったという気もしない。
一つ解ったのが、座るだけなのに、こんなに辛いなんて初めての経験だった。
「後は自分なりに座ってスッキリするようにすれば良いかな」
「そうですよ、ここで何時までも修行している訳にも行かないですものね」
「次は
「では、行きますか」
私達は崑崙仙界にある
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