八章 太平洋戦争

第146話 結実

 台湾チームとの試合が終わり、まったりとした空気が漂う宴会場に、セイバーが現れた。

 既に聞いている直史はともかく、ここで改めてエキシビションマッチの告知がなされる。

 そしてその対戦相手を聞いて、わずかな驚きの後に、すぐに全員の顔が引き締まったものになった。


 ニューヨーク・メトロズ。

 今年のMLBにおいてレギュラーシーズンを全体一位の勝率で勝ち進み、ワールドシリーズもまた優勝した、要するに今年の全米ナンバーワンチーム。

 一試合限りのエキシビションマッチとは言え、こんな試合が実現するとは。

 しかも日程的に、無億はワールドシリーズを終えてからちゃんと疲労は抜けたぐらい。

 もちろん既にワールドシリーズは終わって、ある程度は体の方は緩んでいるだろう。

「でも大介がいるからなあ」

 その直史の言葉で、さらに男どもの顔は引き締まる。


 大介の入ったメトロズは、今年はその大介の記録と共に驀進したと言っていい。

 MLBのチームの中でも、ほぼトップクラスの打撃を誇っていた。

 特に大介がいたことで、とんでもない長打率などを残したものだ。

「お前なら勝てるだろ?」

「多分な」

 樋口の問いに、さらりと答える直史である。


 大介の成績の指標は、日本よりもピッチャーのレベルが高いはずの、MLBに行ってますます上がったように思う。

 それは試合数が多いから打点やホームランの数も増えるという、単純なものではない。

 打率と出塁率は、日本時代の最高であった数字を上回る。

 了打率とOPSだけはかろうじて下であったが、それはシーズン途中から、敬遠の数が爆発的に増加したからだ。

 日本においては143試合で最大179個のフォアボールで、その中で敬遠は61個。

 だがアメリカでは146試合で205個のフォアボールに86個の敬遠。

 これでMLBのシーズン記録を抜いてないあたり、MLBの闇というか、懐の深さを思わされる。

 ただもう半世紀以上も出ていない四割打者になったのには、さすがに驚いた。


 大介はおそらく、進化している。

 だが直史としては、完全に一試合だけならば、なんとかなると考えているのも本当だ。

 一試合はもちろん、おそらく三試合の二試合先取にしても、レックスが勝てるだろう。

 そう思うのはチームのメンバーが、絶対的な信頼を置くピッチャーがいるからだ。


 エースが投げれば負けない。

 それでも負けるのがプロの世界のはずだ。

 しかし負けないエースは、現実に存在している。

 もはや人間ではなく、これは概念であるとすら言える。


 これまでにも日米野球において、代表が戦った例がなかったわけではない。

 だがそれは日本代表とアメリカ代表、もしくは特定のチームの選抜という形であって、その年の優勝チーム同士の対決というのはなかったのだ。

 代表同士の試合は、技術交流が名目であった。

 だからこそ代表を選抜していたのだ。

 この試合も日本の優勝チームと、アメリカの優勝チームが代表となって試合をするという点では、同じであると思うかもしれない。

 しかし決定的な違いがある。

 実際にその年、一番強かったチーム同士の試合なのだ。


 それでも言い訳は出来るだろう。

 エキシビションマッチであったから、本気ではなかった。

 野球はそもそも実力差が、圧倒的に勝敗に表れるスポーツではない。

 たったの一試合だったから油断した。

 

 負け犬の遠吠えと言うことも出来るだろう。

 だが実際に、それはありえるのだ。

 これが七試合制で、四連勝したとかなら話は別だろう。

 本気ではないにしろ、そんな全敗した者の言葉には説得力がない。

 なのでただ勝つのでは不充分なのだ。

 圧倒的な実力差を見せ付けて、勝たなければいけない。


 それは意外と難しい。

 直史と樋口のバッテリーでも、この二人はそもそもデータを分析して勝負するタイプだ。

 上杉ならば相手がどうであろうと、一方的な蹂躙が可能であったかもしれない。

 だが二人はそういうタイプではなく――。

「とりあえずメトロズの今年のデータ全部と、ポストシーズンの試合全部の映像は持ってきました」

 セイバーが一日で全て集めてくれていました。

 いや、本当は事前にちゃんと準備していたのであるが。




 レックスのメンバーの士気も上がっていた。

 戦いたい相手だということもあるし、勝てるとも思っていたからだ。

 ナオフミストは既にレックス内にもいる。

 負けないエースなどというのは、これまでにいなかった存在だ。

 さすがに大学時代と違って点は取られているが、無敗というのが恐ろしすぎる。


 たった一戦のエキシビションマッチ。

 だがそれの放映はネットではあるが日本でもされるという。

「そういや球場はどうするんだ?」

「あの新しいところ使うんじゃないか? ほら、WBC誘致に考えられていたってやつ」

「あそこか。あんま入らなかったよな」

「一応ウィンターリーグを今でもやってるけど」


 かつてハワイにはアロハ・スタジアムというなんともハワイ的な名前の大球場があった。

 しかし可動式で野球場とアメフトとに使われていたこの球場も、メンテの関係から既にアメフト専用へ。

 それ以降はしばらく、一万人を超えるような球場はなかったのだが、割と最近にカメハメハ・スタジアムというなんだか日本人にもとっても馴染みの深そうな球場が出来ている。

 収容人数は常設の座席以外も設置したなら三万人が最大というから、プロの試合にも使える立派なものだ。

 また設計が日本の球場に近く、左右対称となっている。

 設計する側としたらともかく実際に作る側からしたら、こういう形の方が作りやすいのかもしれない。


「完成したの三年前か。こないだのWBCの試合、アメリカの試合をいくつか招致狙ってたとか書かれてるな」

「ウィンターリーグには今も使われてるのか」

「でも三万も収容するって、MLBのチームもないのに大きすぎるだろ。本土からは離れすぎてさすがにチームの本拠地も置けないだろうし」

「一応マイナーのチームが使ってはいるんだな」


 この試合の主催はレックスがほとんどの費用をもつという。

 確かに今年の経常収支などを考えたら、これぐらいはやっても大丈夫という計算は立つ。

 それにこんなエキシビションマッチなら、注目度も高いだろう。

 ネット放映権によって、かなりの部分はペイしている。

 ただし日本側の選手は、メジャー側の選手が特別ボーナスをもらえることを知らない。

 これは確かにエキシビションマッチだが立派な試合なので、本来ならば契約外のことでは、とも言えるのだ。


 日本人の契約に疎いところを突いたものである。

 そして契約に強い選手には、先に言い含めてある。

 汚い。さすが金の亡者、汚い。




 元々日本一になったチームはオフにハワイ旅行というのが多いのだ。

 それに一試合をつけた上で、球団側が改めてホテルのオプションなどを提示する。

 そこまでやって、選手には満足感を与える。

 そもそもMLBの優勝チームと試合が出来るというだけで、モチベーションが高くなっているあたり、NPBの選手はちょろいと言えよう。


 ちょろくないバッテリー二人が、どれだけ本気を出してくれるか。

 それがこの試合の勝算を、大きく左右するものである。

 WBCには二回出ている直史であるが、やはり伝説的なのは一度目の出場。

 プロの超一流選手ばかりの中に、樋口と二人で大学生の中から選抜。

 その選抜理由も、壮行試合の中でのノーヒットノーランという、劇的すぎるものであった。


 上杉が投げられなくなった、あの決勝戦。

 球数制限が厳密に行われて、完投など出来るはずもなかった。

 だが完投して、しかも完封して、さっさとプロの世界に来いと思われたものだ。

 プロ野球界からしたら、回り道にしか思えない五年間。

 クラブチームなどブランクとしか思えない中で、オールドルーキーとして表舞台に再登場。

 一年目の上杉との投げ合い、大介との対決、そして伝説の日本シリーズ四勝。

 昭和中期のピッチャーなどとは言われたものだ。


 このピッチャーが投げる。

 球数制限もないから、130球ぐらいまでは普通に投げる。

 ならば一点も取られないだろう。

 すると一点を取れれば勝てる。

「ちなみにナオ、どれぐらい援護はほしい?」

「三点はほしいかなあ」

 それでは困るセイバーであった。




 台湾の試合に関しても、ネットの野球チャンネルでは流れていた。

 それを見ていた日本の瑞希であるが、彼女も直史から話は聞いていない。

 なにしろセイバーが直史に話していた時点では、まだ企画段階であったからだ。


 だがそれをセイバーは選手たちに発表した。

 翌日にはマスコミも知ることとなった。

 それよりほんの少し前に、瑞希も知ることとなる。

 そして五分後には、実家に娘を預けて、ハワイに取材に行く準備を始めていた。


 パスポートに関しては去年、チームが優勝した時にハワイ旅行のため更新していたので問題はない。

 取材で遠くに行くのに、実家に預けるのは常態化している。

 もう本業が弁護士なのか作家なのか、分からないぐらいには稼いでしまっているが。

 瑞希の場合は取材対象がそのままそこにいるので、書くことが出来るというのはある。

 直史が引退したら、その仕事の割合も変化していくだろう。


 むしろ瑞希は、取材される対象であったりする。

 彼女だけが知っている裏事情というのは、大変に多い。

 そして知らなくても、知っている人に聞くことは出来る。

 もちろん文章にしてしまうことは難しいのだが。

 今でもかなりのものだが、高校時代の直史の性欲の強さなど、絶対に書けないものである。




 日本一のチームとアメリカ一のチームのエキシビションマッチ。

 もちろん字面だけを追うなら、日本最強とアメリカ最強の対決だ。

 ただWBCでもアメリカは負けても、本当のトップレベルの選手は出ていない、などと言い訳をしてきた。

 そもそもMLBが主体になって作った大会なのに、そこにMLBの超一流が、最近では出ないというのがおかしいのだ。

 正直に言ってほしい。

 かなり本気で選手を出した、第一回と第二回で日本に優勝されているから、今はもうトップレベルは出せないのだと。


 バスケットボールだってドリームチームは敗退したが、その後その国の選手をリーグに引き込むことで、面目を保ったと言える。

 またバスケットボールも、一流選手は出るのを渋る傾向がある。

 レギュラーシーズン中ならともかく、国際大会に出て怪我をして、その保障はされるのか。

 はした金のために危険を冒すのは、どう考えても割りに合わない。


 実際のところ瑞希は、日本のチームをアメリカに連れて行って一年間リーグに放り込んだら、圧倒的に負けると思う。

 基礎体力やフィジカルに差がありすぎる。

 だが短期決戦なら、勝算は充分だなとも思うのだ。

 既にピッチャーであれば、日本人選手がかなり、MLBでも一流のピッチャーとして通用している。

 それに比べると野手は活躍が控えめだが、今年デビューした大介と井口は、向こうで一年目から結果を残した。

 日本人選手は甲子園という大舞台があるため、短期決戦に強いと言われる。

 アメリカの場合はセイバーの数字管理が行き過ぎていて、統計的な強さしか発揮しえない。

 実際のところはしっかりと、強力なピッチャーをポストシーズンには使うのだが。


 出版社の人間から依頼を受けて、直史からメトロズのデータをもらって、瑞希は飛行機の中で考える。

 なるほど今年のメトロズは強かった。

 だがあくまでも打撃のチームである。

 大介がいるということでさらに、その打線は強力になっている。

 対してピッチャーの方は、クローザーに配置換えしたセットアッパーが、かなりの数字を残している。

 先発も平気で160km/hを投げるようなのがそろっているが、それでも序盤から中盤に得点し、逃げ切るというのが作戦になるだろう。


 日本でもアメリカ本土でもない。

 太平洋のハワイ諸島で、まさかこんな対決が実現するとは。

 瑞希はセイバーの計画がどこまで先があるのか、少し寒気までしたものだ。




 沖縄よりさらに南にある台湾の、さらに南に多くの島があるのがハワイである。

 当然ながら気温はほぼ常夏。

 そのくせ日本の夏よりは、よほど過ごしやすいとも言われる。

 試合までは一つのホテルに集まった選手たちであるが、家族はそのまま一緒のホテルに泊まるか、先に手配したホテルに行くかで、分かれている。


 瑞希の場合は直史と同じホテルというか、同じ部屋で問題ない。

 嫁が育児で忙しく、とても日本を離れられなかった樋口は、既にナンパに出かけている。

 日本国内ならともかく、ハワイでナンパをするというのか。

 確かに、実は樋口の英語力は、直史よりも高かったりする。

 将来的に上杉の手足となって働くなら、外国語は覚えておいた方がいいに決まっていたからだ。


 日本チームに割り当てられた球場は二つあって、それほど大きなものではない。

 だが練習だけには充分なものだ。

 台湾とのエキシビションマッチでは、武史一人が投げた試合となった。

 なので他の選手は、ほとんど疲労していない。


 アメリカのメトロズのチーム構成も、既に明らかになっている。

 シーズン中に既に調子を落としかけたり、軽い怪我をしていた数人は抜けているが、ほとんど主力はそろっている。

 ガチガチに勝利を狙ってくるわけではないが、明らかに手を抜くわけでもない。

 この相手にどれだけの試合をするのか。


 取材に来ている日米のマスコミも、これがどれぐらいの温度のある試合なのか、計り知れないところがある。

 単純に日本一とアメリカ一で、世界最強決定戦を行う、などというものではない。

 野球はかなり戦力に差があっても、一試合だけならば勝ててしまうスポーツだ。

 これが日本シリーズなどのように、七試合の勝敗で決められるものならば、また話は違っただろう。

 だがたったの一試合なのだ。


 見所がないわけではない。これまでにはなかった形での対戦なのだ。

 それにメトロズの主力となった大介は日本人だ。

 ほとんどのピッチャーが抑えられなかった大介を相手に、日本のピッチャーはどういった勝負をしてくるのか。

 改めて大介の成績を調べてみれば、レックス相手には微妙な成績だったことが分かる。

 アメリカのスポーツマスコミは、たとえMLBの担当であっても、そこまでNPBの選手には詳しいものではない。

 さすがにスカウトであると、ある程度は詳しくないと困るが。


 日本人がMLBに注目しているほどには、アメリカ人はNPBに注目していない。

 だからこの試合もMLB側が勝つであろうし、負けたとしてもそういうこともあるな、と軽く思える程度のものだ。

 もちろんごく一部には、NPBのレベルを、特に直史や武史のレベルを、しっかりと把握している人間もいる。

 これもまたイリヤが生きていたら、色々と盛り上げてくれただろうに。




 直史はハワイの空を見て考える。

 日差しは強いが、強すぎもしない。

「何を見てるの?」

 散歩に付き合っている瑞希が、そんな声をかけてくる。

「いや……イリヤが生きてたら、見たがったろうにな、と思って」

 特に変な意識もしていないため、直史は素直に口にした。


 直史のピッチングを見て、日本にやってきたイリヤ。

 彼女は大きく世界を動かしたが、彼女自身も世界によって動かされた。

 野球というスポーツに、それほどの興味があったわけではない。

 だが直史は別であったのだ。


 瑞希はわずかに、嫉妬さえ覚える。

 男女間の感情ではなく、人間と人間としての、あるいはお互いに影響を与え合う存在。

 そんな人間が、自分の夫の異性であるということ。

「なんだか、まだ嘘みたい」

 瑞希の言葉に、直史は無言で頷いた。


 あと二ヶ月生きていたら。

 どうしようもないことをほんの少しだけ考えて、直史は散歩を再開した。

 どれだけの人間が見るかとか、どういった意味があるのかとか、直史はあまり考えない。

 ただ自分がやるべきは、勝利のために投げること。

 完封が望ましいし、それよりもノーヒットノーランが望ましいし、それよりもパーフェクトが望ましい。

 結局はいつもと似たようなものであり、そしてこの試合が終われば本格的にストーブリーグに突入する。

 アメリカで野球をするということ。

 長い三年間が始まろうとしている。

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