第111話 俗物

 佐藤四兄弟は、超人的な成績を残す者が多いが、精神は俗物である、と本人たちは思っている。

 どこがだ、とたいがいの人間は苦笑いを浮かべる。

 その中でも最も凡人に近い、と本人は思っているのが、次男の武史である。

 美しい妻、賢い息子、都内の物件を賃貸で借りているのは、あくまでも引越しの可能性が高い職業的な事情で、その気になれば現金での購入も出来る。

 

 今年プロ五年目の武史は、おそらく今年で100勝に到達する。

 昔と違って200勝の価値が高い現在、既に達成して復帰を目指す上杉は別として、たとえば真田でも八年間で115勝である。

 真田もそこそこ怪我で離脱があるので、何歳までローテを回せるか。

 既に一シーズン、先発のローテからは外れたことがある。


 そもそも大卒投手で200勝というのが、とにかく少ない。

 上杉などは故障がなければ、400勝していたのではないかとも言われる。

 直史はそもそも五年限定の副業なので、どうやっても200勝は無理だ。

 そのあたりを考えると、若手で200勝を達成しそうなのは、武史だけではないかという見方もある。


 だが武史は俗物であるので、200勝して名球会入りなどというものには興味がない。

 それよりはMLBに行って、1000万ドル以上の年俸を三年ほどで稼ぎたい。

 丈夫なことには定評があるので、35歳ぐらいまでMLBで投げられれば、かなりの稼ぎにはなるのではないか。

 実際のところMLBの勝ち星は、味方の援護とリリーフに左右されるので、かなりの運が必要となる。

 そして武史は、詰めは甘いが運はいい。


 プロの世界で一線で活躍していても、自分の居場所はここではない気がする。

 なんという贅沢な才能の持ち主と思われるかもしれないが、周囲に釣られてそれなりの練習はしているのだ。

 凡人ではないが俗物である武史が考えるに、チームに利益を与えた上で、MLBで金も稼ぐのは、来年のオフにポスティングをすることだろう。

 現在は大卒選手は最速で、七年目で国内FA権は手に入る。

 それより一年早い六年目というのが、球団としてもポスティングで主力を売るのに、一番いいタイミングだろう。

 もちろんそれまでに怪我などをしていないことが、最低限の条件となる。




 こんなことを考えながら投げていたので、いつもよりは少し点を取られた。

 だがカップスのピッチャーもエースクラスを出していないので、レックス打線には点を取られている。

 樋口が復帰してくれれば、攻守に渡ってまた強力な戦力になるだろう。

 それとは別に岸和田も、なんだかんだ今年は打撃でも、そこそこ打っている。

 樋口が離脱してからも、6勝2敗。

 そしてその間に三本もホームランを打っている。

 打順が後ろの方で、全てソロであったが、打率も0.278なのだから、キャッチャーとしては充分。

 やはり実戦に優る経験はないのだろう。

 

 この調子なら打撃を見込んでコンバートもありではないのか。

 岸和田は樋口と違って塁間を走れるほどのスピードはないが、一瞬のダッシュならばそれなりに速い。

 キャッチャーらしくボールを逸らさないので、ファーストで使ってもいいのではないか。

 長くファーストを守っていたワトソンの後も、ファーストは助っ人外国人を置くことが多かった。

 だが今の主力外国人であるモーリスは、外野のライトを守っている。

 ファーストは打力があれば、誰が入ってもいい。

 ただ現代野球においては、ファーストも守備やカバーなど、やることは多くなっている。

 キャッチャーとしての能力を捨ててまで、ファーストで使う必要はないだろう。


 実はこの岸和田の成長と、その打撃の開花は、フロントにとってはおいしいのだ。

 樋口はこれまで、通常の選手のパフォーマンスを低下させる、長期治療が必要な足腰の怪我をしていない。

 なので岸和田ほどまで育ってしまったキャッチャーは、バックアップとしてはもったいないのである。

 岸和田を放出して、将来性のありそうなピッチャーを手に入れたい。

 直史が去ることを知っているフロントは、そんなことを考えてもいたりする。


 武史は4-2で完投勝利。

 そして第三戦は金原が投げ、七回二失点からリリーフにつなげて、ここも勝利。

 二勝一敗で勝ち越して、16勝6敗。

 ハーラーダービーは直史と武史、そして金原が4勝0敗でトップに並んでいる。

 そして試合の舞台は神宮に移る。




 武史の相談に乗ったのは、当然ながらセイバーであった。

 軽い感じで話しかけてきて、重要すぎる内容を持ち出す。

 ただそれを言った本人は、あまり深くも重くも考えていない。

「奥さんには話したの?」

「いや、通用しないから行かないってなったら、わざわざ心配させる必要もないし」

「つまり行くかどうかではなく、通用するかどうかが知りたいの?」

「そうそう」


 セイバーとしては困る。

 いや、動かせる手ごまが増えることは、悪いことではない。

 NPBではなくMLBの方が、代理人の暗躍する余地は多い。

 武史ほどのパワーピッチャーが、MLBで必要とされるか。


 単純に能力だけなら、通用すると言えるだろう。

 今のMLBに武史に匹敵するストレートを投げられるピッチャーは、二人しかいない。

 その二人もあくまで速度が匹敵するだけで、武史ほどのバックスピンはかけられない。

 WBCでもMLBのボールへの適性は示しており、複数の球団が興味を示しているのは知っている。


 ただ、問題なのはメンタル面だ。

 そしてあとはコンディションの管理が出来るのか。


 これまでのMLBに行った選手というのは、基本的に野心を抱きながらも、あちらで成功することを夢見ていた。

 当初は行くつもりなどなかった大介も、いざ行くとなれば勝負に飢えていた。

 直史の場合は、ローテの管理は大変かもしれないが、それはそれでどうにでもしてしまいそうでもある。

 だが武史の「とりあえず行ってみる」というのはまずいと思う。


 セイバーが参考にするのは、これまでに海を渡ってMLBに挑戦してきた選手ではない。

 日本に渡ってきた、助っ人外国人だ。

 基本的には日本には、現役バリバリのメジャーリーガーのバッターがやってくることはない。

 今のように明らかに年俸がMLBの方が上の時代はもちろん、それほどの差がなかったバブル期であっても、超一流のメジャーリーガーがやってきた例は、契約で折り合いがつかないなどのごくわずかな例である。

 そしてアメリカにおいても結果を出して、そのくせ日本では全く活躍できず、逃げるように帰って行くそれなりのメジャーリーガーも少なくはない。


 セイバーがそういったメジャーリーガーが活躍できない最大の理由は、本人に環境に順応しようとする努力があるかどうかだと思っている。

 NPBでの成績を元に、MLBでのいい契約を得ようとする、以前ライガースにいたマッシュバーンなどはいいのだ。

 ただそれでも野球はチームスポーツだということを忘れ、自分一人の成績でどうにかなると考えるなら、それは大きな間違いだ。

 またピッチャーであれば単純に、日本のボールに合わないということも考えられる。




 色々なことを、セイバーは脳裏で考えた。

 そして出した答えは、前から思っていたことと同じである。

「能力的には通用するわね。MLBのボールにも対応できているし」

 これは正しい評価である。


 現在の武史のストレートは、スピードだけではなくスピン量も異常に高い。

 そしてムービング系のボールを三つ持っていて、チェンジアップに大きく曲がるナックルカーブがある。

 贅沢を言うなら、さらに緩急をつける球があればいいが、それはさすがに厳しいだろう。

 これらのスペックで、普通に通用するはずだ。


 だがNPBとMLBにおいては、ピッチャーの役割が大きく違う。

 NPBでは、バッターはキャッチャーと戦う。

 しかしMLBでは、バッターはピッチャーと戦う。

 配球からリードをキャッチャーが考えるNPBと違って、MLBではコーチなどの意見から対戦相手を考慮して、最終的にはピッチャーが配球を決める。

 もちろんベテランキャッチャーの中には、ピッチャーを上手くリードするキャッチャーもいる。

 だが基本的にMLBにおいては、ピッチャーはバッターをかわすのではなく、真正面からねじ伏せるタイプが多いのは確かだ。


 あとはメンタルの問題と、体力の問題。

 大介はスタートダッシュでとんでもない成績を残しているが、これが一年間続くかは、さすがのセイバーでも確信がない。

 そして来年直史が渡米したとして、どれだけの成績を残せるか。

 純粋に体力だけなら、武史の方が直史より上である。

 だが直史は力をどれだけ消費せずにいられるか、また力を使わずにそれなりのボールを投げられるかという、微妙な特技を持っている。

 武史がアメリカに渡ったとして、成功するかどうか。

 それはチーム選びと、周囲のサポートによるだろう。

 もし本気で武史がMLBを目指すなら、セイバーとしても力を入れる意味はある。

 だがとりあえず通用するかどうかを試してみたいという程度では、アメリカのハングリー精神旺盛な選手との競争に、勝つことは出来ないのではなかろうか。

 案外あっさり勝ってしまいそうな雰囲気もあるが。


 実現するかどうかはともかく、セイバーは考えることが一つ増えた。

 武史をMLBに持っていくとして、そのタイミングは考えなければいけない。

 レックスから直史に続いて武史が抜けるなら、先発の補充は絶対に必要だ。

 もっとおそのあたりは、若手にも期待はしているが。

 ただ先発の穴を埋めることは出来ても、武史の穴を埋めるような選手は、一人もいないだろう。




 日米を股にかけて活動する代理人ドン野中。

 大介の移籍にも携わったこのエージェントは、直史のことに関してはあまり接触していない。

 それは直史の活動期間が、短いものになるとセイバーが知っているからだ。

 MLBの三年間で、どれだけの成績が残せるか。

 直史について考えなければいけないのは、ただそれだけだ。


 だがそこに武史の案件が降ってきた。

 話を持ってきたセイバー自身が、どれだけ本気なのか分からない、とは言っていたが。

 武史は現在が27歳のシーズン。

 レックス的には海外FAで出て行くのはなんとしても阻止したい。

 ただポスティングも、出来るだけぎりぎりまで待ちたいだろう。


 野中の見る限りでは、武史のスペックはまさに、メジャー級である。

 今すぐに持っていっても、充分にローテの一角として通用するはずだ。

 だが本人がどの程度本気なのかという、微妙な問題はある。


 現在のシステムによると、大卒の選手がFA権を持つのは七年。

 ただ海外FA権は高卒も大卒も、また社会人も関係なく九年だ。

 五年目の武史をレックスが保持して、ポスティングでの移籍という手段が取れるのは、つまり八年目までとなる。

 ただ本人がそこまで長く待たせる球団に不満を感じれば、七年目に国内FAで移籍をしてしまうことは出来る。

 移籍する折に、一年後のポスティングを契約に盛り込むことなどは、可能と言えば可能だ。


 武史は基本的に、プロ野球界の人情やしがらみなどを、全く感じない人間だ。

 それがレックスに納まってくれているのは、おおよそセイバーとの高校時代からの縁による。

 さらに付け加えるなら、樋口がいるというのも大きい。


 きついことを言うなら、武史は自分では自分の人生を決められない。

 だが決めてくれる人間を見極める目は持っていて、その人生のレールを歩く力は持っている。

 野中としてはとりあえず、会うだけは会ってみることにした。

 そして大きな鉱脈であることを発見する。




 これまでの武史の成績を見ると、タイトルを六回、沢村賞を一回、ベストナインやMVPにも選ばれている。

 同じ時代に上杉がいて、さらに直史が入ってきたのに、同じリーグでタイトルを取っているというのは奇跡に近い。

 特に上杉などは、七年連続の沢村賞を取っていて、その間の四大タイトルはほぼ独占。

 ただベストナインはともかく、ゴールデングラブは時々外されることがあった。

 あまりに球が飛ばないので、たまにある自分の目の前のゴロを処理するというシチュエーションに、失敗したりすることが目立ったりしたからだ。


 大卒ルーキーの一年目に、上杉の怪我もあって沢村賞を受賞。

 この時は投手五冠を全て取っていて、これは直史も出来なかったことである。

 四年連続の20勝以上であり、七割以上の試合で完投。

 NPBとMLBでは先発ローテの間隔が違うとはいえ、この完投能力は魅力である。

 現在の年俸は37000万に出来高。

 MLBで同じ成績を残せたら、10倍はもらっていてもおかしくはない。

 もっともそれには安定して毎年投げている必要があるのだが、武史は安定して毎年20勝をしているのだ。


 過去の故障歴を見ても、高校時代に軽く休むことはあっても、大学やプロでは突発的な事故による骨折ぐらいしか問題はない。

 これは他の人間を庇ってしまったものであり、本人の責任とするには難しいだろう。

「レックスはさすがに10億は出せないだろうしなあ」

 スターズやライガースに比べると、レックスは資金力で劣り、また選手で稼ぐのが下手である。

 ただそのレックスに入れたのがセイバーなだけに、何か別のことを考えていたのではないかとも思えるのだが。


 野中が考えるに、純粋に武史が稼ぎたいだけなら、今年にでもポスティングを求めていく方がいい。

 ただそれは目の前の金のことだけを考えた場合であり、MLBで通用せずに戻ってきた場合などを考えると、もう少しレックスに義理を果たしておいたほうがいい。

 あと一年、レックスにいるのだ。そしてそれを、このオフには通告しておく。

 七年目になれば国内FA権が発生するため、レックスから移籍してしまうことが出来る。

 レックスとしては六年目にポスティングにかけて、MLBの球団から譲渡金をゲット。

 そしてその金で補強をすればいい。

 元々武史は、レックス以外は社会人とまで言って、レックスに入ってくれた選手なのだ。

 そのあたりも踏まえて六年目まで活躍すれば、義理は果たしたと言えるだろう。


 出会って冒頭、そう説明されると、なるほど、と武史は頷いた。

 あとの問題は、武史に本当にMLBに移籍するつもりがあるかだ。




「MLBってどう思う?」

 そう武史に言われた時、恵美理は正直に言って、驚くと言うよりは面食らった。

 これまで武史が、MLBについて話題にしたことは、なかったわけではない。

 だがこの話の流れであると、自分がMLBに挑戦したいということとしか捉えられない。

「どうって……」

 とりあえず料理していた手を止めると、息子を振り回して遊んでいる武史と、ちゃんと座って話を進める体勢になる。


 恵美理自身は幼少期、そこそこ長い時間をヨーロッパで過ごしたことがある。

 またアメリカにも何度か、短期滞在はしている。

 おそらくアメリカなどの外国で暮らすということに関しては、武史よりもよほど慣れているだろう。

「メジャーでプレイしたいの?」

 とにかくこれまで、そんなことは言っていなかったので、唐突に感じた。

「プレイしたいと言うか、稼ぎたい」

「う~ん……」

 夢とか憧れとか言われたら、とりあえずは反対するつもりだった恵美理である。

 しかし武史の欲望は、もっと即物的なものであった。


 単純に稼ぐというだけなら、確かにMLBの方がいいのだとは、恵美理も知っている。

 だが金銭以外の生活の変化なども考えると、安易に賛成するわけにもいかない。

 アメリカと言っても広いのだ。

 恵美理の親戚や知り合いは、アメリカの何箇所かにかは住んでいる。

 両親の関係からも、生活環境を整えるのは、他の家庭よりは簡単だと思う。

「それは、今年のシーズンが終わってから?」

「いや、来年のシーズンが終わってからにしようと思う」

 そして武史が、他人の意見そのままながら、ちゃんと帰国後や引退後のことも考えていると知り、深く考え込むことになる。


 恵美理もまた、仕事を持ってはいる。

 だが二人目がお腹にいる今、休職するタイミングは考えているのだ。

 アメリカでも場所によって、本当に暮らしやすさは違うと恵美理は知っている。

「基本的に反対はしないけど……」

 そもそも恵美理の父が、海外で活動することが多い人間だ。

 なので海外での暮らし自体を、否定するわけではない。

「分かった。じゃあ私も、そのつもりで考えていきます」

「お願いします」

「めじゃあ?」

 武史の膝の上でぐるぐると動き回る息子を見ながら、そういえば子供を連れて行くのは大変だな、と思う武史である。

 大介のところも、直史のところも、小さい子供がいながら海外に引っ越していく。

 なんとも大変そうだなと考える武史は、ここから真剣に、MLBという選択肢を考えていくことになるのであった。

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