第106話 深淵
佐藤直史と対決する者、汝ら全ての希望を捨てよ。
「やかましか」
完全に気合充分の西郷は、昨日も先制のホームランを打っている。
大介のいなくなったライガースにおいては、間違いのない四番。
新外国人を三番に置いているが、出塁はするものの長打はまだいまいち。
完全に西郷が、ライガースの最大得点源とはなっている。
今日のライガースの先発は、これまたWBCで投げた阿部。
高校時代に甲子園を経験しなかったということで、大原にも通じるところがある。
去年の成績は13勝6敗と、真田、山田に続くライガースの三本目の柱となりつつある。
山田が今年で35歳になるが、彼はまだまだ衰えを知らないどころか、去年がキャリアハイの数字であった。
この調子で40歳まで投げられれば、200勝に到達するかもしれない。
メジャー挑戦の意思がないので、球団としてはフランチャイズプレイヤーとして遇している。
育成から育ったという点では、ライガースでも最大の生え抜きと言えよう。
阿部は今年で四年目だが、一年目は一軍ではほとんど投げていない。
二年目から先発ローテとして機能し、去年は二桁勝利を危なげなく達成した。
それは分かっているのだが、今日は相手が悪い。
レックスの先発が佐藤直史。
阿部は去年も直史と投げ合って、それほど悪くないピッチングではあったが、直史はパーフェクトをしてしまった。
これに自分も完封してやる、などと言って立ち向かうのは、ライガースの中でも真田ぐらいだろう。
(ナオさん先発するだけでこっちの士気が落ちるんだけど)
今年も頭から正捕手として、ライガースのマスクを被っている孝司。
去年のクライマックスシリーズでも完敗し、そしてその後の日本シリーズでは一人で四勝と、人間とはなんだろうと思わせるのが直史である。
どうにか士気を保っているのは、他に西郷と新外国人ぐらいだろうか。
去年のライガースは優勝したレックス相手に、レギュラーシーズンでは互角以上に戦えていた。
だが直史相手には、パーフェクトをされたりノーヒットノーランをされたりと、本当に散々である。
大学卒業後に大学院に行って弁護士の資格まで取った。
そこからプロに入ってくるなど、どう考えても人間技ではない。
(分かってたことだけどさ)
一回の表、先頭の西片を切るのには成功した。
今年40歳の西片は、ようやく衰えがはっきりしてきたと思う。
オープン戦からいまいち打率が上がらなかったが、どうにかして出塁をしようとはする。
足や守備に関しては、まだまだ通用するだろう。
だが打撃力が明らかに落ちた。
今年のシーズン中にどうにか戻せなければ、おそらくもう代走と守備固めでしか使いようがない。
どんな選手にも、衰えて引退するときはくるのだ。
(ナオ先輩にはないような気もするけど)
衰えて打たれる姿が予想もつかないというのは、やはりすごいことである。
二番の緒方を歩かせてしまって、一番厄介なバッターである樋口を迎える。
去年もあと少し盗塁があれば、トリプルスリーを達成していた。
それを抜きにしても、三割台半ばの打率に、30本以上のホームラン。
攻守のそろったキャッチャーというのはいるが、それに足まで備わったキャッチャーは、樋口が初めてだ。
正確にはいなかったわけではないが、樋口のレベルで安定している選手はいない。
能力値をレーダーチャートにしたら、ものすごい高いレベルでまとまっている。
それが樋口という選手だろう。
ランナーが得点圏にいたり、ここでこそ点がほしいという場面では、ある意味大介以上に恐ろしかったバッター。
今年はシーズン序盤で打率が四割を超えていて、ついに打者タイトルを取りに来たかと思ったものだ。
そこからはやや落ちているが、それでも四割近い打率をキープしている。
そしてそれ以上に、出塁率が五割を超えている。
基本的に樋口には、苦手なコースや球種が存在しない。
ただインハイでのけぞらせた後などは、やはりアウトローは打ちづらくなる。
(まあ気配を消して、サインを出すか)
(なるほど、そういうことか)
まず阿部が投げたのは、インハイへのストレート。
樋口はのけぞってかわすが、わずかに変化してストライクのコースへ。
見極めたように見える樋口の動きだが、とりあえずストライクは取れた。
続いてはアウトロー。ストライクぎりぎりを攻めるかのような。
しかし樋口は手を出さず、ボールはわずかにボールゾーンへ変化した。
(読まれてたか?)
とは思っても、やることは変わらない。
インハイとアウトローの交互の攻め方。
阿部のコントロールは精密とまでは言わないが、内角を厳しく攻めるのと、右打者のアウトローへのピッチングは、かなりの精度を持っている。
インハイのボール、今度は樋口は振ってきた。
打球は左方向、ファールグラウンドを転がっていく。
これでとりあえず、カウントは追い込んだ。
あとはアウトローのボールをどう使うかだが。
(インハイで)
(そっちかよ)
孝司のリードにはわずかに抵抗があったが、この組み立てではいいはずだ。
少し内側に外したらいい。当たらない程度のところに。
これで胸元をもう一つ続けることによって、最後のアウトローが生きる。
樋口をのけぞらせるぐらいの、全力のストレート。
それを意識した阿部の指先は、ボールに引っかかりすぎた。
インハイへのストレートが、シュート回転する。
避けようとした樋口の手の、甲あたりに当たったか。
デッドボールであるし、インハイであった。
痺れた樋口は手を振るが、いまいちすぐには感覚が戻ってこない。
治療に入るが、これは折れてはいないだろうが、あまりいい状態ではない。
アイシングをかけて、代走が出る。
もちろんキャッチャーも岸和田に交代だ。
樋口としては、失投によるデッドボールというのは、予測しても回避しにくい。
だがこの怪我は一週間ぐらいかかるかな、と思わないでもない。
樋口の怪我から、この回は得点が入らなかった。
そして岸和田を相棒に、直史は投げることになる。
去年のポストシーズン、樋口は早々に負傷して離脱してしまったが、それがむしろ価値を再評価させる機会となった。
なにしろ直史以外のピッチャーが、怪我をした武史を除いてまるで勝てなかったからだ。
樋口のインセンティブが全てレギュラーシーズンの成績にかかっていたというのも、彼にとっては幸いだったろう。
そしてレックスはピッチャーの本当の意味でのレベルアップと、控えのキャッチャーの育成に力をかけなくてはいけなくなった。
実際のところ岸和田がマスクを被ったときも、確かに試合に負けはしたが、極端にピッチャーの成績が落ちたというのではなく、むしろ平均よりは優れていたと言える。
樋口が離脱して分かったのは、打てるキャッチャーの存在がどれだけ貴重かということだ。
MLBの評価値を使ったら、樋口の貢献度は野手としては、両リーグ合わせても大介に次ぐ二番目。
ケースバッティングの得意な樋口は色々な形で点が取れるため、数値以上に貢献していると言えよう。
チームにとってはまた、痛すぎる離脱である。
だがこういう時のために控えの選手は育てなければいけないし、控えにとっては逆にチャンスである。
樋口は今年で28歳で、怪我でもしない限りはしばらく全盛期が続く。
岸和田はバックアップ要員として、どれだけ公式戦に出ることが出来るか。
キャッチャーというなかなか専門性が高く、そしておおよそのピッチャーに合わせることが出来る樋口がいるという状態。
これは岸和田にとっては、キャリアの上でかなり不運なことである。
スタメン争いは競争だと言っても、争う相手が強すぎれば、他のチームで正捕手になれる選手が埋もれてしまう。
大卒の岸和田がFAを取るまでにどれだけかかるか。
このあたりはフロントの考え次第である。
樋口がいてくれて直史が助かるのは、主にリード面である。
もちろん援護や、フレーミングに盗塁阻止など、全てが高水準の選手ではある。
だが直史にとって一番ありがたいのは、対戦するバッターに関する配球を、半分以上は考えてくれるからだ。
それが今日は、岸和田である。
もちろん去年のポストシーズンで、思ったよりは悪くないという感じは得ている。
だが直史にかかってくる疲労は、脳のエネルギーを使うものだ。
マウンドに立った直史は、少し力をこめてボールを投げてみる。
岸和田のキャッチングに問題はない。
樋口以外のキャッチャーに投げるのも、慣れておかないといけないだろう。
ライガースベンチは、もちろんそうと口には出さないが、勝機がわずかに見えてきたと思った。
直史自身は、去年岸和田を相棒にして、日本シリーズを勝ちぬいた。
だが他のピッチャーはどうであろうか。
岸和田自身はそれほど悪くないと、ライガースの選手たちも思っている。
実際に去年の日本シリーズでは、直史は無失点で勝利した。
ただ他のピッチャーは、武史以外は勝っていない。
シーズン序盤で、レックスのスタートダッシュを防ぐこと。
安定した投手陣を持っていても、キャッチャーのレベルが少しでも下がれば、それだけどうにかしてしまえる確率は上がる。
特にこの試合は、直史が投げている。
無敗のピッチャーを打つことが出来れば、ライガースも勢いに乗るチャンスがある。
ポストシーズンは一試合の価値が高くなるので、それだけ先発ピッチャーの価値も高くなる。
ライガースがレックスに勝って日本シリーズに進むなら、その一勝のアドバンテージを得るために、レギュラーシーズンでの優勝が必要となる。
絶対的なピッチャーを持った、レックスを破るチャンス。
あくまでも偶然に得た機会ではあるが、最大限に活用しなければいけない。
そんなことを思っていたこともあったなあ、と遠い目をする孝司である。
まずはとにかく一点と、ライガース打線は必死になった。
直史の配球のことなどを考えれば、ゾーンの中で好き放題に勝負してくることは分かっている。
だがこの日は、まるでそんなことを見抜いたかのように、ボール球を打たせてきた。
ゴロばかりが増えていく、ライガースの打線。
内野安打が二つと、ぎりぎり内野の間を抜けていったヒットが一つ。
そしていつものごとくフォアボールはない。
阿部は七回まで投げて、ソロホームラン一本を含む二失点。
いわゆるハイクオリティスタートであったので、充分な役目を果たしたと言えるだろう。
だが直史が無失点に抑えられれば、もうどうしようもない。
継投で阿部を降ろしたところで、レックスは三点目を取った。
3-0となって、レックスの監督布施は、ここで直史を降ろすべきかな、とも考える。
中四日で投げてもらったということはあるし、残りは九回だけで、球数は99球となっている。
直史としては、やや多い球数だ。
(ライガース相手に三点差ではあるが、下位打線か)
この四試合、リリーフ陣が働いていない。
ブルペンに連絡すると、どうせ直史だから完投すると思っていたそうだが、念のため豊田と越前は準備をしていたらしい。
(越前か)
昨年大卒一年目ながら、リリーフとしてはそれなりに登板を果たして、セーブとホールドもつけていた。
五位指名ではあったが、想像以上の働きと言える。
貴重な左のサイドスローで、これからもずっと活躍してもらいたい。
「よし佐藤、今日はここまででいい」
直史は完全に完投するつもりであったが、インセンティブの条件であるハイクオリティスタートは達成している。
あとは勝ちを消されないことだけが、重要ではある。
それも越前が投げるなら、三点の差があれば充分だろう。
フラグを立てるつもりでもなく、自然とそう思った。
越前はヒットとエラーが重なり、一点を失ってしまう。
まさか勝ち星を消さないだろうな、とは思ったが点を取られている間に、既にツーアウト。
ランナーなしの状態から、最後はサードゴロでスリーアウト。
ライガースを相手に一勝一敗で、このカードは終えることとなった。
ライガースとは二戦だけだったので、まだ序盤14試合しか消化していない。
だがとりあえずリーグの他のチームとは、全て当たった。
首位はレックス、二位がライガース、そして三位がフェニックス。
タイタンズ、カップスと続いて最下位がスターズとなっている。
上杉が抜けたというのは、先発の柱が抜けたという以上の意味を持つ。
精神的な支柱でもあり、本来ならば一人に任せてはおけないものだ。
正也が入ってローテの一枚となってはいるが、さすがに兄ほどのカリスマはない。
ただ現在アメリカにいる上杉は、手術自体は成功して、リハビリに入っているらしい。
普通ならもう、ピッチャーに復帰することは無理だろう。
少なくともあの剛速球は、永遠に失われたと考えてもいい。
だが一割減であったとしても、160km/h近くのストレートが投げられるのが上杉だ。
あの鉄人ならどうにか、復帰してきてもおかしくはない。
そういったことを、直史は弟である武史の妻、恵美理の関係から伝え聞いている。
恵美理の親友である明日美は、夫の上杉のために、ずっとアメリカに渡っているのだ。
「ボストンか」
上杉の治療に関しては、セイバーが動いた。
確かに彼女は神奈川にも、ある程度の利権を持っている。
そしてボストンは彼女にとって古巣だ。
そこで上杉の肩を手術し、リハビリもずっと行っている。
順調にいってもいかなくても、あと半年ほどで結果は分かる。
上杉が再び、プロの世界に戻ってこれるかどうか。
上杉こそまさに、今引退しても野球殿堂に入れる選手だ。
通算243勝で、絶対に塗り替えられるはずのない、日本の通算勝利数を塗り替えるかもと言われたものだ。
現役の中で200勝に到達するかもしれないのは、実は武史である。
大卒ではあるが四年目の去年までに84勝。
30代の前半までに、200勝は達成しそうだ。
他のピッチャーなどでは、真田などでも八年間で115勝。
なかなか名球会入りの条件は達成出来ない。
直史などはシーズン当たりの記録はいくらでも達成しているが、さすがに実働五年で200勝は出来るはずもないのだ。
レックスが最強ではあるが、それでもライガースとスターズが追っていた、三強時代は終わった。
だが今年の結果次第では、また戦国時代になりかねない。
直史がいなくなってもなお、レックスの投手陣は強い。
だが一部のスター選手だけでは、シーズンを通して戦えないのだ。
とりあえず樋口は、一週間ほど離脱することとなった。
軽症であったため、腫れが引けば問題はなさそうだが、念のために一度登録抹消しておく。
治癒してから二軍で一度試合をして、それからまた戻ってくる。
10日間の間は、岸和田が正捕手となる。
チームとしては不安が残るが、岸和田としてはチャンスなのだ。
完全にレックス一強であったはずの今年のシーズン。
それでも故障者が出れば、チームの戦力は一気に落ちる。
正捕手樋口がいないということの重要さは、これから他のピッチャーが味わっていくだろう。
去年のようにポストシーズンでないことだけが、一応は救いと言えるかもしれないが。
チーム内で最速の三勝目を上げて、直史は甲子園を後にする。
ただ日程的にはまたすぐ、甲子園のマウンドで投げることとなる。
神宮よりも猥雑な甲子園は、単純にホームランも出にくい。
直史としてはありがたい登板間隔であった。
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