第98話 観客席の皆さん
105マイルを投げるサウスポーがいる。
知っている人間にとっては今さらであるが、武史が本気になっている。
WBC準決勝、対台湾との対戦。
日本の先発である武史は、ブルペンでしっかりと肩を温めてからマウンドに登った。
普段はスタミナを考えて、序盤は慣らし運転をしていく。
だが80球までしか投げられないこの大会のルールでは、そんなことは考えなくてもいい。
いまどきのNPBの常識からすると理解しがたいことかもしれないが、武史は完投することを目途に球数を投げている。
そして100球はともかく130球ほどでどうにか完投することは出来るのだ。
MLBの常識であると先発の投げる球数は100球が限度。
そこから超えた球数に数式を入れて、投げすぎ指数とでもいうものを計算する。
だがそういった管理をしていても、MLBでは先発は普通に故障する。
登板間隔が短すぎるのだ、というのがNPBにおける常識だ。
あくまでも武史の感覚では、135球ほどで中六日で投げるのが疲労のたまらない限界だろう。
中五日で投げるなら、確かに100球ほどの方がいいのか。
MLBの高額年俸に目がくらむこともある武史だが、同時にQOLを考えることもある。
クオリティ・オブ・ライフ。つまり生活の充足感とでも言うべきか。
大介のMLB行きが決まったときに、ツインズも当然ながら一緒に付いて行くとなって、メジャーリーガーの生活というのを調べてみたのだ。
20連戦! 中四日! 週休0日!
案外出来るかな、と思ってしまうあたり、武史も佐藤家の人間である。
(でも今はともかくアメリカになんか付いて来てもらうの悪いよな)
奥さんの仕事を大事にする武史は、なんというか普通の男の感性である。
今でも既に、妻の実家に息子の面倒で世話になっているので、これがアメリカになどなると、どれだけ――。
(あれ? 恵美理の知り合いって、けっこうアメリカに多いか?)
ヨーロッパほどではないが、アメリカにも恵美理の親戚や知人は多い。
代表的なのは共通の知人であるイリヤだが。
友人と呼ぶには、ちょっと距離を置きたい人間性の持ち主だ。
ただイリヤがいるなら、恵美理も仕事があるかもしれない。
そもそも恵美理は英語がぺらぺらなのだ。
考え事をしている武史は、他には何も考えず、樋口のサインの通りに投げている。
三遊間を抜けていく当たりがあると、さすがに大介には悟では及ばないな、と「そりゃあそうだ」と賛同しかない感想を抱く。
今日は80球投げて、明日はもう投げない。
おそらく兄であれば100球以内で完封するか、よほど相手が見苦しく粘っても無失点で後にはつなげるだろう。
大介はいないが、決勝打の場面で鬼のように強い樋口はいる。
単純なスピードボール相手なら、今のメンバーは上杉によって調教されている。
この10数年で、NPBのピッチャーの球速はかなりアップした。
もちろん上杉という、圧倒的に異常なフィジカルを持つピッチャーが、人間の上限をここだと示してくれたからだ。
高校生でも150km/hは毎年数人は出てくるし、特にこの最近は160km/hオーバーもいる。
武史、阿部、毒島、蓮池などは三年時に160km/hを記録している。
今では武史など、コンスタントに165km/hは出してくる。
球速が全てではない。
相手の対応できない球を投げればいい。
そういう直史は一試合の中で、150km/hオーバーを投げるのは数球。
今の代表の中では細田なども、MAXが150km/hに満たない。
だが細田もその二種類のカーブを使って、立派なエース級の数字を残している。
上杉の影響と、大介の影響。
そして直史の影響が、これより下の世代には伝わっている。
一人の天才が、その競技のレベルを上げてしまうことがある。
正確に言えば一人の天才が、他の才能に共鳴していく。
孤高であった上杉に、大介が挑んで何度か勝てた。
そこからピッチャーは、大介を封じることに挑んだ。
ほとんどは敗北し、大量に逃走者を生んだが、さらに挑戦する者も生んだ。
その結果が現在のNPBのレベルと言える。
一番近くで影響を受けていたのは武史であろう。
そのくせ根本的なところでは、変にブレたりはしなかった。
八回、スリーアウトを取ったところで80球に到達。
「ごっつあん」
ハイタッチで迎えるベンチは、既に勝利モードに入っている。
24個のアウトのうち、16個も奪三振で奪えば、そんな空気にもなるか。
いかに少ない球数で、しかも武史のスタイルでアウトを取るか。
考えて疲れた樋口も、ここでバッテリーごと交代する。
7-0という圧勝の数字。
武史がほぼ完全に抑えてしまったため、数字以上の差を感じる。
「ここは毒島じゃなくて峠を」
角山は毒島には待機を命じる。
左のパワーピッチャーである武史の後に、スピードの劣るパワーピッチャーである毒島を使うのはよくない。
もっとも毒島の場合、ナチュラルに手元で動く球が、バッターにとっては厄介なのだが。
九回だけなら直史に投げさせても、30球以内に収まるな、と悪魔の思考が角山の脳裏を過ぎる。
だがここはやはり、経験も豊富で安定感のある峠に任せる。
右の技巧派であるが、基本的には低めのコントロールで勝負し、ストレートのMAXも速い峠。
空振りでしっかりストライクを取り、ボール球も少ない。
パワーピッチャーの後の技巧派のピッチングに、台湾は太刀打ちできなかった。
7-0のスコアのまま、日本代表は決勝に進出。
明日のもう一つの準決勝である、アメリカとドミニカの試合の勝者と、決勝を戦うことになった。
これでもしアメリカが勝てば、三大会連続で決勝は同一のカード。
ますます野球の世界大会としては、立場が微妙になりそうなWBCである。
WBCには予告先発がない。
だがおおよその人間には、予想がついている。
いや、期待している。
前々回のWBCの最高視聴率を叩き出したのは、日本の優勝の瞬間であった。
即ち、直史による完封。
常識的に考えて、球数制限から、完投など出来ないというのに。
二本のヒットを打たれ、エラーも一つありながら、二桁三振のマダックス。
世界大会の決勝でこんなことをやられて、主催国は恥ずかしくないのか。
だがその次の大会も、上杉から峠というスターズコンビの継投で優勝を果たした。
前回は直史にMVPを取られたが、この大会では大介がやっとMVPを取れた。
準決勝も点差があって楽だったとは言え、その直史を使わずに充分な期間を空けてある。
だからここで使わずに、どこで使うのかという問題になってくる。
日本と台湾との準決勝の翌日、アメリカとドミニカの準決勝。
3A中心とはいえNPBでも通用しそうなレベルの選手を中心に、アメリカは妥当に決勝に進んできた。
予定調和にも思えて、日本代表はやや気が抜けてしまっている。
佐藤直史が先発する。
あの大学時代のWBCに、そして一年目の実績。
シーズンMVPと日本シリーズMVP、ついでに新人王などを軒並受賞した直史は、高校二年生の春に、甲子園でノーヒットノーランをして全国区の選手となった。
そこからチームとしては負けても、直史自身が負けた試合はない。
大学時代に無敗で、プロ一年目も無敗。
積んでるエンジンの出力や、シャーシの強度ではなく、コンピューターの処理がおそらく他の選手とは違う。
それとバッテリーを組む樋口も大概だろうが。
日本シリーズはそれでも、本人的には苦労したものであったろう。
だがこの決勝は、何も憂慮する問題はない。
球数制限は100球。そして相棒は樋口。
樋口が怪我をした時のため、竹中や山下ともそれなりにブルペンでは組んでいる。
これが本当に、現役バリバリのトップメジャーリーガーなら、まだしも勝機はあるだろう。
だが若手中心でそろえたチームで、直史を打てるとは思えない。
若手選手にもっとも足りないもの。
それは経験であり、経験があればある程度は、直史のコンビネーションにも対応できるかもしれない。
楽観的な見方だろう。
アメリカチームに関しては、マイナーでの映像やデータが存在するし、これまでの試合のデータも充分にある。
データの存在する相手となら、いくらでも戦いようがある。
アメリカチームが勝つためには、まず直史をマウンドから降ろさないといけないだろう。
即ち待球作戦だ。
だがわざわざWBCにまで出てくるような、アピールに熱心な若手が、そんな地味なことをしてくるはずもない。
直史は去年一年は働いたが、その前に働いたのは大学生の頃にまで遡る。
クラブチーム時代のことは、さすがに手に入らない情報だろう。
前々回のWBC、直史は三試合に投げている。
だがこの情報がさほど役に立たないことは、はっきりと分かっているだろう。
勝てるだろうな、とホテルでのミーティングをしていた日本代表に、訪問客があった。
「おっす」
現在フロリダでMLBのキャンプ中のはずの大介であった。
「なんだ、もう戦力外通告受けたのか?」
直史の遠慮のないからかいであるが、大介としては確かに本当なら、この時期はアピールに重要な時期のはずだ。
「いや、もう紅白戦とオープン戦で俺のアピールは充分したし、あとは他の選手に機会を与えようかなって」
余裕である。
大介の思考はある程度の傲慢さはあるが、現実的でもある。
自分自身がもう充分と感じたなら、他の選手が首脳陣の目に入る機会を作るべきなのだ。
「つーわけで今回は完全に、一応援客になるんで」
「変装して一本ぐらいホームラン打っていったらどうだ?」
悟や緒方なら、身長差もあまりない。
もちろん冗談ではあるが。
「まあ今さら俺が言うまでもないと思うけど、やっぱりこっちでも一人だけは注目されてるバッターがいるからな」
「三番だろ?」
「そそ。今年中にはメジャーに上がってくるだろうって言われてる、トロントの選手ね」
別に偵察とかいうわけでもないが、大介としても自然と耳には入ってくるのだ。
なんでこいつがまだマイナーなんだ、という選手は確かにいる。
球団の編成の事情により、開幕はマイナーで故障者でも出たらすぐにメジャーに上げる、という選手はいるのだ。
この選手の場合は、ユーティリティプレイヤーすぎたという理由がある。
単純にポジションが決まらなかったのではなく、大学の期間中にはアメフトと野球の二つから、ドラフトの指名を受けていた。
そして野球を選んでからも、ピッチャーで使うかバッターで使うかを迷っていたというのだ。
「中学卒業の時点からMLBのスカウトが動いていたってぐらいだから、まあ才能はすごかったんだろうな」
そう言う大介の声音には、珍しくも嫉妬の色が見えていた。
中学時代の大介は、無名どころの騒ぎではない。
中学軟式でレギュラーですらなかったのだから。
「パワーとかスピードとか、フィジカルな面は確かに凄かったな。それにバットコントロールも上手かった。けどそれだけだ」
直史としては確かに、脅威度は一番高いバッターだなとは思っていた。
だがフィジカルエリートというのは直史にとって、一番与しやすい相手である。
あとはどれだけ、センスがあるかだ。
単なるフィジカルであれば、問題にはならない。
だがそこにインスピレーションがあると、少しは厄介になってくる。
それでも本能を抑えることが出来ないのなら、直史ならば打ち取れる。
問題は上手く球数制限内に収められるかどうかだ。
大介の激励と言うには、あっさりとした挨拶を聞いて、特に日本代表のメンバーは奮い立つこともない。
普通にやって、普通に勝とうという意識がある。
この舞台はもう、特に憧れの場所でもなんでもないのだから。
WBCの決勝戦は、開催国アメリカが決勝に残っているだけあって、ちゃんと観客は集まった。
だが単純にアメリカを応援するには、ここ最近の国際戦の成績が悪すぎる。
MLBのスーパースターも登場しない。
野手ではかなり将来有望な選手もいるが、ピッチャーはそれほどの選手もいない。
日本との打撃戦になって、どうやって勝つか。
しかし昔からのWBCを観戦しているファンは、日本側の先発を見て「Wow……」とため息をつく。
今年は上杉と白石がいない。
だから勝てる可能性がかなりある。
だが佐藤が戻ってきていた。
あの悪夢のようなWBCの決勝戦。
球数制限があるこの大会で、まさか決勝戦を完投完封で勝つピッチャーなどがいるとは思わなかった。
しかもその選手は、プロですらなくアマチュアであったのだ。
ただアメリカ人でも、純粋に直史を見たいという人間はいる。
その一画は日本人と、そしてアメリカ人でも直史を知っている人間が集まっていた。
かつてワールドカップで、直史のピッチングを見た者たち。
イリヤと愉快な仲間たちである。
もちろんこの決勝では、客席でパフォーマンスをすることなどない。
だがショービジネスのスーパースターが集まり、談笑しながら試合の開始を待つ。
そこにツインズや瑞希もいて、大介を解説役に観戦しようという手はずであった。
なお恵美理は来ていない。
この時期は仕事が立て込んでいたためであり、どうせ準決勝にしか武史は投げなかった。
もっとも直史も彼女にとっては義兄であるので、応援しても良かったのだろうが。
「でもこんなものは持ってきました」
「じゃじゃん」
ツインズがトランペットを取り出す。
すぐ隣に世界的なトランペット奏者がいたりするが、やりたいようにやるのがツインズである。
(実際のところ、どんな感じになるんだろうな)
直史がMLBのマウンドにも対応できることは、大学時代の実績で分かっている。
またボールに関しても、その時に対応している。
しかしあれから時間が経過し、アメリカの野球も進歩か変化はしているはずだ。
直史のピッチングが全く通用しないというのは考えにくいが、今ならばどう見られるのだろうか。
そしてこの中に紛れ込んでいる、セイバーとしては複雑であった。
既に今年のオフに、直史をMLBで取ることは決めている。
問題は他のチームから変な横槍が入らないかだ。
アナハイムは彼女が、直史のために調査して選んだチームだ。
そしてチームの編成なども、今年は無理だが来年以降は、優勝を狙える戦力がそろっていくはずなのだ。
(少し早めのお披露目だけど、頑張って)
とりあえず嫁を連れてきているので、最低限の仕事はしてくれるだろう。
そしてセイバーの分析によると、その最低限で、この試合は充分なはずであるのだ。
WBC決勝戦。舞台はトロールスタジアム。
MLBのスタジアムの中でも、屈指の収容数を誇る。なんとその数は56000人。
元々ファールゾーンなども広く、ホームランが出にくくて投手有利の球場とは言われている。
それだけにセイバーも、まさかパーフェクトなどでもしてくれるのかな、などと期待したりもする。
もちろん直史は、それにこだわる人間ではない。
必要なのは、勝つことだけだ。
セイバーもいつの間にか、直史には人間離れのパフォーマンスを、自然と望むようになってしまっていたらしい。
瑞希はまたメモを握り、試合が始まるのを待つ。
直史はさほど乗り気ではないと、彼女はもちろん知っている。
だがそれでもこの大会も、直史の残す足跡の一歩ではあるのだ。
NPBの歴史において、直史は二年間しか記録されないはずだ。
だがその二年間の濃密さを、他の人々にも伝えなければいけない。
瑞希はそれが、自分の使命であると確信しているのであった。
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