第73話 バッテリー
三回の裏、レックスの攻撃は二番の緒方から。
大原はこの緒方を、しっかりと内野フライで抑えた。
初回に調子の上がらないことの多い大原は、かなり武史とタイプは似ている。
今年、ライガースの負け頭であるが、借金は一つもない。
12勝12敗というのは、たとえ序盤で失点しても、そこからしっかりと調子を取り戻してくるから、残される記録なのだ。
ネクストバッターサークルから立ち上がった樋口は、直史の怒りの視線をベンチから感じている。
基本的に直史は他人のミスに寛容であるし、怠慢プレイでも評価を下げるだけで何かをねちねちと言う事はない。
だが樋口やごく少数の、期待している人間に対しては、色々と話をしてくる。
それは単なる指摘であったり確認であったりするが、今日の場合はそれとは違う。
(まさか、嫉妬か?)
それはない。
だが惜しい。
直史としては樋口は、数少ない自分と「対等」の存在であった。
他に対等と認められたのは、大介ぐらいだ。それと、指揮官としてのジン。
付け加えるならWBCの時の上杉。
あとは岩崎、武史、アレク、西郷など、今のNPBのトップレベルの選手や、MLBで通用している選手も、無意識下で下に見ている。
傲慢と言うよりは、ほぼ正確な戦力評価である。
期待していない者には怒りは湧かない。
期待していて、そして戦う相手が強いからこそ、味方が不甲斐なければ怒りが湧くのだ。
これが普通の選手であれば、単に失望するだけで済む。
樋口はここまでの直史の心情を理解しているわけではなかったが、己の集中力の不足には、さすがに気づいていた。
既に三点のリードをしていて、投げているのは直史。
ここいらでほぼ、試合の勝敗自体は決まったと言えるだろう。
直史は大介を相手には、絶対に油断しない。
そういう意味ではもちろん、まだ完全な安全圏ではない。
ここからさらにライガースに出血を強いるなら、大原をもっとボコボコに叩いて、使わないはずの投手陣まで引き出す必要がある。
ライガース首脳陣がいくらこの試合を捨てたとしても、せめて試合として成立しているぐらいの見栄えは必要であろう。
大量点差をつけたなら、さすがに直史も休ませることが出来る。
首脳陣は直史を、第一戦と最終戦で使うつもりであるが、もしも早めにマウンドから降ろすことが出来たら、クローザーとしてどこかで使えるかもしれない。
なんだかんだ言いつつ、首脳陣は選手が壊れることを避けるより、勝つことを優先する。
それがプロの姿であり、実際直史も、上杉の故障については仕方がないだろうと理解している。
実際のところは上杉の価値を理解していないため、それは勘違いでしかないのだが。
ここで一発を狙うか。
それでもいいのだが、それは樋口らしいと言えるのか。
直史が求めているのは、いつも通りやれ、というものだろう。
いつもの樋口であれば、むやみにホームランなど狙わない。
(ワンナウトだしな)
続くバッターのことを思えば、ホームランよりも大きく大原にダメージを与える方法はある。
完全に崩してしまって、ついでに来年以降にもレックスに、苦手意識を持たせておきたいものだ。
それに次の四回の表には、大介の二打席目が回ってくる。
ゾーン内の難しい球を、軽く打ってヒットで出塁。
本当ならフォアボールで大原の調子を完全に崩したかったのだが、ストライク先行で投げてくるなら仕方がない。
そして大原のフォームの特徴から、完璧な盗塁を決める。
浅野に対して投げたボールは外して、すぐにキャッチャー孝司は二塁へ投げたのだが、いかんせん大原のフォームは大きいため、それだけクイックも遅くなる。
また樋口は散々に映像を調べて、ピッチャーの特徴もしっかりと頭に入れている。
その気になれば、盗塁王を取れるキャッチャーではないのか、などと言われたりもする。
だが樋口は成功率を高く設定しているため、ここぞという時か走りやすい時以外は、あまり走らないようにしている。
それでも今年も、20個以上の盗塁を記録しているのだが。
ワンナウト二塁になったが、樋口のリードは大きい。
まさか三塁まで狙っているのかと、ライガースバッテリーは配球に制限をかけられる。
ストレート系に絞るならば、浅野なら打つだろう。
そして思惑通り、右方向に今日二つ目の大きな外野フライを打つ。
ライトは後退してキャッチしたが、樋口はらくらくタッチアップで三塁へ。
これでパスボールでもなんでも、一点が入る状況を作り上げる。
(ただここで本当に打てるのか、微妙なんだよな)
レックスの打線においては、上位打線で確実に点を取る。
五番以降は一発を打つタイプが多いのだ。
六番の小此木まで回れば、また話も変わってるだろう。
だがこういう状況では、思ってもいないことが起こったりするのだ。
平凡な内野フライト見えたものが、意外とスピンで伸びていく。
そしてポテンと落ちてヒットになった間に、当然のごとく樋口はホームを踏む。
これにて四点差となり、より大介とは戦いやすくなっただろう。
ベンチに戻ってきた樋口に、直史は左手を上げた。
パンと互いの手のひらを合わせて、バッテリーは次のイニングのことを考え出す。
四回の表が始まる。
先頭打者は一番の毛利で、つまりそれはここまで、直史が一人のランナーも出していないことを示す。
ポストシーズンにおいてノーヒットノーランが達成されたのは、過去に一度だけ。
そしてパーフェクトは一度もない。
まだ一巡目が終わっただけなので、まさかと思っている者が多いだろう。
だがもしもそんなことをやってしまうなら、直史であろうとも思うのだ。
ライガース打線を相手に、パーフェクトピッチング。
それはそのまま、不可能の同義語とでも言うべきだろう。
キャッチャーボックスに座った樋口は、視界がクリアになった気がする。
いつもの自分だ。それが感じられれば、これまでがどれだけおかしかったかも分かる。
(ピッチャーとしては狙うつもりはないだろうが)
樋口は直史の口から、パーフェクトやノーヒットノーランの言葉を聞くことは少ない。
当たり前のように完封をしていくのが直史だ。
直史が記録を残していくと、それだけ樋口も記録は多くなっていく。
キャッチャーとしてはリードしているだけで、相手を0に抑えてくれるありがたいピッチャーだ。
オールドルーキーは間違いなく、レックスのエースとなっている。
投げれば負けないエースというのは、チームにとっての大黒柱になる。
直史自身はそうなることを、望んではいないようであるが。
頭をすっきりさせた樋口のリードによって、一番の毛利を内野ゴロに打ち取ると、二番の大江は三振。
ツーアウトにした場面で、本日二打席目の大介である。
(四点差でツーアウトか)
この試合自体は、もう決まったようなものだ。
大介にしてもおそらく、四打席目は回ってこないだろうなと確信している。
直史のピッチングが全くさび付いていないどころか、むしろ円熟味を増しているなどと、さすがの大介も去年の五月の時点では、分かっていなかった。
真っ向勝負をしてくれる相手がほしい。そしてそれよりも単純に、直史と本気の勝負がしたい。
そう思っていたものの、実際には完全にボコボコにされているだけである。
ライバルなどと思っていたのは、自分の傲慢であったのか。
直史のやっている野球というのは、この日本やアメリカでやっている野球とは、何かが根本的に違うのかもしれない。
今の大介が考えるのは、とにかく直史を打つこと。
試合の負けが見えているだけに、余計に自分一人の勝負に集中することが出来る。
(この試合は負けた)
それは認めよう。
(だが単なる負けにはしないぞ)
大介はそう誓っている。
このファイナルステージで直史ともう一度対決するには、二戦目以降を三勝しなければいけない。
あともう一度負けることは出来るが、そんな覚悟では第六戦まで勝負を伸ばすことは出来ないだろう。
確かにライガース打線は強力であるが、レックスも武史や金原、佐竹、古沢、吉村といったあたり、ライガースをある程度抑えるピッチャーは揃っている。
レックスは三勝したら日本シリーズ進出。
ライガースの投手陣が完全には回復していない状態では、レックスとぶつかっても、向こうもそれなりの得点力はあるのだ。
(この打席で、パーフェクトは終わらせる)
強く念じる大介に対して、直史は樋口のリードそのままに投げる。
初球はカーブから入った。
大きく角度のあるカーブは、大介であれば当てることは出来た。
しかしこれだけ落差があると、ストライクカウントを取ってもらえない。
ボール球から入って、次は何を投げてくるのか。
投げられたストレートは、インローぎりぎりだ。
大介はそれを打ったが、打球はライト方向の客席の中に入っていく。
今のはもっと力を抜けば、ライトのポール際に入れることが出来た。
そう、あのストレートなら打てたのだ。
だが打てなかったのは、意識の外にあったボールであったからだ。
(アウトローとインハイの組み立てかと思ったが)
そして三球目には、チェンジアップがきた。
高めから低めに、落差のあるチェンジアップ。
大介はバットを止めたが、これはストライクにコールされた。
ファールを打たせて、緩急を使って追い込んだ。
まだここからボール球は、二球も使うことが出来る。
(来るか?)
直史は無駄球を投げる人間ではない。
遅い球でカウントを取ったのだから、最後には速い球を使うだろう。
素直に考えればスルーを使ってくるが、あるいは高めのストレートでフライを打たせてくるかもしれない。
速い球でも、浮かぶような速い球と、沈む速い球を持っている直史は、決定的にコンビネーションの幅が広い。
沈むチェンジアップを使った後なのだから、普通ならストレートと考えるだろう。
だが普通には投げてこないのが、このバッテリーである。
頷いた直史が投げてきたのは、これはストレートだと、頭の中で判断する。
だが直感が違うと言っている。
途中までは同じピッチトンネルを通りながら、そこから急激に減速する。
スルーチェンジに対して大介は、倒れこむようにしてバットを遅く出し、どうにかカットしていった。
うつ伏せになった状態から立ち上がり、ユニフォームの土を払う。
速い球を待っていたところにきた遅い球を、カット出来たのだ。
ならば次は何を投げてくる?
大介の粘りに対して、直史は辟易としたりはしない。
これでこそ、という大介の粘りであるのだ。
大介はホームランを量産するスラッガーだが、同時に三振の極端に少ない選手だ。
それこそ完全に裏を書いても、まだ粘ってカットしてくる。
ボール球を二度投げることが出来る。
これが右打者相手であれば、今年は決め球に多く使っていたスライダーを投げるのだが、大介は左打者だ。
高速シンカーを使っても、おそらくはカットされる。
自分でも考えつつも、直史は樋口のサインを待つ。
樋口としてもあのチェンジアップを、カットされるのは誤算であった。
どれだけの粘り腰なのかと思うが、そう簡単に打ち取れると思う方が間違いなのだ。
出来ることならここも凡退させ、パーフェクトを継続させていきたかった。
直史以外のピッチャーが、ライガースの心を折るのは無理だからだ。
この二年、レギュラーシーズンでは優勝していても、プレイオフでは逆転を許していた。
シーズンは勝つことが出来るが、短期決戦では負ける。
大介のパフォーマンスがアップするからであるが、それでもどうにかして見せるのが、キャッチャーの役割である。
(とは言っても、今はピッチャーに頼むしかないわけだが)
遺憾ながら樋口のリードでは、確実に大介を封じることは出来ない。
直史に要求したのは、スローカーブであった。
これもまた、打とうと思えば打てる球であったが、大介は見逃した。
懐まで待ち構えて打つというタイミングが、自分の中になかったからだ。
緩急を使われると、なかなか最後まで勢いよくバットを振るのは難しい。
大介は普段の構えより、やや腰を落とす。
このフォーム変更の意図は何か、とバッテリーは考える。
打った瞬間にはダッシュが付きにくそうな構えだ。つまり長打にリソースを割いている。
タイミングではなく、これは間合いで打つ構えだ。
そこまではなんとなく予想した樋口であるが、そんな打ち方をする選手は他にいない。
究極の反応で打つ構え。
だがそれならば、こちらにもやりようはある。
スルーに対しては、間合いを計っても打つことは出来ない。
あれは沈みながら加速するという、体感を騙すボールだからだ。
しかしこの構えで、それを誘っているのかと思えなくもない。
樋口の迷いに対して、直史は自分の方からサインを出す。
セットポジションから、ゆっくりと投げられるボール。
しかしリリースの瞬間には、体の連動と指先の力で、はっきりとパワーは伝わっていた。
じっくり待っていた大介は、それに襲い掛かる。
ストレートを弾き返した。
センターの西片がバックしていくが、追いつくことは出来ない。
グラウンドにそのまま着地する、クリーンヒットであり長打である。
そして大介にとって、初めて直史から打ったヒット。
あと少しミートが出来ていれば、バックスクリーンまで持っていくことが出来ただろう。
だがわずかに、ボールの力が大介の予想を上回っていた。
スタンディングダブルのヒットであり、大介は球速の表示を見る。
直史のほぼMAXである、152km/hが出ていた。
つまり今のは、真っ向勝負であったのだ。
(打つには打ったけど、勝ったとは言えないな)
それでも完全に暗闇であった場所から、ようやく抜け出したという感覚はあったが。
樋口はマウンドに駆け寄り、肩をすくめた。
「あれでも打つんだなあ」
「ストレートかそれ以外かで待っていた気もする」
「だけどストレート以外なら、バックスクリーンに放り込んでいただろうな」
「まったく……あれだけ組み立てておいて、まだ打ち取れないのか」
直史としては、この結果は許容範囲内だ。
だが理性はそう判断しても、感情としては悔しさが大きい。
ツーベースヒットだ。よりにもよって、この大舞台で打たれた。
ライガースは直史に対して、初めて得点圏にランナーを進めたことになる。
「次はせごどんだ。油断するなよ」
「お前もな。大介なら走ってきてもおかしくない」
三塁に到達すれば、ツーアウトからでも得点の確率は上がる。
エラーなどでも確実に、一点が入ってしまうのだ。
点差が既にあってよかった、と直史は判断する。
それでも悔しいことは悔しいのだ。
たった一度でもいいから勝ちたいと思っていたピッチャーは、たった一度でも負けたくないと思うピッチャーになっていた。
トーナメントなどならそもかく、年間に何十試合も行うプロの世界では、直史の負けず嫌いは害に転ずる可能性もある。
一点を取られることはいい。
だが一度でも負けてしまえば、そこでぷっつりと切れてしまうのでは。
樋口はそう思いながら、西郷への配球を考えていく。
やっと背中が見えたぞ、と大介は感じる。
これまでなんだかんだと、のらりくらりノーヒットに抑えられてきたが、やっと届いたのだ。
ここから他のチームメイトが、どうやって打っていくか。
正直そこまでは、大介も分からない。
(まさか、これで集中力が切れるなんてことはないよな)
もちろんそんなことはない。
カーブで泳がせて三振を取り、大介は三塁に進むこともなかった。
盗塁しようにも、バッテリーに隙がなさすぎた。
(それにしても、今でいくつだ?)
奪三振が、今日の直史は多い。
今の回も結局、二つの三振を奪っている。
プレイオフでのパーフェクトは防いだ。
球数もそれなりに投げさせている。しかし嫌な予感は止まらない。
(次で俺が打つしかないぞ)
大介はそう思いながらも、グラブをもらって自分の守備位置に走っていくのであった。
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