第72話 冷徹なる怒り
一回の表を三者凡退でしとめた直史であるが、不安は尽きない。
樋口の様子が、おおよそ普段の30%ほどしか頭を動かしていないように思える。
上杉の情報を聞いてからずっとこんな感じであるが、少しずつマシになっているなとは思う。
(この試合の間に元に戻らないと、他のピッチャーをリードできないぞ)
今のレックスのピッチャーは、主力のかなりが樋口と同年齢以下だ。
吉村は年上であるが、そのリードなどは多くを樋口に頼っている。
現在ベンチに入っているのは、かつては長らく正捕手を務めていた丸川と、大卒二年目の岸和田。
岸和田は一軍と二軍を行ったり来たりしているが、基本的にはチームの二番手キャッチャーだ。
樋口がキャッチャーとしてあまりにも安定しているため、あまり出番がやってこない。
なので鈍らないように、時々二軍に降りては試合勘を失わないようにしている。
一軍でも代打で出ては、それなりに打点を稼いでいる。
もっとも樋口は打撃でも突出しているので、いっそのことコンバートするべきかという話まであったりする。
大原を第一戦の先発に持ってきた意図を、直史はほぼ正確に理解している。
ライガースで一番タフな大原を、この試合完投させる。
敗北することや、大量点を取られることは考慮せず、とにかくここで一日投手陣を休ませる。
さらには直史と噛み合わせることで、一番強い札を処理することが出来る。
それでいてライガースの打線は強力なので、多少の点差では直史を早い回に引っ込めることは出来ない。
(毛利に粘られたのが、それなりに痛く見えてるかな?)
たったの六球であるが、その後とも合わせて一回の表は14球を投げた。
おおよその試合で100球以内で終わらせてしまう直史にとっては、ほんの少しだが多めの球数だ。
この第一戦と、第六戦に投げる覚悟はしている。
だが他の試合で一つでも勝つためには、樋口の力は絶対に必要だ。
今日はもう、自分一人でも戦う覚悟を決める。
それでもまだ目を覚まさないなら、後頭部を殴りつけるしかない。
今の樋口の相棒は自分なのだ。
一回の裏、レックスの攻撃。
先頭の西片は大原のボールを一球見た後、二球目にドラッグバントを仕掛けた。
これぞベテランの味という打球の殺し方に、さほどフィールディングの上手くない大原に、足は遅い西郷が重なり、見事にセーフ。
三児のパパ、頑張りすぎである。
立ち上がりがあまり良くない大原を、初回から攻略する。
体格の割に長打も打てる、攻撃的二番の緒方がバッターボックスに入る。
大原はクイックもあまり速くないので、盗塁を仕掛けてみるのも悪くはない。
だがここでの西片は、やや大きめのリードを取って、大原の集中を乱すことに専念する。
送りバントをしても、おそらく一塁が空いてしまえば、樋口は敬遠される。
一回の裏からそんなことをするかと思うが、少なくとも敬遠気味の勝負になるだろう。
そのまま打っていい。
ベンチからのサインに、緒方はしっかりと応える。
軽く引っ張った打球はレフト前へ。
これでノーアウト一二塁である。
そしてレックスのバッターは、今年もベストナインやゴールデングラブ賞などが確実であろう樋口。
バッターとしてはほとんどの部門で、チームナンバーワンの成績を残している。
勝負強さにおいては、あるいは大介以上ではないかとも言われる樋口。
確かに勝負どころで特に打つようにしているので、それも間違いではない。
ベンチのメンバーもほとんどが期待しているが、直史だけは心配している。
(キャッチャーとしては70%減だとして、バッターだとどうなる?)
脳みその違う部分を使ってくれていたらいいのだが、あまり期待はしていない。
とりあえずダブルプレイにさえならなければ、それでいいだろう。
そう思っていた直史の目の前で、初球のスライダーを空振りする。
樋口が初球を空振りするのは珍しい。得意なのは初球攻撃であるが、同時に初球は見逃していくことも多いのだ。
直史はベンチを移動し、横に座る者に囁く。
「岸和田、準備しておいてくれよ。多分今日のケントは、色々と残念なことになってる」
直史に声をかけられたことも、そしてその言葉の内容も、岸和田にとっては驚きである。
だが高校時代には「若頭」などと言われた強面のキャッチャーは、強く頷いていた。
樋口は深呼吸して、自分の状態を確認する。
だがやはり、普段とは違う部分を認識できない。
これは重症だと思って、自らサインを出す。
そのサインは意外すぎたが、直史としてはやっと冷静になってきたか、と思えるものだった。
基本的にストレートで押していくことが多い大原に対して、投げられた瞬間に樋口は、バントの構えをした。
まさか、どうして、という表情がライガース側の守備陣に浮かぶ。
突っ込んでくるファーストとサードだが、樋口の打球は上手くサードの横、ショート方向へと転がる。
先頭西片のドラッグバントの意識が、まだ頭の中にあったのか。
追いついたサード黒田は、そのままボールをファーストへ投げようとして、大原がまだカバーしきれていないのに気づく。
黒田は走る大原へ、ボールを速めに投げる。
間に合うかどうかというタイミングだが、大原はそのボールを弾いてしまった。
転がっていくボールを見て、西片は三塁を回る。
そのままホームに滑り込んで、まずは一点先制。
緒方は三塁へ、そして樋口は二塁へ。
意表を突く攻撃をするのは、兵法の基本ではある。
だが樋口がバントをするなどというのは、プロに入ってからの初期を除けば、本当にないことである。
しかしレックスのメンバーは知っている。
ただでさえやることが多い捕手なのに、樋口はバッティング練習の時に、バントの練習までしていると。
打撃は水物であるから、いざという時には足を使っていく。
動揺しているくせに、こんな手段を選んでしまうあたり、やはり樋口は油断のならない男である。
せめて確実にやれることは、送りバントであろうと判断していた樋口だ。
それが相手のミスによって、先制点をもらえた。
なおランナーは二三塁と、絶好のチャンス。
そして四番の浅野の出番である。
ここに必要なのは、外野フライ。
分かっていても、外野フライを打つことに専念した四番を、抑え込むことは出来ない。
打球はレフトに、充分な飛距離。
緒方がタッチアップして、これで二点目が入った。
「悪い。やっぱり出番ないかもしんない」
直史は岸和田にそう言って、ヤクザのような視線で睨まれた。
初回で二点を取られても、ライガース側ベンチに動揺はない。
そしてマウンドの上の大原にも、動揺はない。
今日の試合は全て、大原に託されている。
どうしようもなくなったら敗戦処理に用意されたピッチャーに代わることはあるだろう。
しかし勝ちパターンのリリーフは、絶対に使われない。
ツーアウトまでを取ったが、打順を六番まで上げている、ルーキー小此木がバッターボックスに入る。
甲子園でも活躍し、四巡目指名ながらも一年目から活躍し、スタメンをほぼ確定させている。
プロに入るまで甲子園を踏むことはなく、一年目二年目と下で鍛え続けた大原とは、全く正反対の華々しい経歴だ。
いやお前も高卒三年目から活躍の場があって、タイトルも取ったではないか、と言っても意味はない。
劣等感というのは、そう簡単にぬぐえるものではないのだから。
対する小此木としては、大原のような選手には尊敬の念しかない。
甲子園に行きもせずに、それでもその素質を評価されて、高卒投手が四位指名。
そしてそこから二軍で結果を出して、三年目からはローテ投手となり、タイトルも獲得。
お互いに、隣の芝生は青いというものだ。
今日の試合、レックスは当然のように勝たなければいけない。
レギュラーシーズン無敗の直史が投げているのだから、勝って当たり前なのである。
たとえ相手がライガースで、直史が一番力を入れて投げる相手であっても。
二点もあれば大丈夫、などとは言わない。
小此木としても、来年から確実にスタメンで使われるためには、勝負強いところも見せておかなければいけない。
名門帝都一において、甲子園に出場した小此木は、大舞台には慣れている。
いい意味で高校時代のメンタルをそのままに、今年のシーズンを戦っている。
一年を通じて戦うには、まだ体力のみならず、ペース配分などとも分かっていない。
しかし今年は、もうプレイオフだけだ。
全力でプレイしてしまって、全く問題はない。
大原の球威に押されたものの、ボールはセカンドの頭上を越えた。
三塁の樋口が戻ってきて、これで三点目。
一塁ベース上で、ガッツポーズをする小此木であった。
ライガースはこの試合は捨てている。
捨てた上で、直史を削ろうとしている。
だが全ての選手が、それに納得しているわけではない。
西郷もその一人だ。
典型的な九州男児である西郷は、直史を相手にしても、そのスイングが諦めてしまうことはない。
直史もまた、西郷ならばそうだろうな、と最初から理解している。
初球のスライダーを投げれば、そのボールはど真ん中から、明らかにボール球へのコースへ軌道が外れていく。
盛大な空振りをした西郷であるが、しっかりとそのままフォロースイングもしている。勢いに任せて転がることもない。
散々直史の変化球で、大学時代は練習をしてきた西郷である。
いくら六大リーグの記録を破ったホームランバッターでも、プロではどこか落とし穴があるのではとも言われていた。
だが実際は完全に、一年目からクリーンナップとしてライガースの打撃を支えた。
金剛寺の引退後は、そのまま四番へと。
大介が勝負を避けられた時は、彼が大介を帰していたのだ。
西郷は基本的に、外角を打つための練習をいつもしている。
圧倒的なパワーを誇る西郷に、内角で勝負するのは危険であるのだ。
だが二球目、西郷に投げた球はインハイ。
樋口のリードはインローであったが、直史はあえて危険なインハイを投げた。
ここでボールはバットに当たって、そのままバックフェンスへ。
これにてツーストライクとカウントはすぐに追い込んだ。
スライダーの後にストレート。
ここで遅い球を投げてきたら、タイミングに対応できるか。
直史の投球割合的に、カーブを投げてくる可能性が高い。
そのカーブにタイミングを合わせたら、ストレートは打てるのか。
投げられたその球は、リリースの瞬間はストレートに見えた。
内角のストレート。だがバットを動かした瞬間に悟る。
ボールが来ない。チェンジアップだ。
そのまま振り抜いた西郷だが、ボールにバットが当たることはない。
三球三振で、第一打席を終えてしまった。
(こいつマジか)
自分がいつも通りの精神状態でないことを、ようやく実感してきた樋口である。
だがそんな樋口に対して、直史は自分でコンビネーションを組んでいる。
樋口の考えるものに近いが、安全マージンはより多い。
ただ西郷に対して、三球勝負というのは意外であった。
直史は合理と節約を己のピッチングで表現する、技巧派のピッチャーである。
ただし本格派を自称してもいいほどのMAXストレートを持っているし、切れ味鋭い変化球も持っている。
本格派としてのピッチングを、しようと思えば出来るのだ。
今の西郷の三振は、まさにそれを思わせるものであった。
そのくせ最後の決め球が、チェンジアップというのは。
本格派であっても、緩急は必要である。
その緩急を直史は、しっかりと正統派のチェンジアップで使ったのだ。
おそらく西郷は、レギュラーシーズンで対決した直史との、違いを今は感じているだろう。
次の打席にどう対応してくるか、まさに見ものである。
ただ樋口は、そんな見ものだなどと言っていられる立場ではない。
サイン通りに、直史は投げてきた。
しかし決め球は、空振りが取れる球を選択する。
三振にこだわっているかのようなピッチング。
確かにどうせ三球で終わらせるなら、ゴロやフライより三振の方が、事故が起こる可能性は低い。
残りの二人も、二球で追い込んでからは三振。
結局この回は、三者連続で三球三振であった。
無表情でありながらも、帽子を取って頭を振る。
ベンチに戻る直史に対して、神宮のお客さんは大声援を送る。
これもまた、計算の内なのか。
バッターのホームランは、一気に流れを変えてピッチャーをノックアウトするストレート。
それに対してピッチャーの奪三振は、そこまで派手なものではない。
だが三球三振を取られるというのは、それなりに派手なものだ。
加えてボディーブローを重ねるという、あちらの打線へのダメージもある。
そろそろライガースの諸君も思い出してきているのではないだろうか。
あの激戦であったスターズとの試合を制して、ここまでやってきた。
だがレギュラーシーズン中、直史からは一点どころか、一本のヒットも打てていないということに。
そんな直史に、二回の裏は打順が回ってくる。
しかしながら直史は、プロテクターでガチガチに固めた上で、バッターボックスの隅っこにいる。
もしも狙われたとしても、すぐに逃げられるように。
直史はシーズン中、打率は一割にも達していない。
野球選手として直史は、ひたすらピッチャーとしての役割しかしていないのだ。
二回の裏は、三者凡退で抑えたライガースの大原。
しかし三回の表は、まるでライガースにとっては処刑場のよう。
前のイニングのように、ごりごりと三振を取りに来るわけではない。
だがスローカーブを使って、タイミングは崩させている。
そこから最後にストレートなり、スルーなりを使ってくる。
するとまた、三振が発生する。
高校野球ではないが、どうにか粘ってきっかけをつかめ。
ライガース首脳陣としてはそう言うしかないが、まったく打開策が見えてこない。
七番八番と、追い込まれるまではバットに当たるボールがくる。
しかし三球目には、空振りを取る球が来るのだ。
カットも出来ない。
小技のきく石井でさえ、スルーを空振り三振した。
そして今度はバッターとして、直史と対決する大原。
打率も長打もそれほどでもないが、体が大きくパワーがあるため、実はホームランも打っている。
だが直史はそれに対して、カーブとストレートとチェンジアップだけで片付けた。
三者連続三球三振。
前のイニングから六連続となる三球三振である。
神宮球場が、盛り上がってきた。
次の四回には、大介との二度目の対決が回ってくるのだ。
しかしここまで、直史はパーフェクトピッチング。
しかも九個のアウトのうち、七つが三振である。
(怒ってるな)
それを承知の上で、声はかけない樋口である。
直史が怒っているのは、おそらく樋口が集中出来ていないからだ。
キャッチャーにはリードなどのインサイドワークを求める直史にとって、集中できていない樋口というのは、苛立つ存在なのだろう。
幸いにもこの攻撃には、樋口に打順が回ってくる。
そこで少しは、やる気になったのを見せるしかないか。
クライマックスシリーズファイナルステージ第一戦。
今までのところこの試合は、ほぼ直史の独り舞台である。
ここから共演者がどう出てくるか、直史自信がもっとも期待していた。
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