第57話 懐かしい場所
考えてみれば他校のグラウンドなどを除けば、アマチュア時代に直史が二番目に多く経験した球場は、甲子園ではないのか。
大学時代の神宮があるので、さすがに一番にはならないが、県内で行われる地方大会はある程度ばらけた球場で行われるので、本当にそうかもしれない。
高校球児にとっては目標であり、同時に魂の帰る場所でもある甲子園。
今では大学時代からの引き続きもあるし、神宮がホームだという認識がある。
だが練習で甲子園のグラウンドに立ったとき、帰ってきたな、と直史は思ったのだ。
もちろんただの感傷だとは理解した上で。
甲子園を経験した人間が、全てこんな感じになるわけもない。
だが直史は高校野球はやりきったつもりで、事実誰が見てもやりきったはずの実績を残したのだっが、ここには懐かしさを感じる。
夏の気配を色濃く残す、九月。
今年は残暑と言うには、まだまだ盛夏とほとんど変わらない暑さがある。
(体力はどうかな)
ライガースの山田はいいピッチャーだが、それでも16勝3敗と、直史とは比較するような数字ではない。
防御率もWHIPも、おそらくレックス打線なら何点か取ってくれるだろうとは思う。
ここまで21勝。
今日を終えて、あと一戦、先発が回ってくるかどうか。
本当ならライガースとのレギュラーシーズン対決は、これが最後になるはずであった。
だが雨天順延により、三試合が最後に回されている。
終盤は順延の試合が回っていることが多く、ある程度の間隔がある場合が多いが、対戦相手がコロコロと変わったりもする。
ただ最後の三連戦は、ライガースとの試合になっている。
登板間隔が空くため直史は、投げようと思えばそのライガース線、投げられる日程になっている。
ただ、首脳陣はどう考えているのだろうか。
23勝すれば、武史の一年目を抜ける。
ただそこまでして記録を残そうとは、考えていない直史である。
もっとも球団のフロント側から、出来れば直史に記録を作らせろという、要望は来ている。
直史が目立てば、レックス全体も目立つ。
ずっと東京の人気のない方と言われていたレックスは、その球団の母体も、どうしても宣伝力が足りない。
だが時代が変わり、地方球団はその地方で人気を得ると共に、優れた選手がいれば他の地方でも、ファンが増える傾向にある。
ネット配信は偉大だ。
なおこの変遷によって、全球団の中で一番人気が高いのは、ライガースになりつつあるらしい。
関東圏の新規ファンは、高校野球から上杉が持って行った。
彼のカリスマは球団の選手のみならず、ファンにまで及んでいる。
しかしピッチャーは毎試合登板するわけではないので、ある程度拡大も限定されている。
だが野手の大介は、ほとんどの試合に出場する。
スターズの試合は確かに地元のファンの人気を多くしたが、それでもライガースほどではない。
そもそもライガースは、元々ある程度の人気があったのだ。
地元人気でライガースに勝てるのは、おそらく広島だけであろう。
東京六大学野球で奪三振記録を更新した武史は、レックスの人気拡大に貢献した。
何よりそれから三年連続で、レックスはシーズン優勝を果たしているのだ。
もっともここでの貢献度は、樋口の方が高いだろうと直史は思っている。
樋口もそうだが、神宮で活躍した選手を、神宮の球団が取る。
これによって多くの大学野球ファンを、そのままプロに獲得できたらしい。
だが直史はそれを上回る。
神か悪魔か知らないが、直史の残した実績や数字は、甲子園でも神宮でも圧倒的だ。
佐藤兄弟がそろったということで、レックスの試合を見る価値は倍近くに高まった。
ここのところ成績がぱっとせず、内部のどろどろが見えているタイタンズから、乗り換えているファンはそれなりに多い。
それに神宮は高校野球ファンにとっても、神宮大会があるためそれなりの馴染みがある。
よって都内と埼玉では、タイタンズやジャガースからファンが流出しているのだ。
兄弟の出身地である千葉からは、なぜかそれほど流出していない。
ここのところ成績がいいということもあるが、マリンズファンは球団に優しいのである。
今日の直史は樋口と、ピッチングについて意見を交換している。
監督とピッチングコーチ、ヘッドコーチも同席しているが、戦略的なことしか話さない。
グラウンドの中のことは基本的に、バッテリーに任せているのだ。
「つーわけで絶対に避けるのは、ホームランだけだな」
樋口は冷静に、ピッチャーのプライドを考えず勝利だけを考えている。
そしてそれは直史も、おおよそ許容できることだ。
今日の直史が許容したこと。
それはフォアボールの可能性を排除しない、というものだ。
デビュー以来182イニングを投げてきて、いまだに直史のフォアボールの数は0と、常軌を逸している。
いちいち非常識なところが多いが、中でもトップレベルなのがこれだ。
無失点記録も、歴代の記録をほぼ倍まで更新した。
先発なので連続試合記録は届いていないが、連続イニング記録は軽く超えた。
直史はここまで、ライガースを完璧に封じている。
ただこれはどのバッターにも言えるのだが、ボールカウントが3になるのは、完全に意図的に避けていた。
フォアボールになる可能性を許容してもいいなら、フルカウントからぎりぎりボールに変化するところに投げて、バッターに振らせることが出来る。
「でもそれはプレイオフに残しておくべきだろ」
直史がこだわるのは、あくまでも勝敗。
樋口もそれには同意する。
首脳陣がやってほしいことは、ライガース打線に決定的なトラウマを植えつけること。
プレイオフに向けて対戦する上でも、精神的な優位に立ちたい。
何より今年、他のチーム相手には圧倒しているレックスが、ライガースにだけは負け越している。
強い先発のローテにあまり当たらなかったとも言えるが、金原、佐竹、武史、そしてリリーフ陣も豊田が逆転されている。
最後の壁として、直史には勝ってほしい。
直史が投げるなら絶対に負けないという、信仰を起こさせることを、首脳陣は望んでいる。
難しいことを、と直史は思う。
高校時代のトーナメントは、対戦する機会が少なかったし、相手に渡る情報も限られていた。
だがプロにおいては先発ローテのピッチャーは、20試合以上も投げることは多い。
また画像も大量に残っているので、そこからの分析も出来る。
あとは配球のパターンを、キャッチャーが読まれることもある。
樋口の場合はピッチャーやバッターに合わせて配球を変えているが、それでもリードはそこから逸脱することもある。
ここで、甲子園で、ライガースをボコボコにするということか。
「もう一試合、神宮で投げることはありますか?」
「そのあたりは……フロントからは投げてほしいと言われているが、最終的には現場判断だな。せっかくだから記録に挑戦したらどうだ?」
ルーキーの最多勝記録は、過去に30勝時代があるので、それを超えることはほぼ不可能だ。
だが、無敗でどこまで勝利を伸ばせるかは、まだ可能性がある。
ライガースに勝てば22勝目。
そしてもう一つ、先発するだけの日程の余裕はある。
「おそらくライガースはクライマックスシリーズに向けて、九月終盤の試合にエース級は出してこない。だがうちはそこで休めるから、27日あたりに投げればいいんじゃないか?」
可能ではあるし、確かに記録に残る。
あまり投げるのにインターバルを空けすぎるのも、むしろ悪いことである。
「記録を更新しても、あんまり旨味ないからなあ……」
これが直史の率直な意見である。
現在のプロ野球は、ドラフトの新人が入ってくる場合、契約金が一億、そして簡単な出来高で5000万というのが、最高額になっている。
直史の契約金は、色々と条件があるので5000万。
そして出来高は、防御率が2を切ったら5000万というもので、普通のエース級ピッチャーなら達成出来ないものだ。
競合必至のスタープレーヤーの場合、この出来高の条件が緩く、実質的に1億5000万が契約金の最高額のようになっている。
直史の残した今年の成績は、上杉を上回る。
だがそれでも、来年の年俸は1億5000万には達しないだろう。
過去の例から見て、最高で1億1000万ほどか。
ただインセンティブでかなりは付くだろうが。
「じゃあ23勝したらワシが球団に掛け合って、来年の年俸をさらにプラス1000万にしてもらえるよう頼んでみるが、どうだ」
「それなら試してみてもいいですね」
別に金を嫌いなわけではない直史は、あっさりと了承した。
日が沈めばやや気温が下がってくる九月の中旬。
だがこの日の甲子園は、むしろ試合開始前から熱気が上昇していた。
甲子園に、佐藤直史が帰ってきた。
そう、ライガースファン兼高校野球ファンの人間には、その意識が強い。
大学では神宮に取られてしまって、あれから九年。
ようやくあの夢か悪夢のようなピッチングが、またこの球場で見られるのだ。
大介の記録更新を期待する者も、もちろんいる。
だがその記録の相手は、やはり相応しい人間であってほしい。
今年、最初で最後の甲子園での直史と大介の対決。
そもそもここまで一度も実現してこなかったので、プレミアム感が高い。
もちろんその観客の中には、佐藤家ではなく、大介のツインズの姿もある。
そしてこれまで遠征の試合にはあまりついてこなかった瑞希も、その隣で座っている。
「どちらが勝つと思う?」
瑞希は義妹たちに尋ねるが、ツインズは一方的に大介の肩を持つわけではない。
少し悩んだ後、冷静な意見を出した。
「勝利条件によるけど、お兄ちゃんだと思う」
「そうだね。あとは前後のバッターがどうなるか」
双子の兄に対する信頼は、本能に根付いたものだ。
それにそもそもバッターは、三割打てれば一流なのだ。
ここまで六打席抑えこまれていて、単純に確率ならば、そろそろヒットぐらいは打ってもおかしくはない。
だが大介を単打に抑え、点を取られなければ、直史の勝ちと言ってもいいのではないか。
高校時代の紅白戦では、何度も二人の対決はあったのだ。
大介がヒットは、長打も含めて打ったことはある。
だが直史は、打点は記録させていなかったはずだ。
そして継投していく中で、黒星がついたことはなかったはずなのだ。
大介がこの九年間生きてきたプロの世界は、高校野球はおろか大学野球も含め、アマチュアの野球よりははるかにレベルが高い。
だがそれでも、直史はWBCの壮行試合でプロの選抜組をノーヒットノーランで抑え、WBC本大会でもMVPを獲得している。
大学生の時代に、既にプロのトップレベルにはあったのだ。
むしろそこからクラブチームの頃に、どれだけ衰えているのか、というのが開幕前の予想であった
衰えてはいなかった。
いや、衰えていたのかもしれないが、開幕までには元に戻してきた。
直史はドラフトで指名される前、六月からは本格的なトレーニングに入っていた。
半年あればどうにかなる、という考えで、事実なんとかしてしまった。
そんな兄との付き合いは、妻である瑞希よりも長い妹たちである。
瑞希は基本的に、プロ入り後の大介に関して、何かを書こうと思ったことはない。
だがその大記録の数々は、もちろん耳に入っている。
特に現在の関係は、義弟であるのだからして。
高校の段階で既に、大介はプロのレベルに達していた。
最後の一年は、バットも木製を使っていたのだ。
それでも夏の甲子園の打率は八割。
真田以外のピッチャーを打ちあぐねた記憶は、瑞希にはほとんどない。
直史の変化球と、武史の速球に鍛えられた大介。
それを封じられたのは、上杉ぐらいであった。
ただそれでも、怪我を除けば一番、ルーキーイヤーがおとなしかった。
既にほとんど敵がいない大介だが、上杉に武史、そして直史がプロの世界にやってきた。
飢えていた獣の前に、単に獲物となるわけではない、互角の獣が放り込まれた。
今年一年の大介のみならず、NPBの記録各種を見ても、とんでもないことが起こっているのだ。
直史と大介のみならず、たとえばレックスは21連勝という記録に、勝率も歴代最高となる。
武史は記録更新こそならないだろうが、平成以降では初めての、シーズン300奪三振を、現時点で達成している。
上杉は人類最速をさらに更新した。
奪三振率も武史は、上杉の持つシーズン記録を更新するかもしれない。
強大なライバルがいるにもかかわらず、記録は達成されている。
プロ野球史上最高の、黄金の一年と言っても過言ではない。
さらにここから、選手たちはどれだけ伸びていくのか。
二年目の直史に、ジンクスは適用されるのか。
まだ20代でここから円熟味を増すであろう大介や上杉は、通算記録をどこまで伸ばすのか。
大介の通算本塁打は、571本。
既に歴代三位となっていて、ホームランほど目立たないが、盗塁も歴代二位。
打率は完全にトップであり、誰にも超えられない記録を、ここからどれだけ増やしていくかが期待されている。
それは直史のような強力なライバルがいても、むしろ燃え上がってパフォーマンスを高めるようなものだ。
甲子園のスタンドにいると、瑞希も懐かしい記憶を思い出す。
幼かった高校時代、直史や他の多くの友人と出会った、最も濃密な時代。
それから後も年中忙しかった年はあっても、イベントの多さでは間違いなく、高校時代が一番であった。
子供でいられた、最後の時代。
そして今成長した二人が、味方同士ではなく敵同士として対決する。
いや、これは敵同士と言うのではないな、と瑞希は思った。
野球というスポーツは、ピッチャーだけでもキャッチャーだけでも、成立しないスポーツである。
戦う相手がいてこそ、選手たちも己を高めてプレイするのだ。
大介が甲子園で場外ホームランを打ったときなども、あの真田から打ったのではなく、真田だからこそ打てた、のだと言える。
対戦相手であっても、そこにあるのは憎しみではないはずだ。
お互いに高めあうための、むしろパートナーに近い。
強敵と書いて「とも」と呼ぶようなものだ。
「男の人っていいなあ……」
なんとなく瑞希は言ったのだが、ツインズは曲解したりもしない。
「こういう時は男じゃなくて子供だよね」
「男は少年を心の中に飼っているのだよ」
うんうんと頷くこの二人は、気性は男っぽいところもある。いや、男っぽいと言うよりは、単に凶暴と言ったほうが正しいのかもしれないが。
血の気が多いとは散々に言われているので、瑞希も苦笑する。
9月18日の甲子園。
残念ながら土日ではないが、それでも完全に満席となったこの球場。
この数年で座席数を多くしたりする工事はされたのだが、それは正しかったと言えるだろう。
正確にはまだ全く足りていなかった。
大介のバッティングだけでも、多くの人が見たいはずだ。
そしてその相手が直史であれば、さらに見たい者は増えて当然。
誰だって見たいはずだ。この球場で見たいはずだ。
因縁と言うよりは、運命のように導かれた二人。
助演となるような選手たちもしっかりとそろって、いよいよ大一番。
「けれどこれもプレイオフの前哨戦かなあ」
「それならでも、神宮だろうね」
感傷的になる瑞希に対して、少しどころではなく台無しなことを言ってしまう、ツインズであった。
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