第56話 エースの適切な使用法
レックスの四番浅野は、上杉のストレートにも必死でついていく。
ここでストレートにばかりタイミングを合わせていれば、高速チェンジアップに対応できない。
分かってはいるが、ストレートのスピードを基準にしなければ、ストレートが打てない。
そう思っていたところに、173km/hのストレートで空振り。
一つギアを上げた上杉は、まともにやって打てるピッチャーではない。
レックスの打線も、対上杉というのは考えていたのだ。
今年直史が先発で投げた試合で、唯一勝てなかったのが、上杉との対決であった。
あの時は二人が延長まで完投して、両者パーフェクトで引き分け。
上杉の31奪三振というのは異常であったが、九回終了時点でも24奪三振。
ただし今日は序盤から、上杉対策を徹底している。
それは、球数を投げさせるということ。
前回は12回までを投げたのに、119球しか投げさせていなかった。
だが今日は一回の表だけで15球。
直史に比べると、圧倒的に多い球数。
体力を削って、終盤勝負かピッチャー交代かに賭ける。
もっともそれは、レックスも同じこと。
スターズと違うのは、レックスは直史以外でも、かなりの確率で勝てるピッチャーが他にもいるということだ。
二回の表は上杉も追い込んだらストレートを投げてきて、12球で交代。
せめて一人五球は、なんとか粘りたいところだ。
直史は完全に、省エネピッチングを前提としている。
ストレートはアウトローか内角ぎりぎりのみしか投げない。
そしてカーブで見逃しのストライクを取り、手元で動くボールでゴロかフライを打たせる。
今日は比較的、ゴロを打たせることが多い。
二回の裏を終えて、三振はわずか一つ。
ただし球数は上杉よりもはるかに少ない。
レックスの首脳陣は、予告先発で直史と上杉の対戦となった時、この試合のビジョンについては考えていた。
そしてスターズ側がどう考えるかも。
どちらも代えのない、でたらめなエースだ。
だが強いて言うならスターズの方が、上杉の必要度は高い。
それにこの先レックスはファイナルステージで勝ち残ったチームを待てばいいが、スターズはライガースをまず倒さなければいけない。
そのために上杉は絶対に必要で、疲労度は0の状態でクライマックスシリーズに入りたい。
上杉は先を見据えたとしても、目の前の試合で手を抜かないタイプだ。
だがスターズの首脳陣は、先のことを考えなければいけない。
四年前に日本一になってから、スターズは三年連続で三位のAクラス。
クライマックスシリーズはファーストステージで敗退している。
ここいらでもう一度、日本シリーズ進出をしなければ、次は監督をはじめ首脳陣が変わる可能性が高い。
せめてファイナルステージまで進んで、いい試合をしてみせなければ、首脳陣が首を切られるかもしれない。
現在のレックスとライガースの二強状態で、どうにか三位に食い込んでいるだけでも、本来ならすごい。
だがたとえば選手の総額年俸を見れば、大介のいるライガースはともかく、レックスはスターズよりも少ない。
上杉一人に大金が投入されているのと、樋口や武史がまだそこまでのキャリアがないためだが、費用対効果でレックスの方が金がかかっていないのは確かだ。
おそらくこの試合、九回までに決着がつかなければ、スターズはそこで上杉を降ろすだろう。
あるいは直史のピッチング次第では、もっと早くに降ろす。
レックスとしても直史にさらなる勝ち星は付けたいが、それで無理をさせるのは違うと思う。
この二年、ペナントレースで優勝していても、クライマックスシリーズでの下克上を許している。
今年こそ勝つためには、短期決戦に強いピッチャーが必要なのだ。
直史を万全の状態でプレイオフに進みたいのは、レックスも同じなのだ。
そしてそこに、直史が明らかに上杉よりも優れていることが加わる。
それは継戦能力。
本来なら上杉よりもスタミナは少ない直史だが、それ以上に消耗が少ないピッチングが出来る。
上杉は確かにボールの威力は直史より上だが、それでも燃費は悪いのだ。
つまり上杉がENの最大値は直史より多いが、武器のEN消耗が全体的に多い。
対する直史はENが上杉よりも低いが、一つ一つの武器に必要なENが少ないというわけだ。
三回の表裏が終わった。
上杉は三振八つの42球。
直史は三振二つの25球。
球数が少ない上に、直史はより緩急を使っているため、さらに消耗は少ないというわけだ。
短いグラウンド整備が入るが、レックス側のベンチは上杉対策はお手上げである。
球数を投げさせてスタミナを削る以外、有効な作戦はない。
上杉はフィールディングにまで隙がない選手ではないので、ピッチャー前のバントなども試してみるのもいいが、170km/hオーバーをバントするのも難しい。
下手に当てればフライでアウト、または指に当てたりして骨折も考えられる。
大介などはバットで普通に打ったのに、その衝撃で骨が折れたのだ。
まともに打つ気がないのは、直史と樋口である。
直史の場合、芯を外して当ててしまえば、その衝撃で手の骨が折れる可能性すらある。
それは大げさとしても、手が痺れてピッチングに影響が出たら大変だ。
樋口もまた、自分の怪我には気をつけている。
彼が故障などをしないのは、無理なプレイをしないから。
ハッスルプレイでチームを盛り上げるより、常にキャッチャーとして安定剤になるのが、自分の役割だと思っている。
それに怪我をしてパフォーマンスが下がれば、年俸も下がってしまう。
樋口は大介以上に、金銭に関しては貪欲だ。
何しろ子供が三人もいるので、まだまだ稼いでおきたい。
既に三億の年俸をもらいながら、まだまだ上を目指す樋口なのだ。
上杉のボールは、下を軽く叩いてカット。
これ以外だと、下手をすれば骨折をする。
本当にタイミングが合えばちゃんと飛ぶのだが、それを期待していてはいけない。
この試合だけではなく、残りのレギュラーシーズンとプレイオフを考えれば、故障離脱は大きな戦力低下につながる。
樋口はまだ、上杉を確実に打てるとは思わない。
五回が終わって、パーフェクトが双方途切れた。
どちらもイレギュラーバウンドによるエラーで、球場中がため息をついたものだ。
この二人が投げ合えば、前回のような展開になるのではと、期待していた者は少なくない。
だがパーフェクトというのは、ピッチャーの能力以上に、運が関係して達成されるものだ。
MLBのパーフェクト達成者などを見れば、確かに殿堂入りするような選手もいるが、通算で50勝もしていない選手もいる。
しかしその運さえも、引きずり出してくるのが、この二人なのだろう。
双方共に、イレギュラーでエラーをした選手は真っ青になったが、上杉も直史も、全く気にした様子は見せない。
上杉も直史も、自分の成績だけに固執する人間ではない。
それよりも問題なのは、そこからプレイが萎縮してしまわないかということ。
直史からすればショート緒方のエラーは、これまでずっとエラーなく処理してくれていたのだから、文句を言うまでもないというのが本音だ。
上杉はそもそも、野手にボールを飛ばさなければ、エラーなどは起きない。つまり自分の未熟が原因だと考える。
直史は寛容のピッチャー。
上杉は自律のピッチャー。
どちらもチームメイトを責めたりはしない。それがエースの品格だ。
直史の場合は単に、興味がないだけとも言えるが。
この試合は両者、その後もヒット一本に抑える。
上杉はポテンヒット、直史は内野安打で出塁された。
また上杉は一つフォアボールでランナーを出し、両者共にノーヒットノーランさえ不成立なのである。
ただし九回を終えた時点で、両者には明確な違いが現れていた。
それは球数である。また奪三振も、大きな差になっていた。
上杉は九回終了時点で、147球の19奪三振。
対して直史は88球の7奪三振。
上杉は30人のバッターと対決したが、直史は出塁したうちの一方はダブルプレイで片付けて28人。
スペック的に見れば、上杉の方がすごいだろう。
だが首脳陣から見れば、直史の省エネっぷりの方がすごい。
先発ピッチャーの交代の基準は、100球か135球と言われることが多い。
MLBのデータによると、先発ピッチャーの年間の球数さえ、ある程度の基準が考えられている。
それは3000球で、それを超えると肉体にダメージがいくというものだ。
もっともそれは投げる球種などによって、いくらでも前提条件は変わるだろう。
それにウォーミングアップで投げる球は、どう考えるべきなのか、という話にもなる。
どちらにしろ上杉は、もう交代してもおかしくない球数になった。
対する直史は、まだ88球で、100球を限界としても余裕がある。
実は直史は、この前の試合までで、2120球を投げている。一試合に100球までで完投することが多い直史は、プレイオフを含めてさえ、3000球には到達しないだろう。
この試合も無理に三振を取りにいっていないため、余裕はまだまだある。
直史は高校一年生の秋、スタミナ不足で関東大会に敗北して以来、体力配分には気をつけている。
それでも三年の夏の決勝、連投24イニング完封で、倒れてしまったことがある。
もっともあれは肉体の方のスタミナではなく、血中糖度が下がったため、つまり脳のエネルギー不足だと言われているが。
上杉は鉄人だ。基準となる球数をオーバーしても、ここまで完封で抑えてきた。
だがこの先、12回まで投げるとしたら、さすがにその球数は多くなりすぎる。
お互いのパーフェクトがかかった、この間のような試合とは違う。
それにレックスは明らかに、上杉に球数を投げさせる作戦を取ってきた。
10回の表、レックスの攻撃の前に、上杉はマウンドを降りる。
マウンドに登るのは、これまで数度の故障離脱をしてきたが、これまた上杉と同じように、名球会入りの資格を既に、セーブ数で達成している峠。
ここはセットアッパーのリリーフではないのかとも思うが、レックスはこの回四番の浅野から打順が始まる。
ならば峠がしっかりと抑えて、その後をセットアッパーの投手なりに期待するつもりだったのかもしれない。
だがスターズの守護神峠は、先頭の四番浅野のソロホームランによって、連続無失点記録を途切れさせてしまった。
直史ほどではないが、ここまで19試合連続で、セーブ機会のセーブには成功していたりもしていたのだ。
1-0の最少得点差で、直史は10回の裏のマウンドに登る。
打順はスターズも二番からと、四番に最強打者を置いている打線なので、必ず打順は回ってくる。
だがここからなら、もうスタミナ切れを心配することもない。
二番と三番を最後にカーブで空振りを誘い、四番ではストレートを打たせて内野フライに打ち取る。
直史としてはやや多めの、一イニング14球。
これによってレックスとスターズとの対決、そして直史と上杉の対決は、直史の判定勝ちに終わったのだった。
10回を31人に102球を投げて、被安打一本失策一つ。
延長を完投完封という、非常に珍しい記録であるが、直史としては脳が疲れた。
実は今年、直史が延長戦を完投完封で勝つのは、これが三度目だ。
対戦相手のピッチャーは本多に蓮池と、それぞれのチームを代表するエースである。
九回で終わっていれば、またマダックスだったんだな、と樋口は思ったが、調べていて気づいた。
脳の使いすぎで眠くなっている直史が、目を覚ますぐらいのことだ。
「マダックスって、延長ではマダックス達成したことなかったみたいだな」
最終回、直史が確実な三振を狙わず、九回までのように打たせて取ることを考えていれば、100球未満かつ延長でのマダックスが達成されていたかもしれない。
それは惜しいし、美味しい記録だなと思った直史だが、終わってしまってはどうしようもない。
八回の裏も14球投げているのだから、下手に省エネを考えすぎれば、上位打線には打たれていたかもしれない。
そう考えて、さっさと後悔を切り捨てた。
重要なのは、勝ち星が増えたこと、そして負け星がつかなかったこと。
相手が上杉であれば、出会い頭に一発を食らったとしても、1-0で負ける可能性はあったのだ。
現在のセ・リーグのピッチャーでは、実は武史がまだ一敗で直史を追いかけていた。
なのでもしかしたら、最多勝が最高勝率では、上回る可能性があったのだ。
だが一番危険な上杉との勝負で、直史は勝利した。
ほっと一息である。
ただ樋口としては、今日の上杉は少し迫力がなかったかな、とも思う。
九回までで19個の三振を奪っておいて、迫力がないとはおかしな話だが、上杉はプレイオフで勝ち抜くために、既に調整に入っている。
対戦相手がライガースだけに、上杉でも確実に勝てるとは言えないのだ。
事実今年、リリーフピッチャーのリレーをしたライガースに、一度負けている。
それでもシーズン中ではない、プレイオフのピッチングをすれば、おおよそのバッターには負けないだろう。
だが、大介は例外だ。
この時点で大介は67本のホームランを打ち、打率は四割を超えている。
何か人間以外の生き物が、偶然野球をやっている。
そんな感触さえ、大介と対戦したピッチャーは感じるのだ。
ただし上杉や直史は、そこまでのものとは感じない。
体格は小さいが、それとはまた話は別の、フィジカルエリート。
その大介と、おそらくシーズンであと一度は対戦する。
雨天による変更などもあったため、レックスはカップスとの二連戦の後、ライガースと三連戦。
そしてライガースは一試合他のチームとの対戦があるが、レックスはそこに試合はなくライガースとまた連戦となる。
シーズン終盤なのでこういった変更は仕方がないのだが、それにしてもライガース戦が固まりすぎている。
シーズンは最終盤、カップスとの二連戦。
ここでレックスは先発陣が調整に入ってしまっていたため、連敗することとなる。
既に優勝は決まっているのだが、佐竹と金原に六回までしか投げさせず、打線も大きな援護がなかった。
プレイオフを見据えて、主力はどうしても故障を避けるようになる。
力を抜きすぎて負けるという、なくもない試合が続いた。
そしていよいよ、神宮での対ライガース三連戦。
しかしこれがまた、雨で全て潰れてしまったのであった。
「う~む」
この三連戦、先発の予定は入っていなかった直史であるが、三戦全てが雨で流れたことにより、最後に集中して三連戦が回ってくる。
するとその時の三連戦では、直史がまた先発で投げることになるのではないか。
甲子園での試合は、第一戦で直史が投げる予定である。
それに加えて雨で流れたため、もう一度投げるほど間隔が空いてしまっている。
ライガースとの今年最後の対決が、今年最初の甲子園となれば、なんだか運命的で面白いな、と思っていた直史である。
だが最後の対戦が神宮になる代わりに、一試合多く対戦しなければいけなくなった。
これはこれで、何やら運命めいているかな、とも直史は考える。
とりあえずは、甲子園である。
オープン戦でもレギュラーシーズンでも、別に意図的に避けていたわけでもないのに、なぜか甲子園での試合は回ってこなかった。
高校時代に最も輝いたあの舞台で、どういうピッチングをするか。
(大介相手に変なこと考えてる余裕はないか)
クライマックスシリーズ、ライガースが勝ち抜いてきたとしても、その舞台は神宮。
つまりこれが、直史にとって今年、最初で最後の甲子園での先発となるのであった。
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