第50話 光と影
プロ野球とアマチュア野球の、最大の差はなんであろうか。
色々と思い浮かぶだろうが、一番は単純である。
公式戦の数だ。
高校野球などでは、大会に負けた時などは、その悔しさをバネに練習に励んだりする。
大学野球にしても、基本的にはリーグ戦は週に二試合。
だがプロ野球は敗北しても、すぐに次の試合がある。
ローテの先発ピッチャーならともかく、他のポジションの選手は、翌日にも試合があって、それに切り替えていかなければいけない。
ピッチャーなどはトーナメントが終われば、次の上の大会か、次の季節の大会のことを考える。
だがプロ野球は、先発なら中六日。
そしてそれに慣れてくると、点を取られてもすぐに、次の回を抑えることを考えなければいけない。
因縁深い武史に、まさかのホームランを打たれても、真田はすぐに次の西片は三振に取る。
表情は消えているが、おそらく腸の中は煮えくり返っている。
怒りで力が出せるなら、いくらでも怒ればいいのだ。
だがピッチングというのは、そんな単純なものではない。
……上杉を除く。
緒方を内野フライに打ち取り、ツーアウトで樋口。
一回と同じ展開とも言える。
真田はまだ冷静になりきっていない。
(最初は外していきましょう)
(外ならいいんだろ)
少し外か、と判断した樋口であったが、そこからカット気味に曲がってきて、ストライクの判定を取った。
真田はこのあたりのコントロールまであるから、なかなかに困る。
それにキャッチャーの方も、ちゃんと冷静に投げさせてこれた。
二球目はカーブで、タイミングを外される。
だが変化が手前すぎて、こちらはボールだ。
ピッチャーのメンタルを考えると、ここで打っておきたい。
真田は実力が高い分プライドも高く、そこを上手く突かれたりする。
ただしその実力が本物なので、力づくで危機を乗り越えてしまう。
ここでもう一本ヒットでも打てたら、かなり崩せるとおもうのだが。
投げている間に、真田が冷静さを取り戻していくのが分かる。
二点差でライガース打線。安全圏ではない。たとえ大介が負傷していても。
もう一度真田を乱すには、ヒットがほしい。
出来ればスライダーが打ちたい。ただ右打者には真田は、それほどスライダーを投げてこない。
左打者相手に比べると、スライダーの重要度が下がる。それでも普通には打てないボールだが。
孝司はここで、スライダーのサインを出した。
樋口を打ち取るのに、普通にやっていてはダメだ。打線の中軸であるこいつを真田のスライダーで打ち取ることに意味がある。
頷くまでに、わずかに時間があった。
樋口はあえてここでは読まず、来た球をカットして、配球の幅を狭めることを考える。
そこに真田のスライダー。
(しま――!)
指にかかりすぎたスライダーが、避ける意識を失っていた樋口に当たる。
エルボーガードで防いだが、もちろんデッドボールである。
左打者の内角に、スライダーを投げ込む真田が、スライダーでデッドボールを出す。
本人の美学的にも、なかなか珍しいことであった。
しゃがみこんだ樋口だが、痺れはしても痛みはちゃんと消えていく。
(ただの失投か? これで崩れるかな)
崩れてくれるなら、この程度は許せるのだが。
冷却スプレーをかけて一塁ベースに立つ樋口。
どのみちツーアウトであるから、バッター集中でOK。
真田はそう考えていたのだろう。おそらく孝司も。
その初球に、サウスポーの真田から、樋口は走った。
カーブを捕球してセカンドベースカバーに投げる孝司だが、ベースの足元には少し遠い。
サウスポーからの盗塁を成功させた樋口は、パタパタと土ぼこりを払う。
これで真田がどう反応するか見たいと思った。
マウンドに向かおうとした孝司を、真田は止める。
その表情に焦りや怒りは見えず、孝司は軽く頷く。
結局樋口の力走も及ばず、ランナーは残塁。
真田は崩れるどころか、一瞬でメンタルを切り替えてきたのであった。
ライガースの二度目のクリーンナップを打ち取り、そして三巡目が回ってくる。
スコアは2-0と変わりなく、真田もバッターに対してしっかりと、凡退を誘うピッチングになるようになった。
そして誰かが、次々に気づいてくる。
あれ? これってパーフェクトじゃね?と。
七回の表、先頭の毛利が内野フライに倒れ、二番の大江は三振。
回ってきた大介は、ため息をつきたくなる。
直史を相手にパーフェクトをされたのは、つい先日のことである。
兄弟二人にパーフェクトをされるのは、いかにもまずい話である。
もちろん相手は、やらかすことにおいては定評のある武史。
だが今日は嫁が球場に来ているので、奇跡を起こしちゃうかもしれない。
仕方ないな、と大介はホームランを打つのは諦めた。
そしてミートに徹し、ライト前に軽く打球を運んだ。
打者19人目にして初めての出塁。
武史と西郷の相性はそれほど悪くないが、ここからの得点は難しいだろう。
一発が出れば同点であるし、パーフェクトが途切れたことに気落ちしていたら、武史のストレートでも西郷は打つ。
だが武史は、パーフェクトが途切れたことに、気落ちしていなかった。
もっと単純に、今までパーフェクトピッチングであったことに気づかなかったのである。
次の西郷を内野フライにしとめて、大介がどうしてホームランを狙わなかったのか、不思議に思ったりもした。
そしてパーフェクトピッチングだったんだぞと言われ、やっと頭を抱えたりした。
真田は自分の前に、常に佐藤兄弟が立ちふさがっているような気がしている。
白富東と考えると、今では大介が散々に援護してくれるため、少し違うなと思う。
実際には前回の武史との対戦では、真田が勝っている。
それでもどこか、一歩前を行かれている感覚。
シーズンでは負けていても、短期権戦のクライマックスシリーズで勝つ。
この二年はそれで、日本一になっているライガースである。
しかし今年はおそらく、短期決戦では負ける。
直史にチームとして勝つイメージが全く湧かないからだ。
ピッチャーではあるがバッターとしても優れた成績を残していた真田。
バッターとして対戦した場合、佐藤兄弟を打てる気がしない。
まだしも武史なら、当たっていいところに飛ぶ、というイメージがあるのだが、直史相手にはそれもない。
タイプは違うが、真田もどちらかと言うと技巧派の要素が強い。
スライダーが決め球であるが、それを投げるまでのコンビネーションが大事だ。
直史の決め球は、使用頻度から考えたらカーブであろう。
だがストレートよりもはるかに、変化球の投球割合が多い。
カットボールやツーシーム、スプリットで打ち損じを狙う。
カウントで追い込んでからは、三振を狙いに行く。
そこまでのコンビネーションで、既に布石が打ってある。
次にこれを投げたら、分かっていても打てない。
そんなボールを投げるから、打たせて取るタイプのピッチャーなのに、奪三振率も高い。
愛憎半ば、といったところか。いや違うか。
真田の体格と筋肉からは、160km/hのスピードは期待できない。
だから目指すならば、それは直史なのだ。
二本のホームランを打たれてから、真田は新しい球種の開発を決意した。
球種は、別に珍しいものではない。
縦のスライダーだ。
今でも横のスライダーは投げているが、速くて落ちる球は持っていない真田である。
遅くて落ちるカーブと絡めれば、コンビネーションが広がっていく。
利き腕側に曲がるボールは、シンカーを使っている。
だが真田のシンカーは速く、そして肘に負担がかかるため、何かをもっと考えなければいけない。
非情に、とてつもなく、これ以上はなく遺憾なことだが、真田の目指すピッチャー像は、直史である。
もちろん真田は、直史の持つ本当のストロングポイントを知らないが、それでも目指すべきは技巧派だと思えるのだ。
その路線でなければ、最高のピッチャーにはなれないと思う真田は、まだまだ考えが単純である。
武史は言われるまで気がつかなかったが、樋口はちゃんと気づいていた。
パーフェクトピッチング。
直史が簡単に大学時代は達成していたから、樋口の感覚も相当ズレてきてしまっているが、パーフェクトを達成したらそのピッチャーは、必ず歴史に残るものだ。
だから出来れば達成させてやりたかったが、大介がミートだけに徹すれば、武史の球でも簡単に打ってしまうのは驚いた。
しかも、右の打席で。
もしも左の打席で、長打を捨てて打率だけを目指せば、五割を打てるのではないだろうか。
アメリカの野球の神様ベーブ・ルースは、ホームランを捨てるなら、自分も四割を打てるとか言っていたという。
OPSという指標が出来て以来、ホームランのない超高打率よりも、ホームランのある高打率の方が、得点の期待度は高いことが分かっている。
もっとも大介の場合は、盗塁があるのでまた、話は少し変わってくるだろうが。
ただパーフェクトはおろかノーノーまで途切れてくれたことは、樋口にとってはありがたかった。
ここまではヒットすら許さないためのリードをしていたが、今はヒットを許してもいいリードが使える。
そう言うとここから手を抜いていくような語弊があるかもしれないが、ピッチングの幅を使っていけるのはありがたい。
何よりフルカウントから、ボール際の球を使っていけるのだ。
樋口は武史のスペックは、直史の言うように兄以上だとは思っている。
ただしそれはあくまで、肉体のスペックだ。
メンタルと言うよりは、試合全般を通じての集中力と、さらに強打者に対した時のコントロールは、完全に上回っている。
そんな兄を超えられるとは、武史は全く考えていない。
プロとしては向上心が足りないように感じられてしまうが、実際のところはそういうわけでもない。
この試合は、レックスが勝つことは分かっている。
大介がホームランを捨てたことで、一気に得点の確率が減った。
もちろん他にもホームランバッターの多いライガースであるが、それでも大介さえ封じれば、あとは計算内で収めることが出来る。
負けるパターンがあるとしたら、最終回までにライガースが一点を返し、最終回で大介がホームランを打つこと。
延長に入ればどちらが勝つか、もう分からなくなってしまう。
たとえ読んでいても、確実には打てないのが真田だ。
樋口は真田のことを高く評価している。特に左バッターに対しては、無敵に近い。
レックスにも武史の他に金原というサウスポーはいるが、それでも特化した力としては真田は代わりがいない。
左のワンポイントがほしいというとき、もっとも贅沢に使えるサウスポーが真田であろう。
その真田から一本を打ったわけだし、今日のバッターとしての仕事は終わりと考える樋口。
あとはキャッチャーとして、試合に勝てば問題ない。
武史はパーフェクトが途切れた後も、今までそういや意識してなかったしな、と簡単に気分を切り替えた。
この点の執着のなさは、武史にとって長所でも短所でもある。
樋口はストレートを基本に配球を組み立てる。
八回も武史は三者凡退で片付ける。
だが真田もここまで引っ張られて、失点はホームランの二点だけ。
だがライガースはここで、試合を諦めた。
真田を降板させて、リリーフ陣を出してくる。
次の登板のことを考えるなら、負け試合はさっさとエース級は降ろして温存する。
確かに今日の武史のピッチングを見ていれば、その判断は妥当である。
チームが勝利を諦めたとしても、プロの選手が戦意を喪失することはあまりない。
なぜならば試合で負けても自分の成績を伸ばせば、それで評価されるからだ。
ライガースとしても代打を出して、武史のボールを経験させておいたりする。
逆にこれで心が折れる選手もいるかもしれないが、折れても立ち上がってこなければ、プロの世界では通用しない。
むしろここでこそアピールの場と、粘ってくる選手は若手に多い。
ただしそんな心意気だけで、勝てるものでもないのが野球である。
九回の表、ライガースの最後の攻撃。
大介はバットを持ってはいるが、おそらく出番はないな、と思っていた。
ラストバッターにはまたも代打を出したが、塁に出ることも出来ずに三振。
そして今日最後のバッターとなるか、という毛利はなんとか塁に出ようとする。
負け試合であっても、選手が諦めないこと。
もちろん自分の成績も関係しているが、それ以上に選手が勝ちたいと思っていることが、優勝を狙うチームの条件である。
ライガースではもう長らく一番を持つ、ミスター出塁率。
だが最後には武史の、チェンジアップを打たされてアウト。
打者28人のヒット1本で、ライガースは敗北したのであった。
大介には四打席目は回ってこなかった。
あの一本が、と武史は珍しくも悔しそうである。
打たれるまでは全く意識していなかったのに、打たれてから気づくところが本当にズレている。
落ち込む武史であるが、こいつの完投能力ならば、キャリアでもう一度ぐらいはチャンスはあるだろう。
少なくとも自分がリードするなら、と上から目線の樋口である。
「いや、打たれてからやっと教えてくれるんですよ!?」
ヒーローインタビューで武史はそんな受け答えをしていたが、普通はやっている本人が気づいているものである。
「せっかく奥さんが見に来てくれていたのに!」
それだけでパワーアップするなら、今後の試合は全て見に来てもらうようにすればいいのではないだろうか。
先制のホームランを打った樋口も、当然ヒーローの一人である。
自分の叩き出した先制打で、武史のリードは楽になった。
だがそのあたりの秘訣は決して口にしない。
他のキャッチャーに真似されれば厄介だからである。
「今日はタケの調子が良かったので、本当にリードは楽でしたね。ただ白石がちょこんと合わせてきて、さすがに打たれたかとは思いましたけど」
ワンヒットでノーヒットノーランを逃したのではなく、パーフェクトを逃したのだ。
フォアボールもなくエラーもなく、これほどの機会はなかなかありえない。
大介が本調子でなかったというのも大きい。
ただし大介は、軽く合わせて打つ程度なら、右でも武史のボールが打てるのだ。
完璧に近いピッチングをした試合である。
しかしながら樋口としては、大介の実力の奥深さを感じさせられた。
真田にしてもソロホームラン二本以外は、失点をしていない。
ランナーを出しても返さないピッチングをしていただけに、余計にホームラン二つが痛い。
首位を走るレックスと、二位ライガースの試合は、九月に九試合が予定されている。
その中のどこかで、武史と真田の投げあいは、再現されるかもしれない。
それがなくても、ライガースがクライマックスシリーズでファイナルステージに勝ち上がってくる可能性は高い。
次こそは。
両ピッチャーに同じ意識が出てきていたが、そもそもここからまだ二試合、レックスとライガースのカードは続くのである。
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