第48話 続投か継投か

 記録がかかっている。

 無失点記録。直史が持っているそれは、開幕戦から既に、この試合を前に167イニング連続となっている。

 なおさらに重要なことは、これがずっとデビューから続いていることだ。

 途中で継投したこともあれば、逆に延長まで投げきったこともある。

 だが167イニングというのは、18試合分まるまる、完封を続けているという計算になる。


 連勝記録というのは、もしかしたら破られるかもしれない。

 また無失点記録というのも、破られてもおかしくはない。

 だが直史はデビューとなった開幕戦からずっと、一点も取られていないのだ。

 なお連続イニング無失点の記録の二位は、上杉が一年目に達成した71イニングである。

 既にそれにダブルスコア以上をつけて、直史は圧倒している。


 投げるごとに、ずっと記録が更新されていく。

 だがこの試合は序盤からヒットを打たれていて、ランナーが三塁にまで到達もした。

 勝利投手の権利が発生する五回までを投げて、どうにか無失点。

 スコアは4-0となっているが、既に五本のヒットを打たれている。


 七回までをリードして投げてくれたら、ほぼ鉄壁の利根と鴨池のリリーフに回すことが出来る。

 純粋にこの試合の勝敗だけを考えるなら、それが一番なのだろう。

 だがそれでいいのだろうか。

 七回まで、四点差を守りきるのは、直史ならば難しくないだろう。

 しかし五回までに五本のヒットを打たれているのは、失点の可能性を考えさせる。


 豊田が離脱しているので、七回からの鉄壁の継投が使えない。

 いや、そもそもの問題として、直史が失点すれば問題なのだ。

 客観的に見れば先発ピッチャーは、調子が悪いなりに、相手の攻撃を防いで失点していない。

 だが七回までを投げるとして、無失点記録は続けられるのか。

 調子が悪い直史を、ここで交代させるのは、おかしな継投でもない。

 だが調子が悪くてもなお、相手を無得点に抑えてしまうことが出来る。

 直史のピッチングの真髄を見たいという、そんな欲も湧き出てくる。


 これがぽっかりホームランを打たれでもしたなら、もう諦めがつくのだ。

 だが調子の悪いピッチャーを引っ張って失点したら、それはある程度ベンチの責任になる。

 一点ぐらい取られても、七回までは持ちこたえる。

 それぐらいの信頼はあるのだが、一点も取られてほしくはない。


 人がやがて死ぬように、記録というのはいずれ途絶える。

 だが自分の責任でそれをやってしまうことを、木山は恐れている。

(こんなに心臓に悪いピッチャーは、本当に見たことないぞ!)

 ご愁傷様である。




 木山は動けなかった。

 つまり直史は続投である。


 直史はコントロールに優れたピッチャーであるが、コントロールにも種類がある。

 一般的に一番有名なのは、コースのコントロールであろう。

 ストレートでどれだけ精密に投げることが出来るか。

 変化球は基本的に、真ん中から外れていったらそれでいい。


 直史の場合は、このコースのコントロールが壊れている。

 だが他のコントロールは通常運転だ。

 球速のコントロール、変化量のコントロール、タイミングのコントロール。

 このあたりが制御できているため、ヒットは打たれても長打にはならず、それが無失点へとつながっている。


 速いストレートを投げてこないのに、それでも打てない。

 打ててはいるのだが、点に結びつきそうなところでぬるりと抜けられる。

 これはこれで、ストレスのたまることである。


 なおプロ野球の記録には、ヒット13本を打たれながらも、無失点に抑えたというものがある。

 シーズン中の試合だけではなく、プレイオフの日本シリーズでも存在している記録だ。

 直史はある意味それ以上の、四死球16個を出しながらノーヒットノーランという、意味の分からないことも、大学時代にはしていた。

 投げるほうも投げるほうだが、投げさせるほうも投げさせるほうだ。

 木山としてはおそらく、この試合も直史は完投出来るだろうと考えている。

 もう少し点差があれば、普通に継投していってもいい。

 むしろそれだけの点差があれば、勝ちパターンのピッチャーを使わなくても、充分に勝てるだろう。

 直史の勝ち星を消してはいけない。


 そう木山は考えているが、この回も先頭打者の打球が、内野の間を抜いていった。

 遅い球を投げることによって、反発力による長打を防いでいる。

 さらに次の打者をダブルプレイで打ち取り、ツーアウトまで来た。


 


 ストレートは全てボール球にして、変化球でストライクを取る。

 そんなピッチングをしているものだから、直史にしてはだいぶ、球数も多くなっている。

 外にストレートでボール球を投げた後、内角を変化球で攻める。

 もしくは緩急を利用するのだが、バッターとしても迂闊には振ってこない。


 ファールを打たせてカウントを取りたいが、チェンジアップを見切られる。

(まあこの人とは因縁があるからなあ)

 カップスの五番初柴とは、甲子園以来ずっと対戦してきた。

 大学時代は同じ六大リーグでも、対戦があった。

 長打力はそこそこだが、確実に打点を増やしてくるバッター。

 だが今の状況なら、長打でもホームランにならなければいい。


 樋口としては、まずホームランを打たれることだけは避けたい配球を考える。

 ただ初柴もかなり、読みでもって打つバッターだ。

 歩かせてもいいなら、際どいボールで勝負が出来る。

 だが直史はここまで、無失点記録の他に、無四球記録も持っている。


 試合の勝敗以外まで考えて、リードをしなければいけない。

 さすがの樋口にとっても、困難なことである。

 記録の上で派手なものは、もちろん無失点記録だ。

 無敗記録自体は、上杉の記録にまだまだ届かない。

 無失点記録と無四球記録を比べれば、前者の方が価値は高いだろう。

(最後はボール球を振らせることも考えて、まずはスプリットを甘めに投げて、ゴロを狙う)

 頭脳的なリードを、樋口はしていた。

 ただし初柴は、樋口のリードが窮屈になっているのも分かっていた。


 大学時代にも散々に対戦し、ほぼ打ち取られて、ほんのわずかにヒットが打てた。

 六大学のあの時代のバッターで、直史から一割以上の確率で打てているのは、一人もいないはずだ。

 そんな過去があるため、樋口は初柴のことを把握している。

 長打力はほどほどであるが、打点は多いバッター。

 そしていざという時には、しっかりと外野に犠牲フライが打てるバッター。

 そう考えれば樋口がどういうリードをするか、初柴の方からも分かってくるというものだ。


(カットかスプリットか、そのあたりで内野ゴロを狙ってくる)

 こういったところの読みをさらに裏を書くことのできないあたり、今日は直史にも樋口にも、余裕がなかったと言えるだろう。

 ど真ん中に近いあたりからの、わずかに沈むスプリット。

 しかし初柴は、それにバットの角度を合わせたアッパースイング。

 打球は理想的な角度で、レフト方向に飛んだ。

「入るなー!」

 直史ではなく樋口が叫ぶが、その打球はこれまでに散々凡退されてきた、バッター全ての執念を兼ね備えていたのかもしれない。

 切れるかどうかというところで、コンとポールに当たって、そのままスタンドへ。

 デビュー以来173イニング目。

 523人目のバッターによって、初めて直史は失点。

 そして無本塁打も、この一発で途切れたのであった。




 高校時代、直史が最後に、敗北らしい敗北をしたのが、初柴が率いる大阪光陰であった。

 つくづくこういう縁があるんだな、と腰に手を当てて、ダイヤモンドを回る初柴を目で追っていく。

 隠し切れない喜びで、ガッツポーズをする初柴。

 地元広島の大応援団は、まるで優勝が決まったかのような大騒ぎである。


 マウンドに樋口が歩み寄る。

「………………………………………………すまん」

 ほとんど謝ることがない樋口が、頭を下げた。

 直史はリード通りに、やや甘いところからボールを落としただけ。

 完全に読みきっていなければ、ホームランにまでは出来なかっただろう。

「あの人とは、あまり相性が良くなかったからな」

「そうなのか?」

 樋口からすれば意外であろうが、直史は始めての甲子園で、大阪光陰に敗北した記憶が強い。

 なんだかんだ言っても、負けたことは忘れない男である。


 まだスコアは4-1だ。

 六回の裏ツーアウトで、ここから逃げ切りを図るのも間違いではない。

 ただし不調の直史を、記録が途切れた今、まだ使い続ける意味があるのか。

 監督の木山が、ベンチから出てきたマウンドに向かってくる。

「ケント、ここからリリーフしたとして、広島打線に逆転される可能性は?」

「下位打線に入るから、勢いを消した上で、終盤に勝ちパターンの継投が使えるな」

「じゃあ交代したほうがいいか?」

「監督はどのつもりなんだかなあ」


 木山が来るまでに、そんな短いやりとりがあった。

 そして木山はバッテリーに対して、まず直史の肩をぽんぽんと叩いた。

「よくここまでやってくれた。後はリリーフに任せてくれ」

 今日の直史の調子から、完投は難しいと思ってはいたのだ。

 五回の時点で交代していたら、まだ記録は継続していた。

 そこで動けなかったのは、明らかに自分の失敗だと、木山は考えている。


 夢のような時間であった。

 投げれば100%勝ってくれるという、確信を持たせるピッチャー。

 勝てなかったのは唯一、味方も一点も点を取れなかった試合だけ。

 今日の試合にしても、まだ調子が戻っていなかったのだから、ゲーム差に余裕がある今は、もう一度ローテを飛ばしても良かったのだ。

「絶対に、お前の勝ち星はけさないぞ」

 木山は直史に対してそう言ったのだが、力強く頷いたのは樋口であった。




 ピッチャー交代。

 決してノックアウトされたわけではないが、ついに記録は途切れてしまった。

 広島のホームであるのに、観客はベンチに戻る直史に対して、大きな拍手を送る。

 直史もそれに対して、帽子を取って軽く頭を下げた。


 六回が終了し、七回の表が始まる。

 もう試合が終了したかのような空気であるが、実際はまだ終盤に入ったところ。

 レックスのピッチャーは継投に入り、そしてカップスはまた一点を返す。

 4-3の一点差となって、レックスはまたもチャンスを持ってくる。

 ツーアウトながらランナー一二塁にて、三番の樋口。

 この場面の樋口は、己のキャッチャーとしての役割を、完全に忘れていた。

(俺のせいだ)

 たとえここでホームランを打って、直史の勝ち星に近づけても、やってしまった事実は消えない。

 

 上杉や大介のような、人間には不可能なことではない。

 直史はあくまでも、人間が出来る要素を積み重ねて、記録を作ってきたのだ。

 まだ球数に余裕はあった。

 あそこでスプリットを使うのは、危険性が高かったのだ。


 冷静ではありながらも、同時に怒りを無理に抑えることもない。

 失投気味のボールを、全く見逃すことなくフルスイング。

 レフトへのホームランは、今季23号。

 流れの変わりかけた試合を、またも逆転させる、スリーランホームランであった。




 試合は7-3でレックスの勝利。

 だが翌日の新聞は、まるでカップスが優勝したかのように、打たれた直史の写真を一面で取り上げたものである。

 そして続く第二戦の前に、木山は激を飛ばす。

「これまでうちは直史のおかげで、散々楽をさせてもらってきた。単純に勝ってくれたというだけではなく、完投完封することによって、リリーフ陣を休ませることが出来た」

 例年であればこの時期は、疲れで不調を落とす者が出てもおかしくない。

「打線もだ。一点あれば大丈夫。そんな試合では、リラックスして打席に臨めたと思う」

 これもまた、本当のことである。


 直史が、ついに点を取られた。

 だが勝敗自体は、まだ無敗である。

「ここからは他のピッチャーも打線も、今までのように萎縮してはいない。だがこちらも、絶対に負けることは許されない」

 時期的に言って、今が一番選手たちに疲労がたまる。

 上手く戦力を回して、特にピッチャーを潰さないようにしなければいけない。

「今年はリーグ優勝して、そして日本一も取る」

 木山はここで明確に、今年の狙いを告げた。

「残りの二戦、絶対に勝つぞ!」

 レックスの選手たちは燃えていた。

 普段は冷静で冷徹な樋口でさえ、その感情の波には引っ張られていたのであった。


 別に勝てたわけでもないのに、何かを成し遂げた気になってしまったカップス。

 それに対してレックスは、残りの二試合を鋭い牙で攻撃した。

 ただでさえチーム力には差があるところに、お互いの選手の士気が違う。

 満足してしまったカップスと、飢えていたレックス。

 勝敗はおのずからあきらかとなる。

 佐竹と金原が、二試合連続で完投勝利。

 直史一人には任せておかないぞ、と言わんばかりの力投である。

 事実レックスのエース格は、直史だけではないのだ。


 カップスは確かに、直史の記録を途絶えさせた。

 だがそのお返しとばかりに、三連戦を全て落としたのである。

 特にこの二人が、完投勝利したことは大きい。

 樋口もリードして球数を130球程度に抑えながら、自身もバットで貢献した。

 二年目に達成したトリプルスリーへ、今年もかなり実現性が高くなる。

 本人としても、ここまでホームランが伸びたら、狙っていきたいところだ。




 次の舞台はまた神宮へ。

 そして対戦相手は、ライガースである。

 ただしこのライガースとの対決は、レックスが有利なはずだ。

 主砲である大介が負傷し、やや打率を落としてホームランも打ちにくくなっているからだ。

 そして第一戦の先発は、武史と真田の対決。これもまた高校時代から、因縁のある対決である。

 既にレックスの目は、次の対戦カードへと向かっている。

 ライガースとの首位争いは、まだまだ逆転の余地を残してしまっているのだ。


 それとは別の話だが、直史の無失点記録と、無本塁打記録を同時に消した初柴は、しばらく周辺が騒がしくなった。

 だが本人としては、悪い気分ではない。

 年俸の査定にまで関係がありそうな、本人にとっては渾身の一発であったのだ。

 その年には他にも、何度かインタビューを受ける初柴であったが、この話題は絶対に出ることになった。

 そしてこの先、選手生活が終わってからもずっと。

 それだけ直史の記録が、世界の歴史に残る大記録であったからだ。

 それを途絶えさせた男の名前も、歴史に残るのは、当然であったのかもしれない。


 ――ちなみに。

 直史からホームランを打った初柴は、その野球人生において、直史からはもう一度も、ヒットさえ打つことさえなかった。

 負けた試合を忘れない直史、という話であった。

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