第17話 価値なき奇跡
レックスの監督である木山は、わざわざGMの訪問を受けた。
普通なら用事があれば、向こうから呼び出してくる関係である。
それにこの数年、フロントサイドから爆弾を持ってくるのは、おおよそがセイバーであった。
「これはあくまでお客さんの声であって、フロントとしては決して現場に強制するわけではないんだが」
そんな前置きがあったので、木山は警戒してしまう。
「佐藤直史選手を、日曜日のローテに入れられないかね」
ちょっと斜め上の要望であった。
現在直史は金曜のローテに入っていて、通常は三連戦のカードの最初の一戦目に投げている。
今でもだいたい、エースは三連戦の頭に出してくる場合が多い。
それでエース対決となるのであるが、上杉や武史のような突出したエースがいると、他の球団は少しローテを変えてくる。
どれだけ自軍のピッチャーが好投しても、上杉に打線が完全に抑えられる可能性が高いからだ。
エース対決はプロ野球の華。
だが現在はどんどんと、効率よく勝利数を増やすことを、考える監督もいる。
直史を日曜日の試合に入れようというのは、どういうことなのか。
おそらくあの鮮烈すぎるデビュー戦で、次の登板も間違いなく球場を埋めてくれるだろう。
金曜日の試合というのは、サラリーマンも会社帰りに球場に寄れるので、ありがたいものである。
翌日の心配をせずに、ビールを飲みながら野球観戦というのは、昭和の時代からも変わらない風景である。
だが神宮の球場で、昼間から直史を見るということ。
それは野球ファンだけではなく、大学野球ファンまでも、一緒に取り込んでしまうということだ。
さすがに木山も、これは無視出来ない。
単純に目の前の試合を勝ち、シーズンで優勝し日本一になる。
それが監督の仕事ではあるのだが、経営陣から伝わるのは、もっと長期的にレックスの人気を高めようという意思。
「まさか今後も六大や東都のスター選手を、ドラフトで指名していくつもりですか」
「いやいや、さすがにそれはない。ただ必要な選手がそれに当てはまれば、指名していくことは確かだけど」
あとは神宮では、高校野球の東京都大会も、準々決勝からは行われたりする。
神宮球場においてはプロ野球よりも、大学野球の方が優先される。
しかしそれを逆手に取って、大学野球のファンを、レックスに取り込もうということだ。
これは、分かる。
現場であっても分かってしまう。
樋口が入団してから、明らかに客層に、若い女性が増えた。
既に結婚しているのだが、あまりそれは関係ないらしい。
武史が入団して、若いファンが増えた。
やはり圧倒的なピッチングは、若者たちに爽快感を与えるのだろう。
そんなところへ、直史である。
樋口や武史とは、ほぼ同時代の六大学野球における、最大のスター。
その存在はもはや神格化されており、神宮に降り立った最強の神だの、六大を蹂躙した大魔王だの、すき放題に言われている。
だが悪名も美名も名声は名声。
全く負けない直史でも、さすがにいつかは負ける。
その瞬間を目撃するために訪れる、偏ったファンもいるだろう。
しかし誰が払ってくれても、試合のチケットは売れることに違いはない。
木山は納得した。
だが近くで見ていて初めて分かったことだが、直史は己の生活リズムの管理を、かなり厳密に行っている。
それをすぐに変えさせるのは、かなり難しいと木山は判断した。
「調整方法の関係もありますから、すぐには無理です。でもなんとかオールスター明けには」
「うむ、頼むよ」
頼むほうはそれで終わりなのだろうが、頼まれたほうには様々な作業が発生する。
実のところかなり繊細に見える直史には、徐々に変化を受け入れていってもらう必要があるだろう。
五連勝でスタートしたレックスを、その勢いなど関係なく、あっさりと止めてしまったのが上杉であった。
開幕戦に続いて、既に今季二勝目となる。
そしてその翌日、直史の初先発。
開幕戦もほとんど先発のようなものであったが、記録上はこれが初先発である。
対戦相手は中京フェニックス。
そして先発はプロ入り七年目の津末である。
どこかで見たな、と直史が思うのは当たり前だ。
いや、直史なら当たり前でもないのか。
津末は東名大相模原出身のピッチャーで、三年の春にはベスト8まで進出している。
夏には一回戦で崩れて敗退し、わずかに評価を落とした。
その後、高卒でドラフトにかかり、フェニックスの中ではこの数年で先発に固定。
三連戦の一人目であるが、実は少しローテをずらしている。
直史と投げ合って勝てると首脳陣が、正確には正捕手の竹中が思わなかったからだ。
六大学でそのすさまじさは、一年の時から見てきた。
遡れば高校三年の夏、大阪光陰による空前絶後の四連覇を妨げたのも、当時二年生であった直史である。
さすがに誰も口にはしなかったが、大学三年の時には、直史が先発であると、今日も負けたな、という雰囲気がチームに漂っていた。
フェニックスがAクラス入りを狙うなら、非情の決断をしていかなければいけない。
レックスやライガース、そしてスターズとの対戦で、どのピッチャーに誰を当てるか。
正直に言えば最初から敗戦処理のピッチャーを出したいのだが、敗戦処理は敗戦処理で、大変なものであるのだ。
レックスの打撃力は、隙のない攻撃をしてくるが、爆発力はそれほどでもない。
津末には六回三失点のクオリティスタートを目指してもらおう。
試合の結果よりも、この試合から何を見出せるのかが大事である。
(佐藤のピッチングの傾向も、ずっとデータを集めていけば、シーズン終盤におおよそ見えてくるかもしれない)
シーズン序盤は、ルーキーの戦力査定でもある。
直史をどう運用していくかが、レックスの今年の最重要戦略である。
樋口が見る限り、直史をまともに連打出来る打線は、今のNPBにはいない。
考慮すべきは一発だ。
高めのストレートを使っていく今のスタイルは、ごくわずかだがジャストミートされればスタンドに届く可能性を持っている。
おおよそは空振りか内野フライになるのだが、データに対してはすぐに対応してくるのがプロの世界である。
そう考えると必要なのは、分かっていても打てない球か、相手の裏を書き続けるコンビネーション。
上杉のストレートや真田のスライダー。
直史にとってはスルーなのだろうが、プロではまだ見せ球程度にしか使っていない。
カーブとスライダーを使えば、おおよそは打ち取れてしまうからだ。
そんな直史が初回のマウンドに登ると、海鳴りのように声援が湧き上がる。
特に緊張することもなく、慣れた神宮のマウンドを満喫する。
オープン戦でも甲子園では投げていなかったのだ。
あそこで投げるとまた、何か違う感傷が湧いてくるものだろうか。
先頭打者をあっさりと内野ゴロにしとめて、二番は見知った顔である。
ショートを守りながらも、この二番打席に入っているのは、白富東の後輩である青木哲平であった。
試合の前にも挨拶にきたが、なぜあそこまで怖がっているのか。
野球の試合で人が死ぬことはめったにないし、直史のピッチングはデッドボールは出さない。
精神が死ぬ、と哲平は答えるかもしれないが。
ストレートは150km/hには届かないが、かなりの伸びがある。
(高校時代の土台を、そのまま格段にアップデートした感じか)
プロでショートのスタメンを取っている哲平は、二球目のスライダーにはバットが止まった。
ただ縦に変化したスライダーは、それでもストライクである。
二球で終わらせるつもりだったのか。
追い込まれて、ここから遊び球を投げないのが直史である。
哲平はどんな球にも対応できるように、小さく構える。
直史はサインに首を振らず、ストレートと似たような感じでリリース。
(速――くない!?)
バットの先に当たった球は、ピッチャーゴロ。
チェンジアップは完全に、ストレートと同じピッチトンネルを通ってきた。
初回を三人とも内野ゴロにしとめて、万全のスタートの直史である。
「調子はどうだ?」
「いつも通りです」
ピッチングのベンチコーチにも、素っ気無く答える。
まさにそうとしか言えないのであるが。
デビュー戦では毎回三振を奪い、日本記録に近いところまで三振でしとめた。
だが今日は完全に先発ということで、最初から頭もしっかりしている。
バットの届く範囲で、ヒット性の打球にならないゾーンがイメージ出来る。
まさにいつも通りである。
フェニックスはこの数年、暗黒期からは脱出したと言われている。
去年もBクラスではあったが三位とのさはさほどない。
正捕手に竹中、控えに東というのが、かなりバランスのいいキャッチャーになっているのだ。
一年間を戦うのは難しい東は、竹中のバックアップとしてなら充分に働ける。
ピッチャーとの相性によって、時々竹中は休む。
東のように故障持ちではないが、竹中も体にはかなり負担がかかるタイプのキャッチャーなのだ。
そんな竹中のリードにより、フェニックスはツーアウトを取る。
だがレックスは三番の樋口と、四番の浅野が、強力な打線のデュオなのである。
今年も開幕戦から、しっかり打点を残している。
打率、打点、盗塁と攻撃面をカバーしているため、とてつもなく厄介なバッターだ。
何気に出塁率もよく、OPSではチームトップ。
こういうバッターは定石どおり、しっかりと単打までにしとめたいと思う竹中である。
(津末も悪いピッチャーじゃないんだが)
そう思いつつも、樋口は低めのボールにバットを合わせる。
ライト前に運んで、まずは一安打。
(どうやっても三割五分以上にはいかないんだよなあ)
大介の取らない最多安打を狙っていこうにも、そこにもまた強力な競争相手がいる。
ほぼ毎年トリプルスリークラスの野手成績を残す樋口。
だがバッターとしての高みは異次元すぎて、とても届きそうなものではない。
幸いなのは樋口が、キャッチャーというかなり特殊なポジションにいること。
ただあの打撃の化け物も、ショートという内野の最重要ポジションを守っている。
常識的な天才と言える才能を持つ樋口は、本当にあのあたりのバッターのことが理解できない。
織田のような巧打者や、西郷のような強打者とは違う。
怪物としか例えようのない存在を前に、樋口はひたすら、常識的だと自分が考える数字を残す。
盗塁で二塁に進んだ樋口であるが、続く浅野が凡退して一回は両チーム得点なし。
ピッチャーの立ち上がりが崩れない、面白い試合になりそうである。
レックスの得点は、初回でなければ六回か七回に特に集中している。
先発が捉えられた当たりか、リリーフの代わり端か。
本日の場合は、とりあえず三回までは両チーム無得点。
特にフェニックスは、まだ一人のランナーも出ていない。
打たせて取るピッチングに、上手くはまってしまっている。
カーブやチェンジアップは変化も大きいが、緩急差の方がさらに際立っている。
三振を取るようなピッチングではなく、バックを任せて打たせていく。
それに早打ちをしてしまって、少ない球数で早くアウトになってしまっている。
これが技巧派のピッチングだ。
だが今日はあまりストレートを使わず、変化球で翻弄するようなピッチングなのだ。
プロのバッティングのレベルであると、下手に当てることまでは出来てしまう。
三回を投げて三振が一個だけというのも、前の試合と比べると極端すぎる差だ。
だが四回の表は、ストレートを使って三振、内野フライ、内野ゴロと、少し組み立てが変わった。
ストレートは釣り球という使い方が、この回からは積極的に球威で押してくる。
MAXも150km/hをオーバーし、詰まった打球が多くなった。
直史と対決したことのないバッターは、不気味な冷たさを感じている。
計算されたピッチングで、コースとスピードが上手く抑制されている。
変化球でその視線を誘導し、最後のストレートはしっかり伸びてくる。
完全な技巧派から、変化球も持った本格派への変更と言えばいいのか。
球速が年々上がっているプロの世界でも、150km/hが出たら、それは充分に速球派である。
ベンチに戻ってきた直史は、まだ一人のランナーも出していない。
とは言っても四回が終わった時点では、先のことなど考えられない。
首脳陣にしても、まずこちらが点を取らなければ話にならない。
ただ監督の木山は、球数だけは確認した。
四回が終わって35球。
完全に100球で完投できるペースである。
ここまでヒット一本に、フォアボール一つと、津末の出来も完璧に近い。
だがこの回先頭の樋口は、狙い球を絞っていった。
完全な投手戦に見える試合で展開が動くのは、守備のエラー。
もしくは一発であると、樋口はしっかりと分かっていた。
津末には直史ほどの完璧なコントロールはない。
なので樋口の必殺技とも言える、アウトロー狙い打ちが見事にはまった。
三球目のストレートが、やや甘く入ったところを打つ。
ライトスタンドに放り込んで、シーズン三号ホームラン。
そして一点となり試合が動いた。
一点が入ったことで、試合が動く流れとなった。
だが五回の表、その流れを止めてしまうのが直史である。
やや球数を使って、三振二つと内野ゴロ一つ。
自軍の打線が動かし始めた流れを、またも強制的に消してしまうのだ。
ただそれは一方的な展開。
レックスはその裏にも、下位打線ながら一点を追加する。
勘のいい人間は、奇妙な一致に気づいただろうか。
2-0というのは、直史が開幕で勝利したスコアである。
このスコアには意味があって、直史としては単発であれば、ホームランを許容できる点差なのだ。
なのでわずかにホームランを打たれる可能性を考えても、高めのコースに投げ込んでいける。
そしてそのコンビネーションを、樋口もしっかりと理解している。
多少のボール球であっても、高めならバッターは手が出る。
その習性を利用して、外角高めのボールを振らせる。
あるいはそこでファールを打たせて、ストライクカウントを稼ぐ。
そこから変化球の緩急差で、空振りか打ち損じを誘発するのだ。
六回を終えた時点で、フェニックスは先発津末を引っ込める。
代打を出したがあっさりとアウトとなり、七回の表となる。
レックスもおおよそは、先発は六回までというのが、通常時のパターンである。
だが球数が60球に達せず、しかもパーフェクトをやっているピッチャーを、代えるバカはいない。
七回表のマウンドに立った直史は、バックスクリーンビジョンの、綺麗に並んだ0の数字を眺める。
もう一点ぐらいあれば、さらに球数を減らす配球に出来る。
いや、それとも一本ヒットが出れば、そこでリリーフと交代だろうか。
ただ交代させるには、まだまだ球数が増えていない。
一番から始まるこの回を、硬軟取り混ぜたピッチングで封じる直史。
さすがにフェニックスベンチも、もう冷静ではいられなくなる。
一番打者から始まった七回が、三人で終わった。
つまりここまで、一人のランナーも出ていない。
パーフェクトピッチング継続のまま、残りのイニングは二回である。
「馬鹿な……」
全く違う人間の口から、同じ言葉が洩れる。
16イニング連続未出塁。
確かにそれは甲子園で、直史がやったことに近い。
だが高校野球の最高峰である甲子園であっても、そのバッターのレベルはプロには全く及ばない。
「関係ないのか……」
相手のバッターのレベルなど関係ない。
100の力を持つものにとっては、1の力の持ち主も、2の力の持ち主も、10の力の持ち主も、格下であることは同じなのか。
パーフェクトピッチングは、奇跡ではない。
むしろ佐藤直史を、普通のピッチャーのように打てることの方が、奇跡であるのか。
八回が終わって、九回の表。
奇妙な静寂の中で、直史はマウンドに立つ。
代打を告げられたバッターが打席に立つ。
サウスポーが全く打てない代打の切り札が、シンカーを空振りして三振。
そしてまたも代打は、小技の利くベテランである。
バントの姿勢などを見せたが、直史は全く動揺せずにゾーンに投げ込んできた。
バスターのようにバットを引いて打つが、ファースト正面へのゴロ。
ツーアウトになる。
最後の代打は悲惨であった。
応援の歓声などが、聞こえなくなっている。
カメラやビジョンなどの、機械の音が神宮球場で鳴り響く。
球場外からの生活音が、観客席に届く。
ゾーンに投げられた球を、振ることが出来ない。
金縛りにあった己の体を、バッターボックスを外してほぐす。
バットの振り方を忘れたのか、それとも運動系が麻痺しているのか。
直史の第三球目は、かなり高めに外れたストレートであった。
だがそのボールの下を、バットは叩いた。
打球は内野フライ。ピッチャーの頭上。
それを捕ろうとしてファーストとサードが共にこけて、直史はそのまま一歩前進し、ボールをキャッチする。
スリーアウト試合終了。
プロ初登板は無理であったが、プロ初先発にして、パーフェクトピッチング。
もちろんNPB史上初めてのことであり、笑いもせずに直史がそのグラブを高々と掲げると、球場内に音が戻ってきた。
爆音の中で、バッテリーはひどく冷静に、とりあえず握手をするのであった。
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