第百三話 マリー・エドワーズたちは『歌うたいの竪琴』の店内に入る
真珠を左腕で抱いた母親の右手を握り、マリーは夜の道を歩く。
プレイヤーが集まる広場を抜けると、ゆるやかな下り坂が続いた。
酔っ払って騒ぐ男たちや派手なメイクできわどい服を着た女たちの姿が目につく脇道に入ると、マリーの鼻を仄かな酒の香りがくすぐる。システムの制限がなければすごく酒臭いのかもしれない。
曲がりくねった道を右に折れ、左に折れたところでマリーは道を覚えることを諦めた。
地図アプリがない状況で道を覚えることは難しい。最悪、迷子になったら教会に死に戻ろうとマリーは思う。
「……ついたわ」
母親は、賑やかに騒ぐ声と楽器の音色が聞こえる酒場の前で足を止めて言った。酒の匂いに混じって潮の香りがする。喧騒にまぎれて遠く、微かに波音が聞こえる気がする。
ここが『歌うたいの竪琴』か。マリーは波音から意識を離して、店内から聞こえてくる音楽に耳を傾けた。
『アルカディアオンライン』をプレイして、初めて耳にする音楽。
ゲームにはBGMが付き物で、スタート画面から音楽が流れるし、リアルではいつもどこかで音楽が流れていて耳にしている。
だから、悠里にとって音楽は当たり前に身近にあるものだった。吹奏楽部で生の楽器の音も耳にしている。
でもマリーは、楽器の音に触れるのは初めてだ。軽やかなテンポの曲に心が躍る。
聞こえてくるのは素朴過ぎる演奏で、リアルで出会ったら、素通りして見向きもしなかったかもしれない。
真珠も音楽を聞くのが楽しいようで、耳をぴくぴく動かしながらリズムに合わせて尻尾を振っている。
「中に入るわよ」
母親は緊張した表情を浮かべて、軽快な音楽も耳に入らない様子で言った。彼女は真珠を抱く腕に力を込め、マリーの手を引いて店内に足を進めた。
『歌うたいの竪琴』の店の扉が開いて、店内にいる客の一部と演奏者たちは新たな客かと視線を向けた。
竪琴や木の横笛を演奏していた演奏者たちは、意外な組み合わせの客の姿に驚き、思わず演奏を止めてしまった。
入って来たのは白い毛並みに青い目をした子犬を抱き、幼女の手を引いた女だった。
女は地味で簡素な服を着ている。酒場に入り浸る女のように派手な化粧をしているわけではないが、目を惹く美人だ。
幼女は女に似た顔立ちで、栗色の髪に青い目の愛らしい子だった。おそらく親子だろうと竪琴の奏者は思う。
マリーは自分たちが店内に入った途端に演奏が止まって驚いた。
演奏が止まったことに気づいた客の目が、演奏者を見た後に、彼らが凝視しているマリーたちに向けられてたじろぐ。
母親は店内の客の視線に怖気づくことなく、酒場のカウンターに向かった。
母親に手を引かれたマリーは、周囲の様子を窺いながら歩く。
真珠は怯えるマリーの姿に気づいて、耳を立て、いつでも母親の腕から飛び出してマリーを守れるように警戒態勢に入った。
演奏者たちがそれぞれに、再び演奏を始めた。
マリーたちに注目していた客たちは、演奏と共に騒ぎはじめ、店内は明るい喧騒で満ちていく。
母親は酒場のカウンター前に立ち、カウンターの中にいる顎鬚を生やした男を見つけて口を開いた。
「お久しぶりです。ダリルさん」
この男がクレムの父親か。マリーは男の顔をじっと見つめる。
男の顔にそばかすはなく、クレムとは全然似ていない。クレムは母親似なのかもしれない。
「久しぶりだな。ハンナ」
名前を呼び捨てにした!!
マリーの中に、再び乙女ゲーム的展開への期待が灯る。だが、二人の顔に笑顔はない。
真剣な顔で見つめ合う母親とクレムを見て、マリーも表情を引き締めた。
「少し話せますか?」
「ああ。奥の部屋に行こう」
ダリルはカウンター内にいるバーテンダーに指示を出してからカウンターを出る。
そしてマリーたちに自分について来るように言って、歩き出した。
***
若葉月9日 夜(5時35分)=5月5日 14:35
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます